甲斐大善寺 〔土地〕

〔土地〕
寺境二万三千五拾坪、山林東西十五町十間、北八町余(西南は勝沼の堺より菱山に至る北より東は初鹿野に界を接す、南は三日河に限り古にいわゆる深沢郷の内なり)寺内八町三拾間宮道に懸れり。                                         (上り勝沼宿へ二十九町、下り鶴瀬宿へ十町)東西に界柱あり門を西神願(しんかさん みたまのふゆ)、東神願と云う。板橋(長十二間)横吹川に架す。
〔名称〕
柏尾山大善寺 真言宗新義檀林七ケ寺の一なり、号自性院城州醍醐報恩院末、御朱印寺領三拾弐石六斗余柏尾村と称す。古文書には、「柏尾寺」また「かしはをの山寺」とも見えたり
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*藤切り祭
庭上に二丈許の柱を建て藤蔓を縄とし、これに纏い修験者一人が柱上に攣ぢて修法し、終り剣を以って其縄を両断となし、地に墜すを、香火群集の人噪(さわぎ)立ちて左右に之を引き勝負を争うことを旧式とす(或は勝負に因りて年内吉凶を占うとも云う)この「柏尾藤切」と謂う覚山の祭祀にも此式あり、彼所にては真截(しんきり)と唱う。

*不動明王画像一幅(竪壱丈壱尺二寸五分横壱丈五尺余表具天弐尺玉寸地壱尺二寸五分縁弐尺弐寸五分)巨勢金岡筆也
*大般若経(元禄九年(1696)土屋定直寄進)
*仏前供物器三具(銘云寄進永禄四年(1561)七月七日柏尾山常什杉之坊明乗と、按ずるに杉之坊古迩今審ならず、又虎四月四日杉之坊明乗がたつ子と云う者に授くる遺状一通あり、文中に行平秋広の二刀小鍛治の脇差云云と見えたり、今倶に其伝なし)
〔柳沢吉保奉納 観世音菩薩画像一幅〕
宝永二年酉(一七〇五)二月とこれは御朱印にあり、二月十九日引き渡しなり。吉保初め懇下望み被封の上、本州恵林寺不動明王へ祈願の願書を捧げ置きしに、封を受け後に願いを解いたと云う。
柏尾山(大善寺)に奉納の画幅あり、記に云う、奉蔵、武州川越城主従四位下行侍従兼出羽守源朝臣柳沢吉保とあり。
【筆註】この記載事項は重要である。これまで、一蓮寺や常光寺それに恵林寺の所蔵物については詳細の記があるが、この柏尾山大善寺に奉納されたという画幅(観世音菩薩画像一幅)については触れられていない。調べてみる必要がある。
『甲斐国志』大善寺の項を見ると、
「水晶念珠一聨」同寄付なり。寛政中、松平甲斐守様(吉里)当寺に詣でし、懇望さるるに依りて之を贈る。和歌一
首を詠じて謝せらる。藩臣久城部次兵衛、吉田権十郎をして添え書き致意せしむ。
法性院とののも賜へる念珠をゆつり 
聞こえけるかしこさを謝す 保光(吉保)
 かすかすに念の珠くりかえし 
むかしを今になほあふかなむ
◎『白旃檀釈迦の坐像」松平美濃守保明の北堂看経仏なり。故ありて当時(寺)に納む。

(寺の話では現存しないようです)
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大善寺 阿弥陀如来

▽素堂跋 三画一軸中の旅路の画巻
               掲載史料 岡田利兵衛氏『芭蕉』
〔素堂五十五才 元禄九年(一六九六)
(柿衛文庫蔵 岡田利兵衛『芭蕉』による。一部加筆)
 「立圃の盲人」、「其角の乞食の句画」と、「芭蕉画く旅路」の画との三巻を一軸に収めたものを、三画一軸という。それは葛飾の俳人で其角門人の生玉琴風(享保十一年没)の旧蔵であった(昭和戦前は大阪の蒐集家平瀬氏蔵)。
 次に掲げる素堂の本巻跋によると、芭蕉が一日、琴風家のこの盲人と乞食の画巻を見て感ずるところがあり、その尾に自らが吟行した旅路の画をかいて、門人である大垣の画工に加彩せしめたものということがわかる。この画工は大垣藩士である中川濁子を指す。画に巧みでかの『甲子吟行画巻』を芭蕉に嘱されて浄書した人である。
 
**次に素堂蚊の全文を記す。
 我すむかつしかの同し郷人、琴風家に立圃の盲人の情をうつせると、其角か乞食を絵かけるとならへ愛しけるを、つく見て人として、眼くらきハ天地に日月なきに、同し又食ともしきも、人にして非人なり我たけひきしといへ共眼あきらか也。身にそふ宝なしといへ共、食にともしからす三界を笠にいたゝきて風月をともなひ、吟行せし図を此しりへに備へんと淡き墨もて書ちらし、濃州大垣の画工に丹青をくはへさせて所の狂句をも書ぬへきあらましにて、行脚のいそきにやとりまきれけん、また立帰りての事とや思ひけん、反故に巻この浮雲流水の身となりて其 年の時雨ふるころ、波のうらにてまかりぬれは藻に埋も
るゝ玉柏となりぬへ(ママ)と尋出してほゐのことく三画一軸となし侍れと句を書のせさること残心とやいはん、また十分ならさる所かへって、風流とやせん名印もあらされは炎天の梅花雪中の芭蕉のたくひにや沙汰せん、されは彼翁の友にいきのこりて証人たらんものは、我ならすしてまたたそや。
   しもつさの国かつしかの散人」素堂 花押
 
 素堂は山口氏、名は信章。甲斐の人だが晩年は江東葛飾に住んだ。和漢の学に通じ人格高潔で、芭蕉と親交があった(享保元年没)。筆蹟は高雅雄勁で素堂真蹟にまぎれないもの。また文はすでに享保六年に門人子光が編した『素堂家集』に採用され、その寛延四年の写本によって文化元年に成美が再写している。『素堂鬼貫全集』(俳諧文庫第十四編、博文館蔵版)によって活字にもなった。こうしてこの跋は、古来素堂文として重視された最も信憑すべきものである。さきにもちょっと述べたが、この跋文によるとこの画の成立経緯がよくわかる。すなわち、芭蕉はこれに句文、および落款を書き入れるつもりでいたが、大阪で客死したがために果たさず、こんな画だけの巻となったが、これが芭蕉の真筆に相違なきことは「彼翁の友にいきのこりて証人たらんものは我ならずしてまたたぞや」と力強く証言していることで明らかである。
 さて本巻の内容だが、長短の余白―後に句文を書き入れるためーをおいて、堂々九シーンが描かれている。
一、時雨の中に紅葉した一本の樹。風に吹かれる菅笠を左手でぉさ
 えている芭蕉らしき(以下芭蕉と書く)人物。
二、旅寝の二人。一人は芭蕉、もう一人は小人の従者。
三、蔦もみじのかかる山峡急流に筏を流し、特異な高橋があり、芭
 蕉が四人に取り囲まれている。
四、渡し場。桜など咲く。大勢の人物と荷物。
五、三木の大きな閏菓樹下に人物三。馬四頭。
六、高札場。空駕籠三、人物六。
七、松並木街道。旅人が左右に往来する中に馬上人物二人 
八、雪の峠を旅する人と馬。富士が大きく見える。薩陀峠からの眺めかと思われる。
九、城のある町。街道に黒門がある。出女が客を引く。据え風呂が
二つ。芭蕉も通っているようである。
 その場所を指摘できないが、東海道に重点がおかれている。
 本画巻から受ける印象は、上掲の芭蕉自筆「甲子吟行画巻」のそれと相通じ、その手法の個々においても−特に本巻は人物の行動に力をいれているがー、その人物をはじめ、馬と特異な尾、および家屋の描写に完全の一致を見出すのである。
これらの点は素堂の証文と相まって、確実に芭蕉の自筆を立証する(許六の影響もあるようだ)。
 本巻に、当時在江戸の巨匠である三世雪中庵蓼太(天明七年没)の夏日成美宛書翰が付随される。首部を省略して関係部分をしるす。
 
珍書之一軸御見せ、少々御疑之由、中左様之ものな
らず。三画其外其蹟正しきもの而御座候。早々御求可被
成候。籾々めづらしきもの出候ものかなと存候。
キ角素堂随分よろしく見覚申候。
翁之画は駿府梧泉所持仕侯東海道の一軸ニ少も違ひ無御
座候。
くれ御求可被成候。宮又老鼠肝富も覚申候。完釆見
申候而おどろき入申候。
 立圃は例能書尤かくれなく相見え申候。尚貴顔可申候。已上  八月廿八日
 
 成美は浅草の札差し、俳諧を好み蓼太に接近し、また一茶をも後援した富裕者。だからそこへ三画一軸を売りに来たので、その鑑定を蓼太に依頼したのに対しての返信である。すべてりっばなものであるから、是非買い取るようにと指示している。
ら、是非買い取るようにと指示している。
 特に注目すべき点は、駿府梧泉所持の芭蕉筆「東海道之一軸」と少しも違わない作だといっていることである。この梧泉が岩崎清兵衛で、「甲子吟行画巻」を所持していたことはすでにその条で考証しておいたとおり、それは芭蕉自筆の「甲子吟行画巻」を指すことは明白で、両者が相似し、これも芭蕉筆だというのである。
 なお本巻の内筥に初代湖十(木者庵老鼠、元文三年没)の箱書がある。その蓋の裏面の記載をしるす。
 
奥書は山口素堂先生の真筆也。世の人の口にある所の
名軸。
今日再披見して筥の銘を書は憚あることながら、野夫
が思ひ出
と蛇におそれざるもの欺。     木者庵老鼠
 
本巻が大切に伝襲された高名のものであることがうかがわれる。

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