サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

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山本勘助よもやま話
引用資料『武田二十四将論』保坂義照氏著昭和19年刊

 筆註―この書には山本勘助について記されている部分が多く見られる。全文を転載するわけにもいかないので、部分的に抜粋して掲載する。

『武田二十四将論』
○信州塩尻合戦等(P104)

 (略)天文十二年正月三河牛窪の浪士山本勘助二百貫にて召し抱えへらる。

○信州戸石合戦その他(P107)

 (略)かくて此合戦武田軍の敗軍と見えて時、山本勘助晴幸、未だ足軽二十五人を預かる軽輩であったが、旗本にあって此の體を見、自分の同心を他の大将に預けて信玄の前に進み、
「村上、只今御旗本へかゝって一戦と相見へ候、甘利備前、横田備中殿討ち死に仕り、甘利殿家中、手負死人おほく有様に候へども、晴信公猛き大将の、御下の衆なればこそ、今に甘利衆崩れ申さず候、強きと申候ても又左様には堪へられぬ者にて候、甘利衆の崩れぬ前に何卒御分別遊ばせ」 と申し上げた。其處で信玄が、
「信濃、先方衆の味方各崩れたちて、其の下知も一廉仕可様、無之と覚へたり。所詮小山田備中途、諸角豊後と某旗本三備にて一合戦して討果たすより外の分別二つなし」 と云った。其處で勘助が、
「敵の同勢を南へ向け給へば、此の合戦、後は御勝
 と申し上げた。信玄は又、
「味方さへ下知につかぬ所へ、敵の備へを味方の仕様で南へ向けるなど今迄聞きたる事もないが、如何するか」
 と云われた。そこで、勘助が、後備の諸角豊後の五十騎を借り度き旨を述べて、信玄の許しを得手諸角勢を借り受け、五、六町前へ出て備えを立てるのを敵軍が見、案の条人数を纒めて前へ出た。其處で勘助は旗本へとって返して旗本足軽衆、半分及小山田備中手勢七十騎と共に打って出て敵を敗走せしめ事に成功した。
 これを山本勘助軍配の秘術大勝星と云ふ。云々
○川中島大會戦の布陣(P124〜)
 『大日本戦史川中島合戦』
 一、妻女山夜襲部隊山本勘助入道道鬼。
  尚外に総本陣信玄旗本として軍師山本勘助、云々

○武田家の軍政と其の人物(P229)
 足軽大将 山本勘助

○ 武田家の軍政と其の人物(P240〜241)
 山本勘助晴幸−勘蔵信共(長篠で戦死)
 山本勘助に就いては色々の説があるが、(別項参照)甲陽軍艦に左の如く見えている。
「本国は三州也。度々この手柄を顯し、信玄公御にても、数度の働きをいたし、武略たくましきを以て信州に於て数箇所の城を攻め落とし、一代手疵を蒙る事六十三カ所なり。此内お家にては二十カ所と雑談する、知行八百貫被下、川中島にて討死なり。子息も若く候へ共、二三度よき事候つる、去々年長篠にて討死なり。」
とある。
 去々年というからこれは天正五年に高坂弾正昌信の記したもので、間違ひはなかろうと思はれる。勘蔵信共と云ふのは、秋元氏の風雲の長篠に見えたものである。其の他、勘助には、甲陽軍艦の元を書いたと云ふ子供があったと云ふが果たしてどうか?山本勘助を山縣昌景の軽卒であったとしている『武功日記』も、それ程信憑すべきものではなかろうと思われる。


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