|
高野と下久保の関係高野 進藤嘉明氏著(『こぶちさわ昔ばなし』部落の部)
高野の御寺高福寺須弥檀下には長箪笥があってその中には昔の文書が沢山保管されている。
この古文書は高野下久保の共有のもので、両区の役員が交替で当番となり、任期中二年毎に八月の都合よい日を選んで虫干することが、昔から今に至る迄続いていて、昨年は高野が当番となって虫干を行った。
私は村の故老や、養祖母等寄った時、下久保は高野の分かれであると聞いていたので何時か折あらば分かれた時代と、その当時の高野の戸数如何程かを調べて見たいと思っていました。
ことしは区長を辞めて大分暇が出たので一月中旬から調べに取りかかりました。そして家にある古文書を出し詳細に点検したところ、多数の田畑等の期限付売渡しや質人手形、証文があったので内容を見ると殆んど年貢に差詰まり その代金を年貢に充当するためとしてあり、その宛先は名主宛で質人主売主の住所氏名と証人氏名が連署されてあった。
その中に住所を「高野組下久保何某」と書いてあるのが十数通見付けられた。年代は元録年間より以降の寛文、享保、元文、天明、寛政、天保、弘化、安政、年間に跨っていること、並びにその年代の戸数が現在の高野戸数より桁外れに多く、例えば寛文六年の高野組、年貢勘定帳面では百三十三戸となっており、又、今より百三十三年前の弘化三年の年貢勘定帳に書いてある高野組戸数は百四十八戸で、明治六年の巨摩郡第十八区小淵沢村高野組の正税割付帳の戸数百一戸となっており、弘化年間より急に減少してある事実その他下久保部落の古い家柄一例をとれば、進藤忠雄氏「前小淵沢郵便局長」の家には数多くの古い文書があって町史編纂資料として相当数の古文書を提供しておるばかりでなく、先祖は代々名主、長百姓の村役人をしていたことからして、下久保が高野と分離独立したのは明治六年か五年頃と推定する次第であります。
即ち、下久保部落は現在の高野部落の創成期時代と同じうして高野組の一部として明治維新後迄存続して来たものと思います。
|
全体表示
[ リスト ]




