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長保 1年 3月 7日 999
富士山噴火。南側。駿河方面に被害。 本朝世紀
▽(前略)駿河国言上の解文に云わく、日頃)不字の御山焼く由、何の祟りぞてへれば、即ち卜して云わく、若しくは、恠の所に兵革疾疫の事有るかてへり。此の間太宰府貢上の雨米一袋・湧出せる油一瓶等のことを奏聞す。即ち、上卿覧了り、弁官の文脈に下し給うこと巳に了りぬ。 本朝世紀
長保 5年 1003
富士山噴火。 更級日記
長保 6年 2月 10日 1004
▽駿河方面に被害。噴火は長保5年(1003) 更級日記
寛仁 1年 9月 1007
九月、北方三カ所より噴火。 富士古文書
寛仁 1年10月 21日 1007
▽十月二十一日…御一条天皇より諸神に一代一度奉幣。 左経記
寛仁 4年 1020
富士山噴火。
治安 1年 1021
▽富士山頂の活動を伝える。
長元 5年12月 16日 1032
長元5年12月16日〜長元6年1月25日富士山の南側噴火。
長元 6年 2月 19日 1033
起白峯。至山脚。 日本紀略
爆発溶岩流。 噴火年表
康平 2年 1059
富士山噴火。
承保 3年 3月 28日 1076
有 富士山焼燃恠 焉。
永保 2年 1082
★大洪水。
永保 2年 2月 1083
富士山噴火。 歴史年表
▽富士山焚く、二月より十月まで火焔をあげる、 扶桑略記
永保 3年 7月 1083
溶岩流、末端は西桂小沼付近、流出方面は不詳。 歴史年表
▽富士山の活動がやみ、煙も途絶えたて休む。小噴火ながら話題にのぼる。 扶桑略記
▽剣丸尾溶岩流(『都留郡の謎を解く』窪田薫氏著)
▽白河天皇、七月…………。二月にも噴火か 歴史年表
文治 6年( )以前 1190
西行、山家集。
けぶり立つ富士におもひの争ひよだけき恋をするがへぞ行くあづまの方へ修業し侍りけるに、富士の山を見て風になびく富士の烟の空消えて行方も知らぬ我が思ひかな
元永 2年 1119
★洪水。
天治 2年 1125
★洪水。
長承 2年 1133
★洪水。
寛喜 3年 9月 1231
★大洪水。
養和 1年 1181
▽富士山崩壊。
仁治 3年 9月 1242
★河川氾濫。鰍沢方面の被害甚大。
建長 4年 1252
▽富士山噴煙。
文永 2年 1265
▽噴煙活動続く
元弘 1年 8月 19日 1331
▽地震・崩壊。水煙あがる。
延元 2年 1337
▽噴煙活動続く。
文和 2年 1353
▽噴煙活動続く。
文亀 1年 1501
噴煙をあげる。隆灰あり(水蒸気爆発?) 噴火誌
永正 8年 1511
富士山噴火。 鎌岩噴火
富士山北側吉田口3000~2700 付近に溶岩流失。 噴火年表
永禄 2年 1560
富士山噴火。 大原旧記
富士山噴火。 日本災異記
寛永 4年11月 23日 1627
富士山噴火、江戸に四日間黒色の灰が降る。 日本災異記
正保 1年 1644
富士山噴火。 日本災異記
正保 4年 1647
富士山噴火。 日本災異記
慶安 1年 1651
富士山噴火。 日本災異記
元禄13年 1700
富士山噴火。 日本災異記
宝永 3年 1706
富士山噴火。 日本災異記
宝永 4年 1707
富士山噴火。宝永3年十一月二十二日ら二十三日にかけて駿河・甲斐の富士山麓一帯に地震、二十三日大爆烈する。被害は江戸・戸塚・江ノ島にまで及ぶ。(別記)
宝永 5年 1月 7日 1708
富士宝永山噴火。降灰、武州(埼玉)に及ぶ。
宝永 5年 2月 24日
富士山噴火。
宝永 6年 1月 16日 1709
富士山噴火。 日本災異記
安永 7年 7月 1778
富士宝永山の下で噴火(側噴火)印野溶岩流か。 日本災異記
寛政 4年 6月 29日 1792
▽富士山で岩石が飛び、死者二十人をだす。(水蒸気爆発か) 噴火年表
文化 6年10月 3日 1809
▽富士山崩壊。 噴火年表
富士山小噴火。
文政 8年 7月 26日 1825
▽富士山鳴動。
天保 5年 5月 16日 1834
▽山津波。
天保 6年 2月 8日 1835
▽富士山振動して石魁飛散する。 噴火年表
安政 1年 1月 4日 1854
▽富士山鳴動して岩石が崩壊する。 噴火年表
明治23年 4月 17日 1890
▽富士山振動して石魁飛散する。 噴火年表
昭和14年10月 1939
▽地震群発。
延暦・貞観の噴火について(『火山灰は語る』町田洋氏著)
1、延暦・貞観の噴火
古文書に残された富士山の噴火記録は、天応一年(七八一年)を皮切りに十三回以上もある。その中で八00年の延暦一九年と八六四年(貞観六年)の噴火は宝永の噴火に比肩する規模のもので、多量の溶岩が流出して山麓の地形を一変させた大活動であった。
延暦19年6月6日 800
富士山が3月14日から4月18日まで噴火し、昼間は煙で暗く、夜はその光が天を照らす。雷は響き灰は雨の降るように降下して山河を紅くした。…『日本紀略』
砂礫が霰のように降った…『日本紀略』
富士山の東の麓に小山があるが、元は平らであった。延暦21年3月雲霧晦冥、10日にして山になった。…『富士山記』
富士山が噴火して砕石が道(東海道)を塞いだので足柄路を廃して箱根路を開く。…『日本紀略』
以上のようにこの噴火によりテフラが噴出して東方の地域へ降下・堆積したことは事実である。おびただしいテフラが足柄路を埋めたので、降灰の影響がなかった箱根路を新たに開くが、翌年足柄路も再開されるが、東海道の本道に復帰することはなかった。
貞観 6年 864
駿河国正三位浅間大神大山、噴火しその勢いは甚だしく、12里四方の山を焼く、その火炎の高さ20丈ばかり、雷あり、地震3度、十余日を経ても火勢衰えず、岩石を焦がし、峰を崩し、火山灰雨の如し、煙雲深くして、人の近寄るを得ず。富士山の西北の本栖湖に溶岩が流入す。溶岩の長さ30里、幅3,4里、高さ23丈ばかり、火炎ついに甲斐の国境に達す。…『三代実録』
富士山大火を吹き、山を焼き、草木を焦がす、土、礫、石流れ、八代郡本栖、セノウミ両湖埋まる。湖水の水は熱湯と化し、魚、亀、等皆死す。百姓の家屋は埋没し、又埋没せずとも人なし。その数かぞえ難し。…『三代実録』「甲斐国解文」
津屋氏の研究によれば、この時の本栖湖・セノウミ(今の精進湖と西湖の前身の湖)の達した溶岩は、現在の青木ケ原樹海を造る溶岩で、富士山西麓の寄生火山、長尾山より噴出したものである。長尾山は火砕物がストロンボリ式噴火で積もってできた小さな砕屑丘だが、その最終期に、多量の流れやすい玄武岩質溶岩が流出してセノウミを二分する。他にも北山腹2900mの割れ目火口から噴出し、北麓富士吉田市を流れた剣丸尾溶岩流の下底と思われる土層から古銭が出土した。(河口湖博物館)
2、富士山溶岩流の説明(小川建三氏の調査による)
延暦と貞観の溶岩
山中溶岩流(鷹丸尾溶岩流)
現在の山中村から忍野盆地の大半を埋没させる。小富士の下方より噴出した溶岩が桂川の上流部水口川を塞き止めて山中湖を造り、 この地域に在ったとされる水市駅を水没させ、さらに溶岩は長生・宇律野二村を埋没と云う。
猿橋溶岩流(檜丸尾・雁ノ穴尾溶岩流)
富士山三合目下の焼山辺りより梨ヶ原を流れ、上吉田の小佐野・明見を通って桂川沿いに大月市猿橋まで流下する。従来富士の基盤 熔岩と考えられていたが、延暦度の物と推定されている。
忍野盆地に在った宇津湖(火山堰止湖)は流出部の浸食作用で小さく挟まり、その部分に鷹丸尾が流入して埋まったが、流出部を檜 丸尾が塞ぎ小佐野の滝(鐘山滝)を造り、加吉駅・明見など六ヶ村が埋没したと云う。延長40 に及ぶ。
船津溶岩流
現河口湖の湖尻部分、凡そ4 を埋めている。埋没以前はセノ海より流出する大田川と阿座川(浅川)が在ったとされ、この部分に 船渡村が在ったが埋没し、元々在った小海と阿座川の水を溜めて河口湖を造り、阿座川村を水没させた と云う。
鳴沢・太田和溶岩流
足和田山南麓西端から東端に及ぶ熔岩流。長尾山の下辺りから流下して、鳴沢・太田和を埋め、太原の集落に至ったと云う。西端付 近にはせノ海から太田川が流出し、この辺りに川口駅が太田川沿いに在ったとされる。尚、大原村付近は大原荘が置かれた。
大室溶岩流
大室山の下方から流下して「セノ海」に入り分断、本栖湖を造る。?
剣丸尾溶岩流偵(貞観6年)
富士北側八合目付近の牛ヶ窪から、三合目の座敷山にかけての亀裂噴火。流下して赤坂付近から下吉田の新倉辺りに在った御舟湖(小舟湖)を埋め、西桂町に至る延長20 及ぶ溶岩流。
青木ケ原丸尾溶岩流(貞観6年)
富士山北西の弱線帯の亀裂噴火。精進口一合目付近から流下して、寄生火山・大室山麓包み込み、流出熔岩は扇状に拡がり、延暦度 の噴出溶岩を埋めて「セノ海」太半を埋めて西湖と精進湖を造る。この時本栖湖完成か。溶岩の分流は足和田南麓に沿って流れ、『 三代実録』によれば「百姓居宅与海共埋」とあり、この時に川口駅や太田川の埋没が完成したか。
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