雑神
(調査は昭和五一年度)
〔蚕神〕(かいこの神様)
(台ヶ原)
コダマサソと呼ばれていて、祭りは、一五・六年前まで行われていた。祭日は九月二〇日頃で、ちょうどカイコがあがったときである。以前は竜福寺裏の桜の木のあった跡にあり、堂に入っていた。戦前は、カイコを飼っている人が、重箱を持ち寄り、桜の咲く四月二〇日過ぎに、竜福寺境内にゴザを敷いて、酒宴を開いた。参加者は、養蚕組合員であり、当番は二名で一年交代であった。また、養蚕の始重る前に組合長の家で、都合の良い日を選び行う。この日は、養蚕の年問の打ち合わせや秋祭りの事などを話し合い、飲食して散会する。祭り当日には、竹笹、オシンメで飾り付けをし、マユダマ庄どの供物を用意した。しかし、この祭りは、養蚕の衰退とともに、衰えていった。
(白須下)
コダマサソと呼ぶ。マユの神様で、御神体(石塔など)ばない。三月の三の丑の日に、当番の人が、蓮照寺にある機械で印刷したコダマサソの拾札を、観音さんの券札といっしょに配る。旧二月一四目に、マユダマ、オタワラを、ダソゴバナ(コナシ)という木に吊す。
(白須上)
蚕(正しくは神を上に、下に虫)守「シンジュ」さんと呼ばれている。現在は、前沢と白須上との境にある空地(通称チビヅコ広場)の一角に、石祠が五二基祀ってあり、それをシンジュさんと呼んでいる。以前は、字大除に祀ってあった。また、蚕守さんの御神体は、現在も駒ヶ岳神社の前宮の奥にある。駒ケ岳の信者であった行者の植松茂重氏の存命中は、駒ヶ岳の蚕守さんに参ったという。蚕守さんは、カイコの神であり、以前はマユが取れるように祀ったものだが、現在では豊作であるようにと祈願されている。祭りは、八十八夜に行い、白須上と前沢とが、一隼交代の輪番制で春札を刷って配る。当日は御神酒や団子などをふるまい、以前は幟(のぼり)なども立てた。白須の二組編成で、マユ型の団子を作り、石塔の所にムツロ(筵)を敷き、自元寺の坊さんをよび、拝んでもらう。前沢でもシンジュさんと呼ばれており、八十八夜に団子をハチに盛り、自元寺の坊さんに拝んでもらい各戸に配る。
(竹字)
シンジュサソと呼ばれている木の宮がある。シソジュサソの祭りには、甘酒祭りとも称し、以前は四月一九日に行われていた。昭和五二年度から、村氏神である天神様の境内にいっし主に祀られており、祭日は三月二七日である。この日は氏神さんもいっしょに祭りを行う。祭礼の準備は氏神の祭礼と同じ人があたり、輸番制の当番五人で行う。当日は神主に幣束を切ってもらい玉串を持って来てもらう。神社総代は三名で、任期は三年である。現在は伊藤清隆氏・伊藤三郎氏・植尾公寛氏である。改選は一月二日の区会で行われる。供物は、御神酒・米・塩・水・野菜(ダイコンやニンジン)。神社総代が準備し、マユ型のダソス(団子)なども用意する。飾り付けは当番が行う。祭礼は、午後一時三〇分頃に開始され、まず神主が天神様の社殿で祝詞をあげ、次にシュンジュさんの社殿の前で祝詞をあげる。また、二七日の午前中には、午後一時三〇分頃より婦人達が公会堂で甘酒を作ってふるまう。神主は、小淵沢の進藤氏である。下教来石では、諏訪神社境内の堂の中に蚕神がある。祭日は一月一四日。祭日には、蚕神のお札をもらう。
(大武川)
コダマサンと呼ばれている。名取保茂氏宅前に祀られており、祭日は五月二日である。この目、公会堂で甘酒をふるまう。甘酒は、祭りの当番が各戸から米を集めて作った。その際の量は、地域ごとに慣例で決まっている。カイコを始めるときや出荷のとき、コダマサソの石塔の前に、米の粉で作ったマユダマを供える。祭り当日は、老人が掃除して村中にある石碑に供物を上げて拝む。以前は、「蚕玉様」と書いた幟(のぼり)も立てた。
〔地蔵〕
(上教来石)
教慶寺にある六地蔵は、墓参り、葬式のとき「ミチアカシ」言って道案内するといわれている。また、この地蔵に願をかけ、願いがかなうと、帽子や前掛けを作って供えた。三月二四日には、お地蔵さんの所で念仏をし、オダソス(団子)を焼いた。山口と上教来石との境を流れている宮沢川沿い(国道の左側)にある地蔵は、以前四月二四日に祭りをしていた。腹が痛むときには、腹掛けを掛けて拝んだ。
〔カサ地蔵〕
(上教来石)
田中壱郎氏宅で、畑の端にある木の下に祠を設け祀っている。これぱ、田中氏の先組が祀ったもので、田中氏の他に、病気の願をかけにいろいろな人が参りに来る。「カサ」とは、花柳病のことで、歯が痛くても、「花柳病にかかった」と言えば治った。治ったときには地蔵に、ヨダレ掛けや帽子を着せた。お地蔵さんが笠をかぶっているので、以前は、「陳笠のカサ地蔵」の意味でカサ地蔵と呼んだが、現在は、「花柳病のカサ地蔵」だと言われている。また、花柳病にかかかった人が、味噌をカサ地蔵に塗ると良いとも言われている。
〔薬師〕
(鳥原)
薬師さんと呼ばれている。これは以前から公民館に祀られている。祭日は二月二一日で、当番は二戸ずつの輪番制である。祭りの費用は区費で賄う。供物は、御神酒と団子。この団子は、当番が鳥原全戸から白米を三合づつ集め、それを挽いて作られる。子供が学校から帰るのを待ち、団子を全員に配った。この日はムラの年寄りが念仏を唱えた。その他この場でムラの農業についての話し合いも行われる。
(白須下)
男四二歳、女三三歳になったら、二月二二目に、団子を持って甲府の厄地蔵に行く。
(竹宇)
以前は一月一四日、現在は二月一日に法全寺の厄地蔵へ厄の年の数だけ団子を持って行く。
(下教来石)
国道から来福寺への方向の道を少し入った右手に厄地蔵がある。この厄地蔵は、一年に一度しか目が開かないので、その日に願かけると叶うといわれる。地蔵の目は、朝一〇時頃から翌日の一〇時頃まで開いており、願かけの際は、年の数だけ小さいオダソスを紙に包んで持って行く。
その他、甲府の厄地蔵の縁日が二月一四日なので、その日に甲府まで行く人もいる。
〔味噌なめ地蔵〕
(台ヶ原)
荒尾明神(あらおみょうじん)境内に地蔵数一〇体と石祠二基とがおさめてある堂がある。(石祠は森川基造氏が管理)これは、熊野大権現と言われている。この二基の石祠は、森川家の総本家(ササオヤ)に祀られていたが、以前この家に病人が出たときに、行者から神のたたりと教えられたので、それ以来氏神の境内に移したものだと言われている。病気やケガを治して欲しいとき、これに願かけをする際、地蔵の体の中で、患部と同様の所に味噌をつけて拝んだ。また子供を授けて欲しいときなどは、自分の家に地蔵を借りてくる。祈願をする際は、米を紙にくるみ、地蔵に供える。九月二二日・二三日に祭りをし、二一月三一日の夜に参りに行った。ここの喀なめ地蔵はあげ仏である。(「あげ仏」参照)下教来石では、来福寺隣の観音堂の前に味嗜なめ地蔵がある。子供に虫が拾きたとき、頭が痛いとき
などには地蔵の体の中で、患部と同様の所に味噌をつけて拝んだ。その後、治ったときには頭巾やヨダレ掛けを奉納した。
〔あげ仏〕
(台ヶ原)
受胎祈願や病気、失せ物のあったときなどに持ち上げて占う。願をかける人は、「願が叶うなら軽く、叶わないなら重く上ってくれ。」と、心の中で念じながらこの地蔵を持ち上げる。その場合、願が叶うなら軽く上がる。自分の家に借りて行って占う場合もあり、そのとき願がかなえば地蔵をもう一体作り、元の場所へ返した。持ち上げる人はだれでもよいが、二・三〇年前は故細田きんさんがそれにあたっていた。伊勢屋のおばあさんが、特に信仰が厚く、願って占ってもらった。その他の拝み方として、丑の刻参りが行われた。このあげ仏は味嗜なめ地蔵である。
(上教来石)
通称あげ仏さんと呼ばれる。教慶寺の本堂の左隣の堂に、石の地蔵が三つ保存されている。その真中の五〇セソチ足らずの石の地蔵が、あげ仏である。戦前までは、主に年とった女性が、願をかけ地蔵を持ち上げていた。現在でも東京方面から願かけに来る人がいる。このあげ仏は、受胎祈願などあらゆる願いによい。軽く上がるとその願いがかなうが、重くて上がらないとその願いはかたわない。また願いがかなった人は、名前を入れた腹掛けを呑礼に奉納するが、下教来石の笠井まつよさんが、よだれ掛けや腹かけをする。地蔵を持ち上げる人は決っていないが、特に手塚秀雄氏のおばあさんが、頼まれてはこの地蔵を持ち上げたと言われている。
〔山の神〕
(台ヶ原)
お山の神さんと呼ばれている。一月一七日はお山の神さんの日で仕事を休み、屋敷神の祭りをする。また、この日は、山に入ると死ぬと言われ山に入ってはいけない。
(白須下)
明治三〇年頃まで、九月一五日一六日に、日向山の山神の祠で、風祭りを行った。この祭りの準備は当番制で御神酒を供え飲食した。(白須上)
祭日は毎月一七日である。山の神は、「大山祓命」(オオヤマネギノミコト)を祀ったものである。祭りの日は仕事を早めに切りあげ酒を飲む。
(竹字)
現在は講を組み、山の神を祀っている。一月一七日は、「山の神が山で弓を引く日なので、弓にあたるといけない。」と言い、山に入らない。
(下教来石)
歩道橋の傍にある木の堂が、山の神の社を移したものである。また稲荷山と加久俣山にも山の神が祀られている。一月一七日・八月一七日は、「山の神さんが弓を引くので、うたれる」と、言って山仕事を休む。普通でも、山仕事に従事する人は、毎月一七日には山に入らない。
(山口)
カミの端の山の中に、山の紳の祠がある。これは山ロコウチで祀るコウジの神であり、毎月一七日には仕事を休み酒を飲んだ。
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