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多くの人は単純に、「市川団十郎の初祖は市川大門に関係ある」と思っているのではないか。三珠町に近接する市川大門町と団十郎の関係事績や伝承はないのである。
さらに言えば武田信玄の能の師匠に堀越十郎家宣という人物が居たことも史料には見えない。 また一条信龍の家臣だったとの記述も論拠を持たない説と思われる。適切で有効な史料の出現が待たれるところである。
『俳優世々の接木』による市川團十郎は
本国 甲斐
傳ニ曰、先祖は甲斐市川村ノ産にて其子重蔵ハ下総國佐倉領幡谷村の郷士と成苗代をつぐ。農堀越氏といふ。 (『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)
この記載のように甲斐の市川の出自としたほうが史実のように聞こえるがいかがなものであろうか。団十郎が記載されている著書は多く見られる。
▽ 『明和伎鑑』…… 明和六年(1769)
元祖市川團十郎、三ケ津立役の開山。才牛。下総國佐倉の住人。幡谷村(一本成田)。 堀越某カ男、幼名海老蔵。(『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)
▽ 「團十郎の家紋、三升」
市川團十郎の定紋。米を計る升の大・中・小三個を入れ子にして、上から見た形を図案 化したものである。一説に、初代團十郎が不破伴左衛門の役の衣装に使った稲妻の模様から転じたとも伝える。(『役者名物袖日記』)
また、團十郎の祖先は甲斐國東山梨郡市川村の出身とする説を踏まえ、この地方の升は 「甲州の大升」といわれ、一升が普通に升の三升に相当するほどの大きさからヒントを得たという説もある。正確な由来はわからない。(『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)
ここで、市川家家系について記述し本人も談洲桜と名乗って、団十郎と無二の親友であった烏亭焉馬について調べてみた。
▽ 市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬
『江戸時代おもしろ人物百科』
寛保三年(1743)に生まれる。
本名は中村利貞。字は英祝。通称和泉屋和助。別号立川焉馬。談洲桜。桃栗山人柿発斎。 本所に住む大工の棟梁だったので、狂名は鑿 言墨金という狂歌師であり、洒落本、黄表紙、合巻などの戯作もあり、五代目市川団十郎と義兄弟になって戯作にも手を染めた。落語は彼の余戯であったが、天明六年(1786)四月十二日、大田南畝、鹿都部真顔の協力をえて、向島武蔵屋方で噺の会を開いた事が契機となり、以後も文人達の協力で再三噺の会をひらき、噺本も刊行して、鹿野武左衛門以後絶えていた江戸落語中興の祖という役割を果たした。
主著は演劇史『歌舞伎年代記』、洒落本『客者評判記』、噺本『喜美談話』『詞葉の花』 『無事志有意』など。文政五年(1822)六月二日に没した。享年八十歳。
▽ 市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬
『江戸文人おもしろ史話』杉田幸三氏著
年80歳。江戸出身。寛保三(1743)〜文政五(1822)
本所の相生町にいた大工の棟梁和泉屋和助が通称である。五世団十郎と仲がよく、団十郎の名をもじって「談洲楼」という号がある。
父の職を継ぎ大工の棟梁となった。が、どういうものか自宅では木綿製の足袋を売ってい た。大工の棟梁からきた狂号を「鑿言墨金」と称した。
相生町の家は、上り口から六尺四方の三升(三升とは紋所の名。大・中・小三個の升を入れ子にし、上から見た形を図案化したもの。団十郎の家紋として有名)形。上部には、五世団十郎が男之助に扮した時の上下でつくった揚幕を垂らしていた。
さらに二階に二室あったが、畳に三升の模様を織り出し、一室の天井は同様、三升形の網代天井とし、障子の骨まで三升だった。
また襖や畳の縁を見ると、団十郎の十八番の暫に着た柿色の素袍を使っていた。それでいて、洒落本、草双本、笑話作家なのである。云々
▽ 市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬
『歌舞伎の世界』「象引考證」服部幸雄氏著
烏亭焉馬が熱烈な五代目団十郎の贔屓で知られ、義兄弟の契りを交して、談洲楼(だん じゅうろう)と名乗ったほどであったことを、改めて言うに及ぶまい。馬(焉馬)の守護神である猿(五代目は俳名の文字を白猿と改めた)の民族についての知識も、両者の関係の親密さを物語るもののように思う。
焉馬は「花江都歌舞伎年代記」を編纂する一方、天明九年(1789)刊の「江戸客気 団十郎贔屓」を端緒として、寛政四年(1792)刊の「御江都錺蝦」から文政元年(1818)刊の「以代美満寿」に至る、いわゆる「白猿七部集」を次々と編集し、出版した。これらの書を検すると、焉馬が早い時期から、市川団十郎代々の当り芸を抜き出して紹介しようという意識を抱いていたことがはっきり見てとれる。云々
▽ 『明和伎鑑』……「筑波大学図書館所蔵」
『市川団十郎』内掲載。西山松之助氏著 市川家
元祖市川團十郎三ケ津立役の開山
才牛。下総佐倉の住人。幡谷村(一本、成田)
堀越某の男。幼名海老蔵。居宅、深川木場。
さて市川家と甲斐の関係が見える資料に次の著がる。
▽ 甲府の芝居と亀屋座(四)… … 小沢柳涯著 『甲斐』第四號所収
○ 寛政五年(1793)六月、市川蝦蔵(五代目團十郎)来る、狂言は「御前戀相撲曽我」に「鏡山」。 局岩藤。工藤祐經(蝦蔵)、お初(富三郎)これは江戸河原崎座の於ける狂言にて、市山富三郎は瀬川菊之丞なりと。
○ 此年秋八月、お馴染みの坂東彦三郎、瀬川菊之丞と共に来り、「假名手本忠臣蔵」を演じ、彦三の由良之助と菊之丞の顔見尤も好評あり。
○ 同七年六月、又々蝦蔵一座、亀屋座に来る。狂言は「碁盤太平記白石噺」、大切浄瑠璃の作事「積變雪 關扉」にて、初代男女蔵初めて登場。男女蔵は白猿門下の秀才にて此時歳漸く十五。
○ 同九年六月、重ねて市川蝦蔵来る。白猿一世一代の触込にて、乗込み前より夥しき人気なり。外題「菅原傳授手習鑑」。
○ 役割は、源蔵女房千代(佐野川市松)。菅丞相、武部源蔵(坂東三津五郎)、松王丸 (蝦蔵)
○ 蝦蔵は前年(寛政八年)十一月、江戸の都座にて「大當源氏」に碓井貞光「暫」に修業者實は相馬太郎、二番目に山姥の分身を勤め、之を一世一代として舞臺を退き、成田屋七左衛門と改名して江東向島に閑居せりとある故、甲府へはお名残りの為時に出演せりと思はる。
さて市川団十郎と言えば成田山新勝寺との関係が深い。その成田山と団十郎の関係については次の著がある。
▽ 成田山新勝寺
……『郷土資料辞典』「千葉県・刊行と旅」
(前文略)
寺は中世に入ると衰退したが永禄九年(1566)成田古薬師に移転され、近世初期、 佐倉藩の祈願所として復興された。元禄十三年(1700)香取郡医王院から入山した昭範上人は寺の再興を図り、宝永二年(1715)寺基を現在地に移して諸堂塔を造営、寺観を整えるとともに、不動尊の霊験を世に広く宣伝し、多くの信者を集めて、今日の隆盛 の基礎をつくった。昭範上人が中興第一世とされている。
江戸の市民たちの、信仰とレクリエ−ションを兼ねた「成田詣で」が盛んになったのもこのころからで、その要因の一つとして、江戸出開帳と、歌舞伎役者の初代市川団十郎があげられる。
江戸出開帳とは不動明王本尊と二童子像を厨子に納め、佐倉街道を経て江戸に出向くことをいい、第一回は元禄十六年におこなわれ、徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院も参拝したという。以後明治31年最後の深川出開帳まで十五回を数え、江戸市民と成田山の接触を深めた。
初代市川団十郎は今の成田市幡谷の出身で、団十郎の屋号を成田屋と呼ぶのも、これによる。子宝に恵まれなかったが、ひたすら不動尊に念じて一子九蔵、後の二代目団十郎を授けられてから不動尊を取り入れた芝居、いわゆる荒事芸を演ずるようになった。これが当たって、市川団十郎とともに成田不動の名を、江戸市民に深く印象づけることとなった。七代目団十郎も成田山の授り子といわれ、天保十三年(1842)、老中水野忠邦による天保改革の奢侈禁止令に触れて江戸を追われたとき、成田屋七左衛門と名を改め、暫く成田山内の延命院に身を寄せている。
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