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茅点景(茅ケ岳)太宰治の死
多田莞氏著(『中央線』1968 中央線社 掲載 一部加筆)

茅に金峰に秋たちて里に流るる七草よ

子供のころこんな歌を聞いたことがある。しかしこれ以外に茅が歌われていることを聞いたことがない。名画や名文の中に茅のいることを知らない。
茅ケ岳、一七六四メートル。古い休火山である。竈二重火山で外輪山の火口壁は破壊せられ、芽ケ岳とその北方の金ケ岳は旧火口を破ってできた新しい火山と聞く。新火山といっても、もちろん富士や八ツとは比較にならないずっと昔にできあがっているのだ。あの謙虚な稜線がいい。それにあの裾野、悠然とした傾斜に従って南に登美の高地をつくり、北は浅尾の広野をつくって八ツの裾野に連接している。あの規模は茅ケ岳だけのものだ。大きいのだ。古いのだ。大家である。老成しているのだ。だがちょっと誤れば、老獪(かい)、老醜のそしりを免れなくなりそうだが、そんな危険には無頓着で、おのれの天分とおのれの運命を信じきって、追随せず、妥協せず厳然としているのがいい。
孤高である。いや孤高というには低すぎるか。とにかく孤独。毅然とした孤独。ひとりでよくやっているなあというあの感じ、そんなものが茅の個性なのだ。
小学六年生の秋、ぼくは修学旅行に旅立った。熟田神宮にお参りし、名古屋城を眺め、翌日二見浦の日の出を拝んでから内宮に参拝するというコースで、ぼくにとって修学旅行と名のつく、最初の旅行であると同時に最後の旅行でもあった。日本が戦勝気分に酔っていた時代である。
早朝の韮崎駅。汽車は媒煙を吐き吐き七里岩をのぼる。俯瞮すると駅広場。人がいる。見送り人がいる。車窓の少年たちは喚声をあげ手を振る。ぼくも手を振った。だがぼくを見送ってくれる人はいない。母親という贅沢な存在は失われていたのである。しかたなくぼくは手だけそのままにして、視線を移した。その視線の中に茅(茅ケ岳)がいた。そう、まさにいたという感じー寝冷えしないよう、腹をこわさないよう、新調した帽子を飛ばさないよう、そう言っている慈母の姿だった。だがぼくはすねた。泣いた。しかし茅はどう見ても慈母の姿などというロマソチツクな存在ではない。山の中のすねものだ。ぼくのすねた心はあの時茅から移植されたのかもしれない。當士に見おろされているからいけないのだ。にせ八ツなどと軽蔑されているからいけないのだ。だが茅がいかに山の中のすねものだろうと、けっして下品でないからいい。冷厳なまでの気品、風格、
そんなものを備えている。
昭和二十三年六月十五日、ぼくは玉幡の釜無川原の木陰に寝そべって、遠くに霞む小さい茅ケ岳を眺めていた。そして茅のあの諦めきつた表情は辟易だ。茅のあの老成した風貌はやりきれない。もつと酷しいもの、もつと峻厳なもの、死と対峙した冷酷なものが欲しい。そんなことを考えながら、少年らしい深刻な表情をつくっていたのである。それというのも、朝教室へはいったとたん眼にはいった黒板の落書きが大きな心の衝撃になっていたのである。

太宰治死す

戦後特異な作風をもって将来を嘱望されていた人気作家太宰治は、十四日未明、山崎富栄と連れだって玉川上水に入水情死せり。
辞世の詠、
池水は濁りににごり藤波の影もうつらず南降り続く。

誰かが新聞記事を披き書きしたものである。もちろん辞世の詠というのは自作ではなく、伊藤左千夫の作で、短冊にして伊馬春部に贈ったものだが、こんな文句が達筆で大書されていたのは大きな驚きだった。驚きというのは太宰治の情死ということばかりでなくこの新聞記事をいち早く読み取って「嘱望」だの「惜死」などというぼくのよく知らない熟語を書き慣れた筆致で書いている級友がいるということであった。
ぼくは興奮した。熱力学の講義が始まってからも、その跡を喰い入るように見つめていた。もちろん講義は耳にはいらない。ぼくはそっと教室を抜け出て来たのであつた。山梨工専が玉幡の飛行場跡の兵舎を使っていたころである。
太宰治という作家はぼくの記憶の底にあった。それより一月ほど前古本屋で求めた「展望」の前年二月号に「ヴィヨソの妻」というのがあって、漫然と眼を走らせていたが、読み終わってガクソと一撃をくらった。それは人生の深淵を覗いたような、大げさに言えば少年の人生観を根底からくつがえすような打撃であった。小説というのはリリシズムかロマンチシズムの上塗りにしかすぎないというようにしか思っていなかった十八歳の少年にとっては、それは魅力というよりは蠱惑的で倫理を越えた人間の美というようなものを感じたのだった。
あの作者が自殺する。やっぱりなあーだが情死とは句を意味するのだろう。そして実生活と小説との連りはどうなっているのだろう。ぼくはまじめに考えたのである。あの時の茅は忘れられない。けっして俗流に妥協せず、不遜なまでの矜持をもって聲えていた。
太宰治なんてわからない。だが人問にとって死と直面するような、何か魂を凝結させるような緊迫したものがあってもいいではないか。人類のためだの社会のためだのと大げさなことは言わない。ただ十八歳の少年の小さな魂を燃焼させるもの、そいつが欲しい。そう思って茅ケ岳を見ると、芽は淡雲に包まれて、冷淡に暖昧な微笑をもって見おろしていた。あの冷淡さ、あの無関心、あの茅はすばらしかった。
それから何年か経ってぼくは東京の病院にいた。大手術をしたのである。文学的想像力と実感とははたしてどの程度の距離があるものかと、その手術に触れた文学書を読みあさり、自分でも、もし助かった場合、自分の想像がどの程度正鵠を得たものになるか、というような意味で、術後の苦痛と生活とをあらかじめ書き綴っておいたのであるが、事実は想像の及ぶところではなかった。いかなる文学もいかなる想像も、けっして実感を的確に表現するものでないことを知ったのである。
ぼくは迷った。人生というのはこれほどの苦痛をためてもなおかつ生きるに価するものなのだろうか。そして文学はその人生のどこに位置するものだろうか、と。
そんなくだらないことを考えているある日、甲府の友人から駒ケ岳と茅ケ岳の二葉の写真が届いた。ぼくは嬉かった。すぐ病室の壁にはってもらった。いずれも早春のもので、駒には険しい雪が、茅には暖い雪が光っていた。かねがねぼくは雪の茅は気にいらなかった。あれは俗である。人まねである。みっともないと思っていた。だがその写真の茅は違っていた。等高線と平行して潔癖なまでの一線を画し、その上が雪。夕陽を反射しているのである。ぼくはやっぱり生きようと思った。
その日の夕方、主治医とは違う当番医が回診に見えた。
「ほほう、これは甲斐駒だね。ぼくも二回登ったことがある。フィアンセとね。全くすばらしかった。こちらはどこの山かね。裾野は小諸から見た浅間山麓に似ているが。」
ぼくはその日からその医師を軽蔑することにした。駒ケ岳に二度登った人が、どうして茅ケ岳の存在を認めないのだろう。爾来、いい山と見れば登りたくなり、いい女と見ればものにしたくなる男とはつきあわないことを決心した。
いい山でたくてもいい。いい男でなくてもいい。とにかくおのれの位置に不動の根を張り、高潔に生きるのが人の生活というものだ。ぼくはいまだに茅に登っていない。

太宰治 山梨県関係サイト
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E6%B2%BB%E3%80%80%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E7%9C%8C&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt

「西花輪の俳人 秀和」 「藤井町出身 須玉町の俳人 須玉町多麻東向の不老軒汀亀」
韮崎市藤井町の俳人 当麻戸神社の献額について
上野辰雄氏著(『中央線』 1968 爽涼号 中央線社)》(一部加筆)

『俳諸白根嶽』の貞享の昔から天保に至る迄数ある甲州俳書の中に遺憾ながら藤井町の人の名を見出せない。
藤井の梅童は勿論祝村の浄山房であり、下条の紀梅は中巨摩の旧二川村であり、『天明俳書』に見ゆる和秀に期待を掛けたが之も西花輪の人であった。
然らば藤井は元来俳句不毛の土地かと云うと決してそうではない。昔から県下に知られた藤井五千石の沃野であり、天明天保の両飢饉も他に比して被害は軽微にすみ、当時の百姓としては比較的経済にも恵まれて居たであろうし、叉江戸未期松坂三郎代官の奨励した辺見の郷学の時代に於いては、下条に里仁舎あり、駒井に行余館あり、尚叉それ以前稲倉の生山正方塾の出身老もかなりある筈、当時の学者即ち俳人である時代、俳人が育たない訳はない。
当麻戸神杜随神門の献額は、明和二年催主林李帯雲に依って納められた物である。明和二年と云ふと山県大弐が処刊されたのが明和四年で、今年から丁度二百年前であるから、二百二年前である。私の知って居る範囲こんな古い句額は近隣に見当らない立派な文化財であると同時に、郷土の当時の文化を知る貴重な資料である。
撰は羽揺である。羽揺は裏見寒話巻の四に府の俳諸師として蘭舟、白芳、一喋、調之、排之、星舟、洞佐と共に挙げられる正保時代から町名ある宗匠である。南下条・北下条比較的地域の人達の多い句の中に、和秀の句が催主林李帯雲の句を凌いで拾句以上も載せられている。

和秀とは現代鳥居の保坂善三武(韮崎工業高校教論)の当時の祖先である。
明治四十三年発行町田柳糖著「山県大弐」に依るとかの有名な国学者加点美光章に細字の百人一首を贈っている。
和秀てふ人おひのてすみに百人一首いとささやかに水のうつまさ書めぐらしたるを贈られけるをさめて待りて
源光章
「めづらしとたれか見さらむ水くきのあとまくはしき老のすさみを」
(和秀は旧北巨摩郡役所課長保坂善作氏の高祖父なり)
とある。善作氏は現当主善三氏の祖父で郡役所市役所に奉職明治時代矢張り和秀の筆名で当時の「えびかづら」「百花園」「玉園遺光」「柳子招爽集」等に俳句よりむしろ和歌に於いて充分活躍している。
元に戻るが和秀が光章に贈った百人一首の書は其の後時移り人変って「おふどう呉服店」主大木喬作氏の手に渡り、昭和初期の何かの展覧会に出品されたのを、当時又新杜に勤めて居られた善三氏の母堂さかえさん(韮崎市婦人会長)が見られたとの事である。
幸いこれと同じ物が保坂家に現存し、昨年八月十六日筑摩書房にて発行の「宮沢賢治全集」の書翰集集録の打ち合せのため、城西高校の小沢卓郎氏を囲んで保阪嘉内氏を知る我々地元グループに親戚の内藤新三・石原保磨の両氏を交えての会合の折拝見させて戴いた。
直径十糎にも満たない円形に「秋の田の」に始まる秋の字を少し大きく後は虫眼鏡を頼らねば判読出来得ない細書の此の書物には、只々同感嘆する許りであった。加えて和秀老は八十何才の老齢に眼鏡なしの書き物との事である。ともあれ学問の上ではとにかく年齢的には光章よりはるかに先輩であった事はうかがえる郷土に於ける国学の第一人者であろう。

須玉町多麻東向の不老軒汀亀
寛政九年東向村(須玉町多麻東向)の不老軒汀亀が死去して居る。只それだけでは間題はないが、寛政十一年其の子伴七の出した追善句集に依ると此の人は同じ郡の不二井の里中込の家に産れ、明和の頃縁あって東向の宮崎家に入婿して居る。『峡中俳家列伝』は、北巨摩郡藤井村の産、東向村に婿に行き寛政九年十一月十六日七十余才にて死去とあり、和秀老よりいささか後輩的の存在である。試みに昭和十五年小沢柳涯主幹の俳誌所載の『葛飾派系譜集』を調べて見よう。

法印派
芭蕉―空―自在府砥徳―二時庵自徳―奥野(甲斐韮崎代官)―宇石(宮崎汀亀)
と有り別表には、
素堂―黒露
―小倉稲後―甲州辺見二世幸松庵利躬―幸
―松庵利躬―
―甲府 諸角梅英
―基蔵庵泉布
―嵐光亭均土
―甲斐韮崎 湖南亭宇石
とある。此所で奥野宇石の事に触れるが、同じく『俳家列伝』に依ると、奥野三右衛門宇津谷亀谷会久保寺平衛門の俳諸興行にて小倉稲後と会ふ。天明二年より寛政二年迄韮崎代官、二時庵自徳(諏訪の人)に師事するとある。勿論江戸の人であり一橋陣屋最後の代官であろう。現に七里岩上平和観音の裏に此の人の建てた芭蕉「木枯塚」の碑が残っている。
話を元に戻して(山口)素堂亡き後の正統派二世を継いだのは勿論長谷川馬光であり、三世が溝口素丸であり、下って小林一茶あたりも其の流を汲んでゐる事は衆知の事実であるが、我が甲斐に於いては素堂の甥山口黒露が稲中庵として後をつぎ、稲中庵二世の小倉稲後と同格の者に泉布宇石がある事になる。天明年間稲後刊の『甲辰歳且』其の他二三の俳書でも宇石の句は大きく取り上げられ其の下に汀亀を始め、西井出、錦翠、同妻はつ、小倉、剰志、神取、尺二、等の名が連ねている。之に依ると稲後宇石の交友は最も深く、汀亀以下の俳人達もあらゆる点で指導されている事が伺える。とに角俳諧の上であっても当時代官と交際の出来る人、叉追善集の序文に富田武陵の書(甲府学問所の学頭)を貰える人は少くなく、名主級以上相当格式の高い家の産であらう。南下条区の中込姓の旧家を二三当り尚二代に渡って俳諧の道を歩んで来られた中込塩水先生にもお尋ねしたが何しろ二百年近くたった今日汀亀の生家を探す手掛りは見出せない。近く須玉町誌発刊と聞く多麻の誰かが町誌で此の事にふれて呉れたら幸と思う。

中央線鉄道唱歌 大和田竹起作
(『中央線』第8号 1972 一部加筆)
 
汽笛一声わが汽車は早や離れたり飯田町
牛込市ケ谷堀の端四谷出ずれば信濃町
千駄ケ谷代々木新宿申仙道は前雇行き
南品川東海道北は赤羽根奥羽線
大久保つつじの花盛り柏木中野に兵営を
見るや荻窪吉祥寺塔を過れば国分寺
立川こえて多摩川や日野に豊田に八王子
織物業で名も高く横浜線の起点なり
浅川行けば小仏ぞ境沢をば早や渡り
与瀬上野原鳥沢や谷間に懸けしは猿橋か
甲斐絹の産地で知られたる郡内地方はこの辺サ
山の申なる大月に水力電気の事業あり
初鹿野塩山向岳寺温泉ききめいと多く
差出の磯の日下部や螢で名高い石和町
次は甲府の城の跡山岳四面に重畳し
甲州一の大都会山梨県庁ここにあり
竜王韮崎日野春は八ケ岳をば右に見て
小淵沢より富士見台海抜三千百余尺
青柳茅野に上諏訪や左に諏訪湖冬ならば
吾もスケート試みん右は温泉諏訪神社
下諏訪岡谷は製糸業煙突繁きは国の富
天竜川は此処に出で遠州灘に注ぎ入る
岡谷辰野を通りすぎ伊那谷渡りて塩尻は
紗たる平野にステーシヨン篠の井線の分岐点
 
(以上で中央東線終り西線は略す)
 
ここは名に負う笹子嶺トンネル一万五千尺
かちで越えしはととせ前居ながら通る気楽さよ
待ちに待ちたる中央の鉄路はここに全通し
国運ますます隆盛に栄ゆる御代こそ目出たけれ
 
終点名古屋でオワリ(尾張)をなごやかに結んでいます。
天災 人災(台風災害と復旧工事など)
菊島信清氏著(『中央線』第8号 1972 一部加筆)
台風、集中豪雨、地すべり、高汐、地震、津波、雪害などの災害はどうしても避けることができない日本の宿命だろうか。
昭和三三年九月二六日関東、東海を襲った狩野川台風は土石流による被害が大きかった。水害発生の数年前から赤木博士(全国治水砂防協会常務理事、四六年度文化勲章受賞者)などにより、砂防の必要性が強調されていたが、実現するにいたらなかった。
また狩野川の洪水量を計算し、川幅を20メートルにしなければ駄目だと昭和20年頃から叫ばれていたが、沼津市の町中を流れているため地元の反対で、その対策がたてられなかった。そこでやむなく八キロメートルの狩野川放水路を二本こしらえることにしたが、これも土地の補償問題でゆきづまり、工事は少しも進まず、33年切大氷害ではじめて住民の眼がさめたということである。
翌34年9月26日死者5千人を出した伊勢湾台風でも、その二週間前に「愛知県下の高汐対策を急げ」という警告が、名古屋管区行政監察局から出されていたが、何の反応も無かった。海部郡弥富町鍋田部落が一瞬にして海面下に没したのは、地下水のくみあげによる地盤沈下に加えて、防潮堤の裏側にコンクリートが使ってなかった為に堤防がこわれて、海水がどっと押し入ったためであった。
同じ年の8月14日、われわれは永久に忘れることの出来ない七号台風による大水害を被ったのであるが、祖母石は旧桐沢橋(現在の桐沢橋より200メートルばかり上流にあった)の上流堤防(河白堤)が切れて濁流にのまれ、韮崎町は武田橋附近の堤防が切れてあの水禍に遭った。どちらも橋を架けるために川をしぼった所である。桐沢橋も武田橋も旧橋の長さは現在のものの三分の一位であった。当時としては財政面からいっても。技術面からしても長大橋の架設は無理であり、そのしわよせが川へ来たのである。
昭和20年年12月19日韮崎町議会は韮崎土木出張所建設省富士川工事事務所などに対し、武田橋下から船山橋迄の堤防工事を早急実現しないかぎり、工事中の神山地内武田橋上の堤防工事を中止して欲しいと陳情した。このような経緯があったが、神山側の堤防は竣功した。そして34年の七号台風の際その非合法性を暴露したのである。
七号台風の直後、祖母石も韮崎町も次の出水にそなえて仮堤防の築設をいそいだ。仮堤防といっても実態はブルで土砂を盛り上げ、その表法面に鉄線蛇籠を這わせた程度のものである。自衛隊は麻袋に砂をつめて積み上げたが、祖母石の仮堤防は盛立てた土砂の表法面にネコザ(長36メートル、巾1,8メートルの厚手のムシロ)を張り、そして鉄線蛇籠で法覆した。このネコザは七号台風で水につかったものなど各戸から供出してもらったものである。
9月26日真夜中、一五号台風(伊勢湾台風)がたけり狂う中を、私は消防団幹部と避難していた寺の境内を抜け出し、この仮堤防の命運を見きわめようと河原へいそいだ。横なぐりの雨、今にものり越えんとする怒涛の中で頑張り抜いている堤防を見た時の感慨は今も忘れることは出来ない。
9月28日の山日には、奇跡的に助かる祖母石、一ツ谷"とあるが、これは奇跡でもなんでもない、ネコザのお蔭だと私は思っている。
一方韮崎町の仮堤防はムシロで盛土をカバーしなかったために、水位が上がるとともに盛土はくずれ去って蛇籠は転倒し、再び水魔におそわれたのである。
10月25日の山日には、全建設労組の結論として、県の治水計画がその場当りだと非難し、韮崎町の堤防が二度も切れたのは工法の不備でなく、武田橋際(対岸神山町)の県道の取付道路が釜無川につき出しており、釜無川の本流がこれにぶつかりその反射作用で本流が韮崎の堤防を襲ったためだと揚言しているが、私にはそのまま受けとることは出来ない。
以上二、三の例で、治山治水対策や水防体制の是非が、被害を最小限にくい止めたり、逆に大きくしていることがわかる。人災だといわれる所以もここにある。
34年の大水害までの災害復旧のあり方は原形復旧であった。もとの位置へもとの形のものをつくることである。もっとも原形といっても、それはもとの機能を意味するので、場合によっては、位置や形を変えねばならぬこともあった。34年の水害があまりに大きかったので、原形にこだわってばかりいられず、可成り大胆な改良復旧が採択されるようになり、爾後復旧工事は大いに飛躍した。
昭和36年7月25日の山梨時事に、鰍沢町の望月正敏さんは"台風期に思う'と題して次のように訴えている。
また台風シーズンがやってきた。ことしは4,5個が上陸または接近すると聞く。ところでわたしの町、鰍沢町にある鹿島橋は昭和28年4月29日架橋してから、8カ年間にすでに5回流失した。その都度多額の国費を使って復旧し、四回目の架橋も昨年3月よりやく復旧したと思ったら、わずか1年3カ月の寿命で、このあいだの6号台風でまた流れてしまった。この橋が復旧するまでには半年、1年とかかり、保育園や小中学校生、通勤者は渡舟を利用している。この5回にわたる復旧費を計算すると、なんと3千3、4百万円に達し、この額をもって永久橋をかければ、おづり〃がくるくらいの立派な橋ができると思う。わたしがこの地に生まれてすでに70余年、明治30年・40年の大洪水をはじめとして、繰り返される水害にいつも思うのだが、どうしてその場しのぎの工事をするのであろうか。一時の多額の国費をおしんで、結局は損をしているとは、なんと情ないことであろう。
災害復旧について原形復旧か改良復旧かの問題があるが、災害をうけたものがあらかた国の力で原形以上に復旧できるのなら、災害太りの結果となり、だれもが災害を歓迎することになる。オンボロ校舎や古い木橋などをかかえ、財政事情で改修出来ずにいる地方自治体も数多いのに、災害をうけたものだけがどんどん新しいものに替えていけるのなら、災害様々ではなかろうか。
改良復旧の行き過ぎは、公共物尊重の気風を失わせる結果になりかねないという考え方もあるので、仲々望月さんのいわれるようにばかりいかないようだ。
昔は大震災や大風水害を天災と呼んで恐れていた。それは天から下された罰であって、対策のないものだった。科学や技術の進歩した今日でも、人力でいかんともすることの出来ない災害は天災である。人間の努力で防げるのを放っておいて起きるのが人災で、この中には政治の欠陥に起因する政災がある。
しかし天災と人災にはいりまじっている部分があって厳密に区別出来ない。そして天災を大きくするか小さくするかは人間社会の対応のしかたによる。世間一般で人災といわれているものを拾ってみるといろいろあるが、中でも予算が少ないため充分なことが出来なかった場合と、技術の貧困による構造上の欠陥のために招来する災害が一番多いのではなかろうか。
技術の貧困も煎じつめれば金が無いからということになるかも知れないが。
昭和10年9月21日から26日まで降り続いた雨で塩川と荒川が大あれに荒れ、笛吹川に架かる桃林橋が流失した。工事予算が少くて橋脚の根入が充分でなかったとか、橋脚が岩盤に達しなかったとか取沙汰されたが、工費不足による人災というべきだろう。
今年7月五5、静岡県大崩海岸の生埋め事件も人災だとして洞門の設計管理にあたった県の技監ら六人が書類送検されたのも耳あたらしい。四〇年夏山陰、中国地方を襲った豪雨の際起きた鳥根県江川の中国電力浜原ダム浮き戸流失事件は人災を天災に転嫁したとして、地元と中国電力との間で数年も争いが続いた。
大正12年9月1日の関東大震災の被害は1府8県に及び、50万の家が焼けたりつぶれたりした。死傷と行方不明をあわせると25万にものぽったが、このうち地震で押しつぶされたのは、たった2千人だった。天災より人災の方がずっとおそろしい。つい先日行われたエムチトカ島核爆発で日本に地震津波の被害は無かったが、昭和35年5月24日のチリ地震津波によって東北地方の太平洋岸は大被害を受けた。
以上書いた人災はまだ情状酌量の余地があるが、台風来に便来して公共物をこわすという、まことにハッキリした人災もある。かって北陸某県で大雨の際、この機会にとばかり寄ってたかって村道の橋の橋げたを切り、わざと橋を流してしまった事件は裁判沙汰になった。又昭和28年山形県では雪害をあてこんで、町村橋梁がダイナマイトで爆破され、災害査定も立派に通って、見事な橋に架けかえられた。28年頃はこうした風潮が全国的にあり、山梨県でも南巨摩にあった。
(四六・一一・一二)
 

天災 人災(台風災害と復旧工事など)
菊島信清氏著(『中央線』第8号 1972 一部加筆)
台風、集中豪雨、地すべり、高汐、地震、津波、雪害などの災害はどうしても避けることができない日本の宿命だろうか。
昭和三三年九月二六日関東、東海を襲った狩野川台風は土石流による被害が大きかった。水害発生の数年前から赤木博士(全国治水砂防協会常務理事、四六年度文化勲章受賞者)などにより、砂防の必要性が強調されていたが、実現するにいたらなかった。
また狩野川の洪水量を計算し、川幅を20メートルにしなければ駄目だと昭和20年頃から叫ばれていたが、沼津市の町中を流れているため地元の反対で、その対策がたてられなかった。そこでやむなく八キロメートルの狩野川放水路を二本こしらえることにしたが、これも土地の補償問題でゆきづまり、工事は少しも進まず、33年切大氷害ではじめて住民の眼がさめたということである。
翌34年9月26日死者5千人を出した伊勢湾台風でも、その二週間前に「愛知県下の高汐対策を急げ」という警告が、名古屋管区行政監察局から出されていたが、何の反応も無かった。海部郡弥富町鍋田部落が一瞬にして海面下に没したのは、地下水のくみあげによる地盤沈下に加えて、防潮堤の裏側にコンクリートが使ってなかった為に堤防がこわれて、海水がどっと押し入ったためであった。
同じ年の8月14日、われわれは永久に忘れることの出来ない七号台風による大水害を被ったのであるが、祖母石は旧桐沢橋(現在の桐沢橋より200メートルばかり上流にあった)の上流堤防(河白堤)が切れて濁流にのまれ、韮崎町は武田橋附近の堤防が切れてあの水禍に遭った。どちらも橋を架けるために川をしぼった所である。桐沢橋も武田橋も旧橋の長さは現在のものの三分の一位であった。当時としては財政面からいっても。技術面からしても長大橋の架設は無理であり、そのしわよせが川へ来たのである。
昭和20年年12月19日韮崎町議会は韮崎土木出張所建設省富士川工事事務所などに対し、武田橋下から船山橋迄の堤防工事を早急実現しないかぎり、工事中の神山地内武田橋上の堤防工事を中止して欲しいと陳情した。このような経緯があったが、神山側の堤防は竣功した。そして34年の七号台風の際その非合法性を暴露したのである。
七号台風の直後、祖母石も韮崎町も次の出水にそなえて仮堤防の築設をいそいだ。仮堤防といっても実態はブルで土砂を盛り上げ、その表法面に鉄線蛇籠を這わせた程度のものである。自衛隊は麻袋に砂をつめて積み上げたが、祖母石の仮堤防は盛立てた土砂の表法面にネコザ(長36メートル、巾1,8メートルの厚手のムシロ)を張り、そして鉄線蛇籠で法覆した。このネコザは七号台風で水につかったものなど各戸から供出してもらったものである。
9月26日真夜中、一五号台風(伊勢湾台風)がたけり狂う中を、私は消防団幹部と避難していた寺の境内を抜け出し、この仮堤防の命運を見きわめようと河原へいそいだ。横なぐりの雨、今にものり越えんとする怒涛の中で頑張り抜いている堤防を見た時の感慨は今も忘れることは出来ない。
9月28日の山日には、奇跡的に助かる祖母石、一ツ谷"とあるが、これは奇跡でもなんでもない、ネコザのお蔭だと私は思っている。
一方韮崎町の仮堤防はムシロで盛土をカバーしなかったために、水位が上がるとともに盛土はくずれ去って蛇籠は転倒し、再び水魔におそわれたのである。
10月25日の山日には、全建設労組の結論として、県の治水計画がその場当りだと非難し、韮崎町の堤防が二度も切れたのは工法の不備でなく、武田橋際(対岸神山町)の県道の取付道路が釜無川につき出しており、釜無川の本流がこれにぶつかりその反射作用で本流が韮崎の堤防を襲ったためだと揚言しているが、私にはそのまま受けとることは出来ない。
以上二、三の例で、治山治水対策や水防体制の是非が、被害を最小限にくい止めたり、逆に大きくしていることがわかる。人災だといわれる所以もここにある。
34年の大水害までの災害復旧のあり方は原形復旧であった。もとの位置へもとの形のものをつくることである。もっとも原形といっても、それはもとの機能を意味するので、場合によっては、位置や形を変えねばならぬこともあった。34年の水害があまりに大きかったので、原形にこだわってばかりいられず、可成り大胆な改良復旧が採択されるようになり、爾後復旧工事は大いに飛躍した。
昭和36年7月25日の山梨時事に、鰍沢町の望月正敏さんは"台風期に思う'と題して次のように訴えている。
また台風シーズンがやってきた。ことしは4,5個が上陸または接近すると聞く。ところでわたしの町、鰍沢町にある鹿島橋は昭和28年4月29日架橋してから、8カ年間にすでに5回流失した。その都度多額の国費を使って復旧し、四回目の架橋も昨年3月よりやく復旧したと思ったら、わずか1年3カ月の寿命で、このあいだの6号台風でまた流れてしまった。この橋が復旧するまでには半年、1年とかかり、保育園や小中学校生、通勤者は渡舟を利用している。この5回にわたる復旧費を計算すると、なんと3千3、4百万円に達し、この額をもって永久橋をかければ、おづり〃がくるくらいの立派な橋ができると思う。わたしがこの地に生まれてすでに70余年、明治30年・40年の大洪水をはじめとして、繰り返される水害にいつも思うのだが、どうしてその場しのぎの工事をするのであろうか。一時の多額の国費をおしんで、結局は損をしているとは、なんと情ないことであろう。
災害復旧について原形復旧か改良復旧かの問題があるが、災害をうけたものがあらかた国の力で原形以上に復旧できるのなら、災害太りの結果となり、だれもが災害を歓迎することになる。オンボロ校舎や古い木橋などをかかえ、財政事情で改修出来ずにいる地方自治体も数多いのに、災害をうけたものだけがどんどん新しいものに替えていけるのなら、災害様々ではなかろうか。
改良復旧の行き過ぎは、公共物尊重の気風を失わせる結果になりかねないという考え方もあるので、仲々望月さんのいわれるようにばかりいかないようだ。
昔は大震災や大風水害を天災と呼んで恐れていた。それは天から下された罰であって、対策のないものだった。科学や技術の進歩した今日でも、人力でいかんともすることの出来ない災害は天災である。人間の努力で防げるのを放っておいて起きるのが人災で、この中には政治の欠陥に起因する政災がある。
しかし天災と人災にはいりまじっている部分があって厳密に区別出来ない。そして天災を大きくするか小さくするかは人間社会の対応のしかたによる。世間一般で人災といわれているものを拾ってみるといろいろあるが、中でも予算が少ないため充分なことが出来なかった場合と、技術の貧困による構造上の欠陥のために招来する災害が一番多いのではなかろうか。
技術の貧困も煎じつめれば金が無いからということになるかも知れないが。
昭和10年9月21日から26日まで降り続いた雨で塩川と荒川が大あれに荒れ、笛吹川に架かる桃林橋が流失した。工事予算が少くて橋脚の根入が充分でなかったとか、橋脚が岩盤に達しなかったとか取沙汰されたが、工費不足による人災というべきだろう。
今年7月五5、静岡県大崩海岸の生埋め事件も人災だとして洞門の設計管理にあたった県の技監ら六人が書類送検されたのも耳あたらしい。四〇年夏山陰、中国地方を襲った豪雨の際起きた鳥根県江川の中国電力浜原ダム浮き戸流失事件は人災を天災に転嫁したとして、地元と中国電力との間で数年も争いが続いた。
大正12年9月1日の関東大震災の被害は1府8県に及び、50万の家が焼けたりつぶれたりした。死傷と行方不明をあ
わせると25万にものぽったが、このうち地震で押しつぶされたのは、たった2千人だった。天災より人災の方がずっとおそろしい。つい先日行われたエムチトカ島核爆発で日本に地震津波の被害は無かったが、昭和35年5月24日のチリ地震津波によって東北地方の太平洋岸は大被害を受けた。
以上書いた人災はまだ情状酌量の余地があるが、台風来に便来して公共物をこわすという、まことにハッキリした人災もある。かって北陸某県で大雨の際、この機会にとばかり寄ってたかって村道の橋の橋げたを切り、わざと橋を流してしまった事件は裁判沙汰になった。又昭和28年山形県では雪害をあてこんで、町村橋梁がダイナマイトで爆破され、災害査定も立派に通って、見事な橋に架けかえられた。28年頃はこうした風潮が全国的にあり、山梨県でも南巨摩にあった。
(四六・一一・一二)

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