山梨県ぶどう酒の歴史
参考資料(『明治大正図誌』8 中央道 筑摩書房 昭和55年)
国産ワイン事始め(坂本徳一氏著)参考資料(『明治大正図誌』8 中央道 筑摩書房 昭和55年)
荻生徂徠の甲州紀行 宝永三年(一七〇六)の陰暦九月。
儒学者・荻生徂徠は、友人田中省吾と下僕数人を伴い、柳沢吉保の使者として甲州の土を踏んだ。甲府城修築、永慶寺造営の状況視察が目的だったが、物見遊山をかねての気楽な旅。初めての秋の甲州路に心はずませて『峡中紀行』『風流使者記』の旅日記を書きとめている。
九月九日付の日誌では、その朝早く猿橋の宿を発ち、笹子峠の難所を越えて、甲府盆地が視界にひろがる勝沼の宿に、足をひきずりながらたどり着いて昼食をとった。
その折、下僕たちは蒲桃(葡萄と書かれるようになったのは明治以降)の棚下に集まり、先を争って名産の蒲桃を買った。喜び合う人々の姿を、徂徠は漢詩に詠じている。口語体に訳すと
「甲州の馬乳(甲州種)、最も名高く、下僕らは、たわわに実る蒲桃を見て歓喜している。お前たちよ。一面に広がる蒲桃郷の情景をよく観賞して家へ帰ったら女房、子供たちに誇って語りなさい。険しい笹子峠を越えて足が痛むだろうが、もぎたての蒲桃を賞味する幸せに浸る喜びもある。今は心おきなく馬乳を戴こう」と。
うす紫の露玉が光る甲州ブドウの見事な房が延々と続くぶどう棚を二百七十余年まえの江戸の人たちは、難所を越えてきた疲れを忘れて陶酔している姿を鮮烈に描写している。
水菓子、と呼んでいた江戸時代。果物のなかでも勝沼産の甲州ブドウは、庶民には手が屈かない高価なテーブルフルーツだった。しかも甲州種は醸造用にも適合したヨーロツバ系の品種である。だが、瑞穂の国は、五穀をかもした酒があっても、水菓子から酒をかもすという発想はわいてこなかった。清らかな水に恵まれ、穀物が豊宮にとれる日本列島には、万葉の昔から穀類を原料とする清酒、濁酒などが充分すぎるほど生産されていたからである。
甲州ブドウがワインの原料として使われるようになったのは明治の初期。わずか一世紀の歴史しかない。
甲州葡萄酒、バイオニアの苦闘
参考資料(『明治大正図誌』8 中央道 筑摩書房 昭和55年)
日本で初めて国産のぶどう酒を醸造し、販売ルートに乗せたのは、山梨県甲府広庭町の山田宥教と甲府八日町の酒問屋の詫間憲久の二人である。
真言密教の法印である宥教が明治四年(一八七一・)春、横浜の外人居留地で、ブドウから酒が造れる話を聞き、西洋のワインとブランデーを初めて試飲した。甲州はブドウの産地。国産ワインが造れれば、発展途上の横浜、東京でひと儲けできる、と考えた。外人居留地の酒屋の店主に「ブドウの産地ならぶどう酒を造りなさい。いくらでも引き取ってあげます」と言われて、その気になった宥教は、時代を先取りする新商売とばかり、早速、帰郷して檀徒の詫間に相談した。詫間は二つ返事で引き受けた。共同醸造場は広庭町の大広院。土蔵を改装した。
大豆をしぼる味嗜用の圧さく機からヒントを得て考案した木製の大型手しぼり圧さく機、貯蔵樽は清酒の大樽で間に合わせた。しぼったブドウ液を桶で汲んで大樽にあけるという作業。液をこのままにしておくと酢になってしまうから当時は高価な白砂糖を大樽の中へ投入して、大きなヘラでかきまぜた。このあと防腐剤に何を使ったかは不明である。
原料のブドウだが、醸造用では最適な甲州ブドウを白ワイン用に仕込み、赤ワイン用の原料として付近の山に白生しているヤマブドウをむしってきて、しぼっている。共同醸造場で仕込みを始めたのは明治五年(一八七二)十月初旬。日本最初のワイン生産がスタートした。冬を越して三月初旬、横浜の外人居留地の酒屋に積まれているワイン用の空きびんを安く買い込み、馬車に積んで甲府まで運んだ。この空き瓶をきれいに洗って、いよいよ、新酒をびんに詰める作業が始まった。ぴんに一杯詰めてコルクで栓をし、外気に触れないようにコルクと瓶の周りに蝋を垂らした。
甲州商人が横浜へ糸繭を売るために切り開いた甲府-八王子-相模原-横浜のシルクロードを経由しての空きびんと国産第一号のワインの馬車によるピストン輸送が始まった。往復一週間、そのつど山田、詫間は同行した。
明治七年(一八七四)の府県別物産表によると、山梨県の産物のなかに「白ぶどう酒四石八斗(約九百リットル)、赤ぶどう酒十石(約千八百リヅトル)を生産出荷している」と記録されている。これらの国産ワインは山田、詫間の二人が試醸した生産量である。その年の秋から二人は、ブドウのしぼり粕を活用して蒸溜酒ブランデーを試造している。西欧の醸造法をいち早く修得し、見よう見まねで実践している。それも一時期、商品として売れた。
帝都にいて、二人のワイン作りに強い関心を示したのは近代農業の先駆者・津田仙である。明治九年(一八七六)三月、政府からの依頼で甲府へ赴いた。山梨県立葡萄酒醸造所を建設するための指導が目的だったが、その時、津田は、山田、詫間の共同醸造所を訪ねている。その折の感想を翌十年三月の農学社の機関誌『農業雑誌』に書いているが、お世辞にも「すぐれたワイン」とは書いていない。二人の労苦を讃えながら醸造技術や原料の不備を訴乏「改良すれぱ佳良なぶどう酒がつくれるだろう」と励まして筆をとめている。
既にそのころ、山田、詫間の二人は経営に行き詰まり、九年十二月に倒産した。津田が醸造場を訪ねたあとの七月二十六月、二人は、藤村紫朗県令に、醸造改良資金として無利子の貸付金三千円を借りている。今もその証文が残っている。だが、その直後、粗悪品のレヅテルを貼られて横浜の外国商社から取引停止の通告を受けている。このため、心血を注いで仕込んだ一年間のワイン、ブランデーは一文にもならず返品という事態に追い込まれた。その理由は定かでないが、夏の暑さでワインが腐敗したものと推測される。
全財産をかけての日本最初のワイン生産は
① 造技術の未熟
② 原料ブドウの糖度不足
③ 防腐剤の不備
④ 資金難
の理由で、ものの見事に挫折した。操業四年目の明治九年十二月末、「山梨勧業第一回年報」に「山田、詫間両ノ
共同醸造場、廃休スルノ不幸二陥入リ」と報告、多額の借金を背負った二人は夜逃げ同様、私財を売り払って、まもなく甲府の町から家族ぐるみ姿を消した。
ワイン留学第一号
参考資料(『明治大正図誌』8 中央道 筑摩書房 昭和55年)
九州では西南の役のまっ盛り。そのころ甲府では殖産興業を旗じるしに甲府城批の広場で赤レンガの山梨県立勧業試験場(製糸)と葡萄酒醸造場の建設を急いでいた。
県立の醸造場が完成したのは明治十年(一八七七)三月末。近くの空き地には醸造用の米国産ブドウの苗数種を東京・三田育種場から導入して試植した。それから三力月後、藤村紫朗県令のキモ入りで、ブドウの里の東八代郡祝村(現勝沼町)に、民間では初めてのワイン工場「大日本山梨葡萄酒会社」(雨宮広光初代社長)が創立した。施設はできたが、技術者がいない。そこで有能な青年をワインの本場フランスに一年間、留学させることになった。株主総会で選ばれたのは高野正誠、二十五歳。同じ祝村上岩崎の氷川神社の宮司の長男土屋助次郎(のちの龍憲)十九歳の二人だった。二青年の旅費と滞在費は同会社と東八代郡下の町村が負担することになった。
高野、土屋に対し、株主側は「もし一年の修業期間に醸造の勉強をしないで帰国したら今度は白費で再度渡仏してもらうから左様心得よ」というきついお達しの契約書に署名、血判を強制され、明治十年十月十日、横浜港からフランス船タナイス号に乗って出航した。案内役は、パリ万国博日本館事務局次長として再度渡仏する前田正名(の
ち山梨県知事)であった。三人は香港で別の船に乗り換えて、シンガポールを経て、インド洋を横断、開通して間もないスエズ運河を抜けてマルセイユの波止場に着いたのは十一月二十四日。横浜を出て四十五日間の長い船旅であった。ここから汽車で花のバリ市街へ。日本公使館に一時滞在して近くの小学校へかよってフランス語の勉強をした。
それも期限つき。一カ月後にはパリから百五十キロぐらい離れているワインの産地・シャンパーニュ地方オーブ県(当時郡)トロワ市(町)の国際的』な園芸研究家シャルル・バルテ氏、苗木商とワイン醸造業を兼ねているピェールニァユボン氏を訪ねて大急ぎで勉強をはじめた。
昼は作業、夜は記録と、デュボン氏の近くに下宿して、ブドウの収穫からワインの貯蔵法、新酒の蔵出しまでの研修の過程を終えたとき、期限の一年が過ぎていた。
横浜港に着いたのは明治十二年五月八日。会社側と交わした「修業一カ年」を七力月超過していた。高野家では会社側から違約金をごっそり取られ、借財に苦しんだという。
高野、土屋の二青年の帰国で山梨県のワイン醸造の近代化の第一歩を踏み出した。だが、現実には、糖度22度以上もある西欧種の原料ブドウに比べて、甲州種の糖度は15度。かなり補糖しなければ良質なワインが生産されない、という欠陥を補なうための西欧品種の導入、醸造技術の改良に迫られた。
中央政府の農商務省も、山梨県を国産ワイン生産のモデルケースとして、醸造技術者や欧米品種のブドウの苗を送った。技術者では、のちに"福羽イチゴ"の元祖となった島根県人の福羽逸人。米国加州でブドウ栽培技術とワイン醸造を研究してきた大藤松五郎、米国帰りの苗木商小沢善平らである。
しかし、高野、土屋がフランスから持ち帰ったワイン醸造用のブドウの苗木をはじめ県内に移植した苗木の大半は気候風土に合わず枯れてしまった。日本初の葡萄酒醸造会社の国産ワイン。もやがて不評を買い、明治十八年(一八八五)暮れに工場を閉鎖、翌十九年一月、法人組織を解体した。
宣伝の面でも、ぶどう酒に馴染みが薄い日本人に自然酒の効用をどう定着、普及していくか、が大きな課題だった。これらの障害に体当たりしていった先覚者の努カと英知の上に国産ワインの今日の発展があることを忘れてはいけない。