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味噌ナメ地蔵 宮久保 進藤兵衛(『こぶちさわ昔ばなし』部落の部)
昔、宮久保部落の財産家の屋敷内に地蔵尊を柁って信仰していた。ある日、不幸にして火災が起り住宅は全焼したが、’幸に家人には何らの怪我も無かった。翌日焼けあとを片つけていると焼きすすけた地蔵尊の石蔵が堀り出された。不思議に思って屋敷内の桐の内に杞ってある地蔵さんを調べて見るとお姿がない。これは地蔵さんが家人の身代りになって焼きただれたのである。家人も地蔵尊の御慈悲の深さに改めて有難く新たに部落の薬王寺の東隣へ堂宇を建立して柁り、そして味噌を塗って地蔵さんの焼けあとが早く治る様にと心がけて供養してやった。すると部落の人達も地蔵尊の御功徳を信仰するようになり、申し合せて毎月二十四日を期して地蔵堂に集まり米のお団子を供え御真言、「オンカアカアサマエイソワカ」 を二百回奉唱したと言う。
其の後村の子供等を始め老若男女が集まる様になり、行事後供えたお団子を集った人達に投げ与え、月例祭日には益々盛大になり、お地蔵さんに味噌を塗って祈願すれば、やけどばかりでなく、諸病が治ると言い伝えられて、月例祭はもとより普通日にも近郷、近在から参詣する人が多く「厄除味噌ナメ地蔵。」となって有名になった。
ところがこの地蔵堂が火災を起して堂宇は全焼したが、地蔵尊は石像仏であったので焼失する事はなく、止むを得ず堂の再建もせず薬王寺本堂へ仮柁した。寺の東隣に平地四角面の礎石が残っている。これが地蔵堂の跡である。あれ程盛大の祭年であった味噌ナメ地蔵も今は味噌を塗る人もいず、祭もなく春秋二回部落の役員が簡単の祭事を行うのみになった。
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北杜市昔話
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二百年来の伝統行事 上笹尾 進海正道氏著(『こぶちさわ昔ばなし』部落の部)
私の部落には安政七年の昔、建立された秋葉山献燈碑がある。先々代から島屋敷部落民は火災防除祈願のために家々が順番で毎夜欠かさず忘れずに献燈を続けている。
しかも、二百数年の昔より行われて来た、油皿へ灯芯を用いての献燈を昭和五十三年の今日迄その慣行が引つがれて精進しているので勿論今後永久に止める事はない。
秋葉山献燈にこのような油皿灯芯の方法については近来は他には無いもの尚且つ毎夜であることを部落の誇りでもある。
昭和十二年大地震の時意外にも倒伏したのであるが、部落民総出動で立直した。その時電灯を引こんではという意見もあったが、火の用心、防火観念が消滅することになってはいけないと従来通りの油皿灯芯献燈にすることになった。安政七年以来部落では遠江国秋葉神社へ毎年部落民交代で参拝していたが、大東亜戦争となり交通事情、宿泊所等の不便が生じたので代参拝は中止して、その変り毎年正月五日には部落全員一同会合して拝礼の式を行って、昔からの代参当時の思い出になつかしく話し合っている。幸い秋葉神社の御守護で二百年以来私の部落には火災が起きた事なく各人火の用心はしているとはいえ誠に喜ばしい事であり、又誇りともしている。
この無火災の誇りを無くさぬよう今後とも秋葉神社への油皿灯芯献燈を続け常に防火観念は失う事はないであろう。
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高野戸数の今と昔 高野 進藤嘉明氏著(『こぶちさわ昔ばなし』部落の部)
今より三百十三年前の寛文六年の高野組戸数は、その年の年貢勘定帳によれば、三百十三戸とあるが、それからくだった弘化三年の年貢勘定帳では百四十八戸となっている。両方の年は、下久保が高野と分かれていないときであるから下久保住民の戸数が入っているはずです。
弘文三年から百三十三年を経た明治六年の高野の年貢割付帳には戸数百一戸と書いてあるが、下久保分が含まれていないと思います。理由は、弘化三年の戸数と四十七戸も少ないからです。
現在の世帯は八十七世帯「今年一月末現在」は弘化三年の時より十四世帯減っている。減った世帯は進藤姓七、宮沢姓五、赤松姓六、藤森姓四、佐藤姓三、吉田姓二、小林姓二、久保田、秋山、河西姓各一で増えたのは、清水姓二十七から十二増し、新たに平出姓二、飯久保、酒井、横山、古川、遠山の各姓一、その他となっている。
高野を去った世帯はいま何処に、また、その原因などを調べてみると世相変転、生活環境、変化等その他幾多の話題を提供することになるであろう。
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高野と下久保の関係高野 進藤嘉明氏著(『こぶちさわ昔ばなし』部落の部)
高野の御寺高福寺須弥檀下には長箪笥があってその中には昔の文書が沢山保管されている。
この古文書は高野下久保の共有のもので、両区の役員が交替で当番となり、任期中二年毎に八月の都合よい日を選んで虫干することが、昔から今に至る迄続いていて、昨年は高野が当番となって虫干を行った。
私は村の故老や、養祖母等寄った時、下久保は高野の分かれであると聞いていたので何時か折あらば分かれた時代と、その当時の高野の戸数如何程かを調べて見たいと思っていました。
ことしは区長を辞めて大分暇が出たので一月中旬から調べに取りかかりました。そして家にある古文書を出し詳細に点検したところ、多数の田畑等の期限付売渡しや質人手形、証文があったので内容を見ると殆んど年貢に差詰まり その代金を年貢に充当するためとしてあり、その宛先は名主宛で質人主売主の住所氏名と証人氏名が連署されてあった。
その中に住所を「高野組下久保何某」と書いてあるのが十数通見付けられた。年代は元録年間より以降の寛文、享保、元文、天明、寛政、天保、弘化、安政、年間に跨っていること、並びにその年代の戸数が現在の高野戸数より桁外れに多く、例えば寛文六年の高野組、年貢勘定帳面では百三十三戸となっており、又、今より百三十三年前の弘化三年の年貢勘定帳に書いてある高野組戸数は百四十八戸で、明治六年の巨摩郡第十八区小淵沢村高野組の正税割付帳の戸数百一戸となっており、弘化年間より急に減少してある事実その他下久保部落の古い家柄一例をとれば、進藤忠雄氏「前小淵沢郵便局長」の家には数多くの古い文書があって町史編纂資料として相当数の古文書を提供しておるばかりでなく、先祖は代々名主、長百姓の村役人をしていたことからして、下久保が高野と分離独立したのは明治六年か五年頃と推定する次第であります。
即ち、下久保部落は現在の高野部落の創成期時代と同じうして高野組の一部として明治維新後迄存続して来たものと思います。
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