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<山梨県の世情と北杜市の市長・市会議員選挙>
弱ったものである。北杜市の市長選挙もせまり、中傷や暴露合戦が展開されている。田舎選挙丸出しであり、それこそ見っとも無いことである。
多大な借財を抱えての船出ではあったが、旧町村単位の確執が持ち込まれて複雑になっている。私たち傍観者はこうした事態の中の行動で、その候補者の本質を探ることになる。あふれる「怪文書?」でようやくこれまでの政治や内幕を垣間見ることができる。
市民にとって本来必要としない町村合併を演出して、数年前から駆け込み施設つくりや、必要としない事業を思い切って拡大して、借財を風船のように膨らませて、合併に持ち込む。当時のパンフレットにはできもしない美辞麗句やばら色の将来を約束した。市民もそうした将来などできないことは承知しながら、旗を掲げて合併となった。
しかし誰も合併後生活環境が好転したなどと考えていない。駆け込み事業など多くの負債を市民に背負わせた。これが現在も大枠の生活を圧迫する。当時合併に先制していた人も好転しない環境を憂い、「合併などしなければよかった」の愚痴がでる。
田舎の占拠など「金次第である」金を持ってこない候補者など相手にしない。かってこうした選挙に慣らされて選挙民は、「きれいな選挙」への展開を情けなく思う。有権者一人5万円一家8人では40万円ともなり、温泉地の家族旅行も可能であった。こうした明確な違反行為も田舎で恒例行事として存在した。
政治とはイベントであり、家計を裕福にする手段でもあった。昔の政治家など報酬もなく持ち出し政治家も多かった。現在は政治家(せいじか)など見たことがない。政治家(せいじや)が横行していて、職業化している。周囲には我田引水型の人々が集まり、貪欲に自分の意向を重ねる。選挙が終われば明らかな恩返し人事や取り組みを、さも新たな発想から生まれたように事業を展開する。
私たちは現在「立派な政治家」など見たこともであったこともない。ある高校で社会科の時間に協力したことがあったが、知事であり市町村長であり誰も名前すら知らない。学校行事などに数多く出席しても認知度は0なのである。まして彼らの尊敬する中にも皆無である。これは、昔と違い自らの努力や本当に人々のために尽くす政治家が少なくなり、他力本願の政治家が横行しているからである。
多くの補助事業や身動きできないしがらみの中での政治が最良とされる昨今、旧来の政治姿勢から抜け出せないようでは未来はない。
現在過疎化や高齢化がすすむ北杜市では後継者のいない集落が続出する、その隙間を縫って??法人などが事業の表裏に跋扈する。
将来の見えない事業を画期的な事業などと言い換えて、とってつけたような政府事業に手を出し失敗した例は山梨県では枚挙に暇がない。
山梨県ではあいも変わらず、中央から有識者と称する人が訪れ、多額な費用で開催される講演会など、市民より行政職員がよく聞く内容が多く、私たち庶民は綾小路の漫談で憂さを晴らすことのほうが有意義である。
子守唄尽き講演会は多く、大半は眠っている。達人になれば眠っていることは気づかれない。会場を見渡せば、関係者も眼鏡が鼻に斜めにかかったままの転寝、これは報酬内居眠りと呼ぶ。上司になれば達人になれる。
私は常日頃子供に接し、その活動の場を広げる努力と工夫をしている。年間300日はこれに関わっている。他力本願の子供の環境、内部から子供を思う、たぎるような姿勢は、今の政治家からは読み取れない。これから将来を支える子供に情熱や資金を投入できないようでは地域の将来は見えてこない。
最近山梨県でも??法人なるものが、植民地政策にも等しい感覚で出現して、多くの政治事業に関わっている。最近では南アルプスを世界遺産になどと言って新たな法人が設立された。富士山の世界遺産登録作業などもこうした類の法人が関わっている。わからない理解できない。山梨県にはこうしたことを扱える人材も部署もないのであろうか。
世界遺産登録など保全や保存のためでなく、観光事業が目的であることは明確で、虎視眈々と狙う業者や関係組織団体までそれが照準である。白川郷や日光東照宮など見学の対象が世界の人々であり、動きもとれず身動きできない。こうした中でも資金力と宣伝力のあるところは残れるが、地域に力のないところは行政がいかに力を入れようがむなしいものとなる。
さて田舎選挙であるが、中傷合戦などやめなさい。お互いが良い所を認め合う様な大人の選挙をしてほしい。お互いの欠点や政治展開を非難しても、北杜市の借財や環境は好転しない。今は力の結束が必要で、植民地政策からの脱却である。だれがやっても長い距離苦闘が続くことは誰でも理解している。
行政も市民の上に存在するのでなく、市民を支える立場の確認が必要であり、市民より意識を高く持つことが肝要で、市民より勉強不足が目立つ昨今再教育が求められる。職員自らがどのように地域づくりに取り組むことができるかが今後の市政の鍵を握る。必死の姿勢があまり見られない。補助事業のみに頼りすぎると、取り返しのつかない郷土となることは林業を見れば一目瞭然である、「豊かな景観」「豊かな自然」「豊かな森」を自ら崩壊させる事業を展開しているようでは将来の大きな財産の消失なり、子孫の郷土離れを増進させることになる。
「企業の森」や資金など何の必要も認めない事業で、周囲に森林を食い物にするものが陰日向にうごめくことになり、田舎の森林が利用されるだけである。
地域の人が育て地域の人々の生産の場にすることが目標理想であり、これを求めることが林政の基本である。とってつけたような林政にを受けると多大な地域犠牲が生まれることなど識者であれば理解できる。
自然破壊を繰り返す林政は山梨県でも多く見られ、森林地帯には戦場さながらの重機が行き交い、山野が踏みにじられている。大鷹も熊鷹も貴重な動植物も踏み荒らしながら進む植林や間伐事業からは「水と緑の山梨県」は見えてこない。
行政関係者は今こそ実態調査をして再考しないといけない時期で、観光の基本を失いことにもなる。
無用の施設が多すぎる施設も、運営上即、「民間委託」にすることなく、多くの視野から決断が求められる。多くの「指定管理」から市民の使用勝手が制限されるものも多くなっている。闇雲に指定管理を進めるのであれば、行政そのものを指定管理にすれば、スリム化して職員も現在の半分で済む。
多くの市町村合併前の職員を総抱えするほどの財政のゆとりなどない。自ら見を切る厳しさが職員にも求められる。無理な合併、無理な運営は続く。
長い間企画も資金も上から流れ続け、これは現在でも続いている。これが職員の自らの試練と勉学の場を失った。外部の会社の作成した文脈からは、言葉は巧みであっても内容が伴わない。「緑」「太陽」「自然」「水」「森林」など組み合わせ、間に数字と難解の言葉を重ねると、「緑と自然が豊かな町つくり」「太陽の下で清流のせせらぎ」など標語が生まれる。
「環境を創造」するとの言葉も意味深である。環境の中の大部分は「自然」である。それを創造するとはどういう意味を持つのであろうか。これは神のみ成せる業であり、政策にはなりえない。
私は現在のような低レベルの政治などに何も期待していない。できること私にできることを家族とともに着実に展開して、樹木と家族と子供のことを考えながら死んで生きたい。
選挙のときに躍起になる方々は日ごろの活動がすべてであることを認識すべきある。荒れている森林は自ら入り手入れをして、困った人には口でなく補助金要請でなく、手を差し伸べ、講演会の演者には地域から発信して、大学教授連に聴かせる。そうした人材の養成もしていきたい。
自らが年金で暮らし、そうした中で多くの職員の高額な退職金など支える能力などない。生産と消費のバランスの崩れはもう修復できないところまで来ている。借財財政の中で、今後も削ることができないなら、破産してやり直したほうがよいかもしれない。
もうこう以上の中傷や人間尊厳を非難することはやめて、今後北杜市をどうするのか、わかりやすい言葉話してほしい。非難合戦から生まれるものは何もなく、人間関係の修復も残像の中で永続する。選挙でなくても持論や施策は実現できまた訴えられる。
こうした選挙を繰り返すのであれば、北杜市内の子供に将来はない。過疎化の進む中でこうした政治過疎的選挙展開は即刻やめて、そのエネルギーを子供にください。その費用をもください。田舎の良識は「得々選挙」「人脈選挙」である。「人柄選挙」「実績評価」の物差しにはならない。これからは少ない人材と少ない費用で最大の効果を生むことが慣用であり、これができない人材では、市政を任すことはできない。北杜市内は文化と??法人それに政治の吹き溜まりにならないように願う。また市会議員に望むものは何もない。ただ給料分だけは仕事をしてください。政治は議場ではない市民の中にこそあるのです。<誤文・誤字・脱字・言い過ぎ・誤解など未訂正>
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>選挙のときに躍起になる方々は日ごろの活動がすべてであることを認識すべきある。
ほんとうに。
選挙カーだけ、熱心でも困ります。
2012/11/11(日) 午後 6:34 [ ゆう ]