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江戸上納米の記
文政八年十二月
御廻米御用中日記
蒲原浜
壱番     出役名主
《資料文献 小沢文夫氏著(『中央線』 1968 爽涼号 中央線社)》(一部加筆)

 古い車箪笥の片すみに残っていた古文書中の一冊がこの御廻米御用日記である。武川米と藤井米は一時河原部河岸から船に積んだこともあるが、鰍沢河岸の反対にあって中止となり船積みはすべて鰍沢より下流となったので鰍沢までは馬で運ぶようになった。
 この御廻米は大変な苦心のすえ、江戸蔵前の蔵差に渡された。無事納米して帰国し、御役完了を甲府御役所へ報告してようやく大任を果したわけである。その実録がこれである。(役所役人名等を記した前文を省略)


十二月十二日、
村方出立鰍沢宿江戸屋杢兵衛方に一宿致夫より船にて南部駅まで九里乗たり。右宿みなとや郷右衛門方に止宿。
十二月十四日、
南部出船にて岩淵河岸迄九ツ時乗付御出役御見舞相済蒲原間屋に一宿。
十二月十五日、
浜詰所へ引帰ス。
十二月十五日、
林金五郎様御支配所青柳岸船積御廻来、岩淵尼ケ淵と申所にて破船仕蒲原御懸リ故御出役様一同岩淵迄参リ岩淵宿出役名主と懸ケ合
十二月十五日・十六日・十七日・十八日迄、
岩淵に滞留仕種カ掛合是迄之振合格別相違にて蒲原出役名主取計方宜敷相成候。
十二月十八日、
蒲原へ帰り十八日夜雨降。
十二月十九日、
天気尤蒲原ニ浜漁士共甲州より出侯材木いかだ引船に乗り夜九ツ時より風烈難風故破破致し任夫損し残もの共半死半生にて而豆州小津浦へ上り申候
十二月廿日、
甲州御廻米間屋清水初次郎方へ参り被積り出懸之儀府中へ(中)川陸功様御出之時府中へ参り買物いたし候・郷宿浅田屋に泊リ申し候亭主至て発明人と見請申候。
十二月廿一日、
府中出立清水へ廻行候、はりまや初次郎殿方にてちそう(馳走)に相成同日七ツ時より中川様御帳面にて江尻宿早籠に乗リ夜四ツ時蒲原迄帰り申候尤御御定賃銭にて
十二月廿二日、
高崎兵吉様蒲原問屋着御出向に武井久蔵参リ、間屋一泊
十二月廿三日、
初メ清水湊へ小廻し乗人久蔵間屋五左衛門朝五ツ時出船。
十二月廿四日、
諾所日待御出役間屋後見差添一同振舞祭之蒲原宿法印相頼酒肴吸物弐つ大平どんぶり取肴さしみ硯蓋本膳菜飯共廿八人斗御小屋人足共に
十二月廿五日、
天気尤ひるよりならべ風ありくもり、法印へ謝礼久蔵両人にて参候豆州大浦よりさゞい貝多分来ル。
十二月廿六日、
夜七ツ時より柄ふり岩淵附送り一向無之手透候や
十二月廿七日、
町雪降申候尤浜辺ハ一向に溜リ不申蒲原駅後の山は雪少々積り伊豆浦山も一面に雪と相見申候。
十二月廿八日、
上天気に相成岩淵河岸汐御米参ル、平川仁右衛門清水湊へ御前備に参、問屋後見伊兵衛も一同也。問屋常右衛門方もちつき也。海上去ル十四日着此方大荒にて浪至て大きく船共不残陸に上ル人数凡そ百五十人斗中ニハはだかになり浪の中入て船引揚る躰誠にかんじ入ル、問屋五左衛門へもちそ而呼れ申候、蒲原にてハ節ち餅の事をあんもといふ名を付たり。
十二月廿九日、
岩淵より御米附送なし蒲原宿松のや江旦那一同そばくいに参り帰りにめしもり共をそ上り大さわぎにて五左衛門方迄帰り夜八ツ時迄遊申候。
十二月大晦日、
一日且那屋敷へ参り茶酒吸物三四ツ取肴さしみ硯蓋にて楽し、晩には命そばくいくらいたし申候屋く払かずかず来り漸々十三年来此方面白き筆を取間屋其外油十所々詰所出入もの、歳幕肴青物類沢山にもらい申候。
文政九年一月
正月元日、
先早朝起て雑煮をくひはかまで御蔵台へ一礼いたし夫より間屋へ参り朝湯へ入り、旦那へ年始の寿申上間屋より吸物三つ肴硯蓋等にて桜飯之振舞也。
夫より氏神すわ明神へ参詣且那とさいか宗之寺へ参問屋場所々年始相廻り詰所へ帰旦那間屋一同詰所へ年礼詰所にて吸物弐つ硯蓋にて年酒出ス、其夜ハ大さわぎにて踊り、

正月二日、
岩淵へ旦那問屋我等共一同駕籠にて四挺一匹乗出ス、岩淵問屋伊右衛門にて種々ちそう出ス、是も吸物四つ斗酒肴出ス、河野様十三ぼん福引をいたし、壱番勝がおかめの面に、すりこぎへしめをかざり壱番勝ちにあたるものハおかめの面をかむり踊を始る約談也。問屋壱番におどる大踊り不残相仕廻し踊り不致ものハ吸物椀にて三盃宛ヲいきなし呑取定也。中郡万歳村土井茂兵衛様と申人は六十余りにておかめの面をかむり踊申、又ハ河内領車田村儀右衛門といふ人ハ踊り不相成三ばいいきなし呑申候、其外拾ま三人一同に踊り大さわぎにて夜に入一同駕籠にて帰り、其夜ハ蒲原宿にて御勘定御普請御泊りにて清水より高崎兵吉様御勘定御機嫌伺出候、夜四ツ時参り出役名(主)善右衛門御供也

正月三日
天気蒲原之古城跡へ登り旦那一同、石のに貝のかたちの石不残り有、中を割て取なり、此城はかんばら城主北条新三郎と申人也、武田信玄公之為に落城也。夫より下り蒲原本陣屋敷見物いたし、帰り留主之内岩淵より且那問屋出役名主一同年礼問屋五左衛門宅にて大さわぎし、大踊不残四人にて踊くるい御仕廻、岩淵且那一同宿へ出女郎共をひやかし帰る、山田屋文四郎案内也誠に大さわぎ面白事也。

正月四日
上天気、海上静出御米三千五十俵出帆上乗久蔵某弐人也、朝七ツ時より船数十三艘人足大勢出テ船へ米を入船出ス比は日之出也。
清水湊着之比四ツ時也向嶋へ行米揚いたし、はりまやにて御年始相済種々吸物三ツ酒肴数々出ルなり。向嶋御廻しの様子昼時より見物に致て其日はりまやに泊り帰り陸路を岩淵出役、名主一同にてゆるゆる帰り也、清見寺参詣さった峠倉沢と一見いたしたのしみ帰り相話也。

正月五日
所々宿めしもりひやかし八ツ時かんばらへ帰り、八ツ半時より雨ふり也、朝は天気、船ニハい御米積出帆上乗仁右衛門也。海陸行違也仁右衛門又はりまやに泊り也。

正月六日
天気に相成、岩淵より御送申御米引も不切附送り有り、旦那清水へ年始御出也、其昼そばいだし申候。
正月七日迄安心に正月いたし申侯、
六日岩淵尼ケ淵にて北組御米拾五俵破侯に付東組岩淵出役万歳茂兵衛殿御届として清水参也。
同日久蔵ふじ郡元市場参申候。

正月八日
清水より且那御帰りにてすし三筋土産にもらい申候、夜は酒ゑんにて夜の八ツ時間屋にあそび申候、夫より且那ハ岩淵参申候、御送人ハ久蔵也。

正月九日
清水湊三艘小廻し仁右衛門参り上乗仕候而日戻り帰り道々面白き事御申候、興津より由井迄駕にのり申候、且那岩淵、御帰り同十日小廻し有上乗伊兵衛一人也、同より大熊様岩淵御着御きげんに仁右衛町乗参り帰り金毘羅様へ参詣蒲原岩淵在役不残参詣夜入帰候。蒲原宿屋にて泊りとて留られ宿賃杯取定候、家へ行はへられ候事面白く新ら屋といふ宿屋にてつい泊詰所出役方とて顕れおかしく問屋迄もと申候吉田重蔵様相咄御笑候。

正月十一日
大熊健吉様蒲原浜御見分間屋へ御泊り海上之あミ引之躰を見分いたし候得共魚一向に取不申。

正月十二日
御米おひ山之処送りにて甲州上曽根村仁右衛門殿舎弟無蔵殿乗申候而清水へ参申候、清水出役へ小状出ス。

正月十三日
岩淵より川内領出役儀右衛門殿是より当詰合也。同人より国元内方教来石(現在の白州町集落)より之書状請取披見いたし悉く存候、家内村方之衆に相し心ちいたし、同日清吉様より書状申候書状到来、大小間屋出役名主あらそいもらハれ申候、誠身面白とよろこび一人嬉しくぞんじ候。

正月十四日
岩淵御米送り有之清水より仁右衛門殿弟舞蔵殿帰り宿中連あるき楽しミ申候。

正月十五日
御普請役様旦那様へ御礼に差上り申候。

正月十六日
大雨ふり
正月十七日
儀右衛門立戻久能山参詣仁右衛門岩淵へ北村様御所に付門屋一同御機嫌窺に参申候、上天気に成海上漁船出て漁有。

正月十八日
小廻し久蔵儀右衛門上乗清水湊へ行

正月十九日
小廻し佐重郎仁右衛門渚水湊行、海上ならへ風にて浪荒船に酔い申、其前日夜清水湊唐船入津唐より壱丁斗離れ乗込商船叉ハ海船などは一円御差留にて御番船己たれ共御城米故日丸幟卸故御組無御座候、清水より府中へ買物に参り、儀右衛門殿二泊り、明日清水湊いりまや迄帰り泊り。

正月二十日
小廻儀右衛門上乗り日戻りにかえり申候。

正月二十一日
小廻し不残相済申且那一同久蔵上乗り、同日市川御出役総江一次様御出。

正月二十二日
岩淵河野様出役名主一同清水湊へ仕揚行申候、同日御普請様並びに総江様吉田様一同清水へ御出御送り、五左衛門儀右衛門同日長門様御通り見物いたし候、本陣にて御小休御家老国司信濃也

正月二十三日
勘定しらべ申候

正月二十四日
清水へ一同参申候

正月二十五日
清水はりまや大こんざついたし申候、料理人五人女中八九人也

正月二十六日
府中へ御戻り矢入屋買物浅問様へ参申候、二丁町見物いたし前にて河野様吉田様総江様浅問へ附二町にて御あそび、

正月二十七日
御帰り被成候仕揚帳印形相済申候、同日夜分に蒲原迄吉田様御帰り、御供久蔵儀右衛門御普請様も大熊様北村様御帰り被致申候。

正月二十八日
二十八日も仕揚下済中川様より金子請取清水宿戻り、暇乞いいたし罷帰申侯、同日御立会様方不残ら御引払吉原宿御帰り故御見送人儀右衛門久蔵也、諸勘定いたし候故手間取通りかごに乗り急ギ申候。

正月二十九日
田河野両且那引払岩淵迄仁右衛門某御見送申候、清水湊問屋善右衛門、所太郎左衛門、同晦日出立支度にて甚世敷中の衆孫兵衛庄八荷物手伝いたし、いとま酒買八都右衛門江遣し申候。

二月朔日
宿内いとまこひいたし候、間屋五左衛門後見伊兵衛、親類七兵衛、山田文左衛門、油屋重五郎宿ハつれ千年屋迄送リ別れの酒肴にて大さわぎにて引払申候、夫より岩淵にて人馬継立人足才領孫兵衛也、松野村迄着き同村にて昼飯いたし、夫より万沢宿に着き御関所へ御届ケ申、問屋吉田屋に泊り、

二月二日
道中筋御用人足馬故恐入万沢宿にてハ軽尻四疋之所へ馬八疋差出荷物分合南部宿迄継送申候。

二月三日
南部より人足拾八人出下山迄送り、同日身延山参詣孫兵衛を駿河へ返ス、せんべつ遣し申候、同日車田村儀右衛門殿へ泊リいろいろちそうに相成申候。

二月四日
かじか沢江戸屋杢兵衛殿江泊り申候。

二月五日
上河東村久蔵殿に泊り、

二月六日
上曽根村仁右衛門様に泊り、久蔵様一同に参申候、早々ちそうに相成申候、滞留いたし、

二月八日
 下小河東村久蔵殿先へ御出張御待請被成候。

二月九日
 甲府へ出張申候。

二月十日
御役所へ御届ケ奉申候

二月十一日

二月十二日
滞留

二月十三日
帰村〔原文のまま〕

北杜市人物伝 須玉町 津金馨(かおる)
(生1887:10:19〜歿1965:3:20)(明治30年〜昭和40年)
(資料『中央線 1971 7号』三人の北巨摩人「生き甲斐」とは何であったか 保坂忠信著 一部加筆)

身辺に感じられる三人の北巨摩人の先達を思い浮べながら、明治、大正と牛きてきた三人の足跡の中に、編集の方からいいつけられた「生き甲斐」を探ってみることにした。
北巨摩人という言葉があるかどうか知らないが、北巨摩の人の特質を私は抽象することが出来るように感じる。それは峡南の人々から感じた一種の物柔かさ、峡東で感じる剛気不周が甲州人の特色を示すアクセントであるなら、北巨摩の人々は、千古の人問経験を蓄積した地殻のような皮膚の厚さを感じる、どっしりとした重さを感じる。私が身近の人(仕事の上からも、精神的にも)として取り上げようとしている三人の方はその馨咳(せいがい)には接してはいないが併しその書き残した言葉と業績に、この北巨摩人を感じる。三人は教育者=文化人であった。
北巨摩が郷土に生涯をかける教師、公務員の産地であるといわれるが、これは学問を愛する大衆の多いことを意味する。
韮崎市、北巨摩郡が中学から高校への進学率で県下において最高地域の一つであることはこれを示している。

津金馨(かおる)
須玉町大津金で生れ、高根町安都那高等小学校をへて山梨県立第一中学校、金沢第四高等学校、東京帝大英文学科を明治四十四年に卒業、直に土浦中学校に奉職したが一年でやめ、大正二年から昭和二十年で退職故郷に帰る迄、実業之日本社に勤め、神学博土ジエイ・アー、ミラーの「日々之基督」(大正元年、732ページ、内外出版協会発行)同じ著者の「青年の問題」(296ページ)の訳書がある。
ペンネームは、澗村・(「自分の家が谷間のような処にあるから)」といった。これらの書は「日本の基督信徒及び末だ基督教を信ぜざる人力の需要に適したる基督教文学の著作及弘布にあり。
日本にある基督教ミツシヨンの同盟を代表せるが故に公同的精神を以て立てるものなり。」とこの協会も著者が必ずしもキリスト教の信者でないことを断っている。澗村が望んだものは、人生に如何に生きるべきかの解決にあった。故郷に帰って、農耕と読書の生活に入り、自費パンフレット「山林生活」(昭和29年10月から35年10月迄、十三集続き眼疾のためやめた。)を出した。例えば、その一冊の「自然の真と自由」では「リバティー」と「フリドダム」の違いについて論じ、パトリック・ヘンリイが自由を与えよ、然らずんば、死を与えよ。といったのは、外部から与えられる自由で、つまり、リバティーであった。私が望んでいるのは、真の自由、フリーダムである。心の修錬によって、白分の心の中に、自由の天国を建設することに外ならない。悟りの境地、雲水を友とし、自然に帰する自由、西行法師やイギリスの詩人ワーズワースが求めた自由、蚤をいたわった一茶、虱(しらみ)にまで愛情を注いだ良寛和尚、豪華な邸宅を藩主から貰ったその日に勿然と姿を消した元禄の名書家北島雪山、「春風や碁盤の上の置き手紙」の名吟を残し一所不住の生活を送った俳人丼月、みな真の自由を求めた人々で、ピケやすわりこみのデモ戦術で外部からもぎとってくる自由と全然異質のものである。だいたいこのように論じている。
澗村の求めた究極の生き方であった。この「無題進呈」の質素な冊子の中で、政治、経済、文芸に広い視野と深い洞察をもって、軽妙遵勁な筆を駆使したのである。正に、名コメンティター(時事評論家)、でありエセイスト(随筆家)であった。山梨のジヤーナリズムにこの齢は老いたけれども、円熟して、無慾で精偉な文人を迎えたいものであった。澗村を私が知ったのは、古本屋で畏友猪股松太郎氏が彼の「英和対訳欧米近代文豪美文抄」(阻治四十五年、実業之日本社発行)を探し出してきてくれたからである。ゴルキー、トルストイ、ドーデ、チ工―ホフ、ドストイェフスキィ、ツルゲネーフ、メーテルリンク.ビョルンソン、イプセン、ソラ、フローベル、ハーデイー・ワィルド等々と大陸及びイギリス文学の粋が百花繚乱と咲き乱れているのは単なる英文解釈書でなくて、英語文学鑑賞の入門書といってよい。彼の文学趣味の巾の広さも示しているばかりでなく、英文の読み方の確かさも示した優れた書であると思う。
そればかりでな<文語、口語、修辞法、美文体の乱立していた明治末期に彼は既に次のような口語体でオスカー・ワイルドの
「深遠から」(ド・プロフアンデイス)を訳しているのは特に注目に価する。「かのゴドチエーが言ったように、私はじ来常に
『世界は吾が為に現存するものだ』と考える者の一人であった。
けれども私は一個の自覚を持っている。花の美しい葉だけでも満足出来ないことはないかも知れぬ。けれどもこれら美しいものの奥に何らの聖霊(たましい)が隠れている、と私は自覚しているのである。」(仮名遣いは私が直す)彼は既に現代文を確
立していたのである。彫心艦骨の文体を生んだのである。翻訳と文章道への精進と、自然への帰一、優れた文人がもつ生き甲斐を、青年時代は市井において、退隠しては故郷の自然に求めたのである。
主客去って灰皿煙り春炬燵
花葛の藪下に水湧いており(山林雑詠十二より)

北杜市人物伝 明野町 永峯秀樹
(生1848:6:1〜歿1927:12:3)
(資料『中央線 1971 7号』 一部加筆)

身辺に感じられる三人の北巨摩人の先達を思い浮べながら、明治、大正と牛きてきた三人の足跡の中に、編集の方からいいつけられた「生き甲斐」を探ってみることにした。
北巨摩人という言葉があるかどうか知らないが、北巨摩の人の特質を私は抽象することが出来るように感じる。それは峡南の人々から感じた一種の物柔かさ、峡東で感じる剛気不周が甲州人の特色を示すアクセントであるなら、北巨摩の人々は、千古の人問経験を蓄積した地殻のような皮膚の厚さを感じる、どっしりとした重さを感じる。私が身近の人(仕事の上からも、精神的にも)として取り上げようとしている三人の方はその馨咳(せいがい)には接してはいないが併しその書き残した言葉と業績に、この北巨摩人を感じる。三人は教育者=文化人であった。
北巨摩が郷土に生涯をかける教師、公務員の産地であるといわれるが、これは学問を愛する大衆の多いことを意味する。
韮崎市、北巨摩郡が中学から高校への進学率で県下において最高地域の一つであることはこれを示している。
永峯秀樹
明野村浅尾新田の蘭方医小野通仙の四男(末子)として生れた。長男、泉は県立病院創設者、次男実も蘭方医戸塚文海の弟子、実の孫娘に小野勇二氏(甲痢市小野病院長)を迎えている。三男民也は京都の有名な広瀬元恭の弟子、この四人兄弟の叔父には日本画家の三枝雲岱がいる。故、柳田泉先生は「永峯秀樹伝」(「明治初期翻訳文学の研先」春秋社発行)で昭和二年九月、秀樹(七十九才)より直聞の話しを克明に伝えておられる。それによると、秀樹は茅か嶽の麓の兄の家で子守をしながら勉強していたが、甲府で開業した父に呼びよせられ、お城の中にある徴典館に入り四書五経を学び詩文にも上達した。(後に彼が翻訳した「智氏家訓」の序には当世流に彼自ら漢文で「査斯徳費耳土公(チェストルフイールド公)小伝)と書いている)十五、六の時、「二十になったら独立せよ」と父に言われる。
少年志士気取りで黄芸に励み、行学相伴った。京都から江戸へ。
その頃永峯という武士の家の株が空いていたのでそこに入り、永峯姓を名乗り士族となる。その頃から洋行を考えていた。幕末志士として飛び廻ったが王政維新となり、徳川家の武土と共に静岡へ。沼津の兵学校に入り英数を勉強し始めた。地理やパーレーの万国史(当時流行の本)を通し国際事情が分かると、海軍に入り、日本を護らねばならぬと思った。明治四年に築地の海軍兵学校へ。そこへは生徒になる積りで入ったが、数学の教師が不足していて、教師となる。明治三十五年退官迄三十年間、数学理科の教師であった。
彼の人生は、世界の様子を知らせて「日本人の島国的独尊心をくじくこと」のために、翻訳に捧げられたのである。彼が明治八年十月十九日に甲府常盤町四番地内藤伝右衛門(蔵版)から発行した「物理間答」「二冊を甲府の古本屋で発見した時の嬉しさを私は忘れられないこれは篠尾村今井某氏の使用されたものである。「物及ヒ物性論」「重カ論」「運動論」「光論」「天文論」などがある。「アメリカのウェル及びクェツケンボスの物理書中より抄訳、物理ノ学タルヤ人家ノ日用ニシテ各人知ラ,ザル可ラザル者トス」とある。「智氏家訓」(三冊)明治十一年八月十九日、静岡県士族永峯秀樹訳述兼発行となっているがイギリスのチェスターフイールドが子供に与えた日常生活の規範で、一種の修身書である。(明治四年には微典館の教頭をしたことのある中村敬宇の「西国立志篇」が出て、明治初期のベストセラーになっていた。)
私がみつけた本は東山梨郡小佐手村某氏のものである、当時県下に広く愛読された様子が分かる。
ギゾオの「欧州文明史」アラビアンナイトの日本の最初の訳本である「暴夜物語」(二冊)(静岡県立葵文庫ですぐ借り出すことができる)ミルの「代議政体」から農業の本にいたる迄、彼は日本人の眼を世界に見開かせる努力を続けた。柳田先生が、「明治の初期文化功労者」として高く評価しておられるのも当然である。
小野家の跡地は浅尾新田の明野線の大榎のあるバス停から南へ少しいった処にある。その空地を南へ上った小高い丘に小野家の墓石が並んでいた。併し秀樹の墓があったは思われなかった。彼の生き甲斐は、文明開化の先鎗になることであった。

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