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〔富士講の隆盛〕
<富士山(『山梨県の地名』「日本歴史地名大系」19)>
<長谷川角行>
戦国時代末期に現れた「長谷川角行」は修験系行者の一人で、この世と人間の生みの親はもとのちち(父)・はは(母)、すなわち富士山が根本神であるとし、江戸とその周辺の庶民の現世利益的な要求にこたえて近世富士講の基礎をつくった。
<長谷川角行以後>
正保3年(1646)に106六歳で人穴(現富士宮市)で死んだというが、その信仰は弟子の日旺・旺心・月旺へと伝えられ、月心とその子村上光清(天和二年・1682〜宝暦九年・1759)の光清派と、月行から食行身禄(寛文11年・1671-享保18年・1733)へと受継がれる身禄派の二派に分れた。
<光清>
光清は北口の富士浅間明神の修理をしたことにも示されるように、その財力によって身禄派を凌駕しており、吉田では「乞食身禄に大名光清」といったという。
<身禄>
<富士山(『山梨県の地名』「日本歴史地名大系」19)>
身禄は世直しの理想のため、享保18年(1733)に富士山7合5勺の烏帽子岩で入定し、それに従ったのが田辺十郎右衛門である。身禄は入定にあたって信徒の登山本道を北口と定め、吉田の御師宿坊を山もとの拠点とした。これからのち身禄派が優勢となり、その教えは江戸時代後期にかけてしだいに呪術性を脱却して、筋道のたてられた教義をもとに独自な実践道徳をもつものとして発展していくこととなる。
<身禄その後>
さらにその信仰は身禄の三女花、参行、「不二道」を興した小谷三志などへと継承された。そのため幕府の弾圧の対象ともなった。
18世紀も半ばになると江戸市中にあっては禁制が出されるまでに組織化され、広がりをみせていた。寛保2年(1742)の御水の禁止に続いて、寛政7年(1795)には「富士講と号」して奉納物を建立し、行衣や数珠を用い、祭文を唱え、あるいは護符を出したりすることを禁止する「触書」が出されており(御衝触書天保集成)、その頃までに富士講が組織的に確立されたことがうかがわれる。
「江戸は広くて八百八町、八百八町に八百八講」
といわれるほどに数多くの講の分立をみた。
<富士山(『山梨県の地名』「日本歴史地名大系」19)>
<川口御師坊の衰微>
これらの富士講道者の登拝口としての吉田とその御師宿坊の繁栄に対し、それとは一線を画して旧来の信仰を持伝えた川口御師坊は、中期以降しだいに衰微していくことになる。大衆化された道者が、信仰の拠点でまた地理的にも条件のよい吉田口へ直接向かうことになったためである。
富士山縁年の庚申年には大祭が執行されて、いっそうの賑いを呈した。
<女人の登山>
女人の登山は通常の年は2合目改所までに定められ、「女人禅定場」から山頂を拝するのみであったが、縁年には4合5勺の御座石浅間杜までの登山が許され、その場で遥痒した。
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