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北杜市人物伝 白州町 中山正俊
(資料『中央線 1971 7号』三人の北巨摩人「生き甲斐」とは何であったか 保坂忠信著 一部加筆)

身辺に感じられる三人の北巨摩人の先達を思い浮べながら、明治、大正と牛きてきた三人の足跡の中に、編集の方からいいつけられた「生き甲斐」を探ってみることにした。
北巨摩人という言葉があるかどうか知らないが、北巨摩の人の特質を私は抽象することが出来るように感じる。それは峡南の人々から感じた一種の物柔かさ、峡東で感じる剛気不周が甲州人の特色を示すアクセントであるなら、北巨摩の人々は、千古の人問経験を蓄積した地殻のような皮膚の厚さを感じる、どっしりとした重さを感じる。私が身近の人(仕事の上からも、精神的にも)として取り上げようとしている三人の方はその馨咳(せいがい)には接してはいないが併しその書き残した言葉と業績に、この北巨摩人を感じる。三人は教育者=文化人であった。
北巨摩が郷土に生涯をかける教師、公務員の産地であるといわれるが、これは学問を愛する大衆の多いことを意味する。
韮崎市、北巨摩郡が中学から高校への進学率で県下において最高地域の一つであることはこれを示している。

中山正俊(生、1855:9:25〜歿、1917:8:26)(安政2-大正6年)
駒峰と号した漢学者、教育家である。駒城村横手の現、中山夏雄白州町教育長の家で生れた。幼時から論語を誦じ漢文の作文に長じた。微典館に入り、藤原多魔樹、竹内忠に漢学を習い、上京して岡鹿についた。明治十六年微典館助教諭、二十年尋常師範、三十一年尋常中学校(現甲府二高)の教諭となり、退職迄三十年間、漢文倫理を教えた。帝国教育会は教育功碑を以て是を讃えた。
正俊の住居は横近習町二丁目(現中央二丁目)で私の家の近くである富士川小学校裏手で門構えの武家屋敷風の家であった。私は正俊をみたことはないが、正俊の弟循夫(よしお)は伯父に当るので、伯父に似た下俊の写真から自ずと容ぼうが察しられる。目がぎょろりとして、子供にはとっつきにくかった村長さんであったが、優しい言葉で話しかけてくれたのを覚えている。「辱交/楓園/名取忠愛謹撰」の「中山駒峰先生碑」によると、人となりが温厚寡言で右子の風、頗る古君子の風がある、とあるから、これは、私のいった北巨摩人的特質のように感じられる。
彼が仕えた校長は黒川雲登、幣原坦(後に、広島高師校長、台湾帝大総長)、大島正健など甲府中学を人材の府たらしめた
偉大な教育者達であった。
漢学者としては香南香川小次郎と並び文章に長じ、弟子「雲の如く」正俊会を作ったと、名取翁は書かれている。甲申校友会誌第一号は明治三十年十月発刊してあるが、発刊を祝して、彼は朋友の道をといて、校友会のあるべき姿を示唆した。今生徒会は「団結」の力というが、ここに七十五年の時間の経週がある。質実剛毅と勤勉を以って、列強に追いつこうとした時代であった、併し単なる儒者ではなかった、マルコポー口見聞記を、「璃氏著東洋記」と漢文で書き、「欧米に遊ぶ人を送りて」「巴里の道羅馬の丘をたどるともよるは御国の杖にそありける」と歌って日本の心を強調した。万橋湛山、小林長勲、内藤多伸、小尾範治、浅尾新甫、林□みな当時の生徒であった。野尻抱影先生とも教貫室を共にしたことがあった筈である。教育者としての旺盛な気力はこの生き甲斐の自覚にあったのであろう。(四六・二・二七)
(日本英文学史会員)

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