過去の投稿月別表示

[ リスト | 詳細 ]

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 次のページ ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

丸山彭(ほう)氏 長篠城址史跡保存館初代館長の紹介(記念展資料より)

私が馬場美濃守信房公を研究に手を染めてから挫折することが多く、捗らないそんな折記念館を訪れ丸山先生の著書を目にしたときに、心が洗われるような気がした。以来私も積極的に気の趣くままに出かけて人に会って調査研究していくなかでおおくの体験と収穫があった。
 平成」23年8月23日、現在の長篠城址史跡保存館館長の御招きで再度訪れて先生の偉大さと脈々生きる弛まざる研究者や関係者にお会いできて感銘した。他国の武将をいまだに大切にする当地の人々の温かさは山梨県には見えないもので、私自身も猛省を迫られる。少しでも丸山先生や現在の館長さんや長篠や設楽の史跡保存地の関係者の方々に近づけるように今後も馬場美濃守信房公の研究を続けていきたいと考えています。(白州町 白州ふるさと文庫 主宰清水三郎)

 丸山彰は、明治35年(1902)3月20日、愛知県南設楽郡鳳来町富保(現:新城市富保)に生まれました。大正9年(1920)、安城農林学校(現:安城農林高等学校)を卒業後、長篠小学校に勤務しました。この頃より郷土の歴史に興味を持ちはじめた彰には次のようなエピソードが残されています。
 大正I1年(1922)、彰が21歳のとき、鳳来寺鉄道株式会社(JR飯田線の前身)が設立され、鉄道が長篠城址の本丸を通ることになり、史跡保存の立場から地元住民より反対運動が起きました。このとき彰は、名古屋新聞(中日新聞の前身)に鉄道の長篠城址通過反対の投書を行ったところ、これが実名入りで掲載されてしまい、」教員の立場で村の内部事情を新聞に投書したことで学校中が大騒ぎになりました。                    
 彰に最も影響を与えた人物は安城農林学校校長の山崎延吉(やまざきえんきち)でした。山崎の「故郷を大切にし、人をつくって村を起こす」という考えに感化を受け、教員生活のかたわら、この頃より興味を持ち始めた郷土史の研究に情熱を傾けるようになりました。その後、高等学校教員・長篠村長を経て昭和30年代に入り長篠城址史跡保存館の建設に東奔西走し、同39年(1964)l1月の開館と同時に初代館長に就任しました。
 開館当初の保存館の運営は決して楽ではなく、まさに試行錯誤の連続でした。その中で彭は、「時間をかけ、努力して長篠戦史を編集し、保存館の窓口を通して世に送り、教えを乞う」姿勢の大切さに気づき長篠戦史の掘り起こし作業に人生の半分をかけて取り組んでいきました。
 長篠戦史の編集にあたっては、彭は新しい史料の発掘のために武将の子孫を訪ね、子孫たちとの出会いは、彭の持つ温かい人間性、歴史研究への真撃(しんし)な姿とあいまって新しい感動と歴史の再発見を生んでいきました。その結果、全国に住んでいた大勢の子孫たちが長篠城に関心を寄せ、「長篠合戦のぼり祭り」には遠路はるばる来訪してくれる子孫たちも出るようになりました。
 平成23年(2011)は、昭和63年(1988)7月26日、彰が86歳で亡くなって23年目にあたります。長篠城址史跡保存館では長篠戦史の掘り起こし作業に−生を捧げ、初代館長として保存館の運営を軌道に乗せた彰の人生を夏と秋の特別展により回顧します。夏の特別展は武田将士の内藤昌豊・馬場信房・鎌原重澄を、秋の特別展は鳥居強右衛門、奥平家を中心に展示します。
 展覧会の開催にあたり、貴重な資料の出品を快く御快諾くださり、数々の御指導、御協力を賜りました七原憲史様、村松律子様をはじめ、関係機関の皆様に心よりお礼申し上げます。            
 長篠城址史跡保存館

 長篠城址史跡保存館は、昭和39年11月3日に開館した。ちょうど東京でオリンピックが開催された翌月の出来事であった。職員は丸山彰を含めて4人、休館日はなし、人件費を含めた経費は入館料で賄うという独立採算制であった。まさに赤字覚悟のスタートだった。この時点では館長も決まっていなかった。
彭は語る。「困ったのは私である。ここで投げ出せば、赤字が恐ろしくて逃げたのだとか、無駄なものを建てたものだとかの非難があろうし、館長を引き受ければいつまで続くともわからぬ赤字を負担することになる。考えざるを得なかった。『どうせ非難されたり、笑われるなら建設を最初から推進した責任上、行ける所までやってみよう』やっと決心がついた。」(創立二十年記念誌)重大な決心をして彰は館長を引き受けたが予想もしない問題が噴出した。
来館者に喜んでもらうためには自らの調査研究は当然のこと、職員全員の進歩がないと前へ進まない。独立採算という枠がはめられているので利益も考えなければならない。彰は複雑な思いで館長職をスタートさせた。そして次のように悟った。
1 時間をかけ、努力して長篠戦史を編集し、保存館の窓口を通して世に送り、教えを乞う。こうした事を繰り返す。
2 見せてもらって良かった、良い勉強になったと喜んでもらえるような展示でありたい。それにはパネルの文字数は一ケ所70文字以内とすること。
3 長篠合戦に関連する史跡を踏査し、参戦将士の子孫を尋ね、これをまとめていくうちにこれまで埋もれていた歴史が発見できるかもしれない。自分の年齢を考えて九州や東北などの遠隔地から調査を始めた。参戦将士の子孫との交流は、こいいう調査に始まり親密の度を増し、のぼり祭りの慰霊式典には参列される方が順次増加したように思う。

 このようなコンセプトで保存館運営はスタートし、はじめの4年間は苦労の連続であったが5年目の昭和44年目からは入館者が増加して約6万人となった。参戦将士の子孫探索も山解昌景家、馬場信房家、鳥居強右衛門家、内藤昌豊家のほか、刊行図書取材のために訪問した子孫はかなり多く、そのため「のぼり祭り」の参戦将士子孫の受付等は保存館が担当することとなった。

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事