サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

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高野山武田信玄画像の山梨県公開は既に有った
<昭和41年10月>
高野山成慶院 信玄画像について
その面影 三人の肖像画より
上野晴朗氏著「定本 武田勝頼」

古い歴史の軌道を文字で再現し、組み立ててみようとすると、しょせん、どうしても見えない謎の部分が残ってしまう。そして、その謎の部分のほうが、ときにはどう考えても、残された古文書よりもその歴史の軌道にとって、決定的に重大である場合がある。武田勝頼のほとんど唯一の画像、その面霧を前にして、弘は長いこと、そのことに思いを染めてきた。その画像というのは、和歌山県の高野山持明院に蔵される「武田勝頼・同夫人・信勝公画像」の一幅である。去る昭和四十一年十月のことであった。<写真は同書>

私は、山梨県が甲府市内で催した「武田三代展」に、この画像と、あの有名な成慶院に残される重要文化財の武田信玄画像の二幅を、高野山の宝物館から借りてきた思い出がある。
そのとき、所有者の成慶院と持明院の肝煎で、武田氏減亡後、何百年の間、おそらく一度も御国帰りをしたことのない信玄の兜とか、松虫の鈴とか、文箱とか、念持仏など数十点の秘宝を借用して、故郷ではじめての公開をするため、一路甲斐に向かったのであるが、そのときの張りつめた緊張感を、いまだに私は忘れることができない。
(中略)
高野山持明院で調べた範囲では、遺品目録には「勝頼公拝御台所御曹子寿像一幅」と一応見えている。
寿像という表現は「寿」という字が示すように、生前に描かれた絵ということで、追慕によって描かれた記念肖像画とは違うのである。
ところで持明院には、この肖像画がどうして納められたかという手紙と、遺品目録も残されていた。
(読み下し)
「今度当国落去、勝頼公御生害是非に及ばず候。貴院お力落しの段察せしめ候。茲に因って、貴山において御弔の儀仰せ置かれ候。尤も早々登山仕るべきのところ、散々に相煩い候故、延引し罷り過ぎ候。此の空園坊は幸い根来寺の住山に罷り上り候条、御道具ならびに金子指し登し申し候。勿諭注文は別紙に有り。我等快気次第に罷り登り申すべく候。委曲は面上の時を期し候。恐々謹言
卯月十五日               慈眼寺尊長
高野山引導院御同宿中
注文
一、勝頼公井御台所、御曹子寿像      一幅
一、宝剣 信玄公御随身          一腰
一、飯縄本尊並法次第信玄公御随身     一冊      
一、対揚法度書 信玄公御自筆       一通
一、毘沙門 信玄公御具足守本尊      一躯  
一、小脇指                一腰
一、大勢至菩薩 勝頼公御本尊 小野道風筆 一幅
一、観音品 勝頼公御前守         一巻
一、三尊弥陀 同御守 中将姫織縫     一服
一、仏舎利 同御守            一粒
一、黄金                 拾両

右の品々指し登し候。宜しきよう御廻向成され可く候。已上。
卯月十五日
慈眼寺 尊長
高野山引導院(以上二通高野山文書第七巻)」

これによると、この肖像画と遺品の数々を納めたのは、甲斐国一宮村の真言宗慈眼寺の尊長(尊浄とも)という坊さんで、生前、勝頼の深い帰依をうけて親交があり、かねがね武田家が減亡したならば、高野山へ遺品を指し登らせて葬儀を営んでもらうようにと遺命をうけ、回向料と遺品を託されていたというのである。この控本は慈眼寺にも二通残されていて、その包紙にその旨が記されている。
それにしても「…貴山において御弔の儀、仰せ置かれ候」という遺言は胸にしみる鮮烈なことばであった。
なお引導院は、のちに持明院と改名するのである。
尊長老の手紙の包紙によれば、天正十年(1582)三月十一日、武田勝頼が天目山下の田野で減亡すると、かねて遺命をうけていた尊長は、すぐにも高野山へ登りたかったのだが、たまたま患って臥せっていたので、延引して困っていたところ、寺にきた空円(園)坊というのが、根来寺へ住山が決まりそちらに行くので、寿像ならびに遺品を託したというのである。そして後日、尊長老自身も約束にしたがって、病気が全快すると高野山へ登っていったのである。
これに符合する史料として、勝沼町上岩崎の真言宗金剛寺の寺記を見ると、天正十年に中興の祖、曾根源助が、尊長といっしょに高野山へ遺品を運び、その場で落髪して帰国、金剛寺を修復して住んだと見えている。曾根源助は勝頼の家臣として、あるいは遺品運搬の遺命をうけており、空円坊といっしょに先に登ったのかもしれないが、いずれにしても武田氏滅亡後の四月半ばすぎ、高野山で回向が営まれたことは事実であろう。
引導院過去帳に
「泰山宗安大禅定門 神儀甲州武田勝頼公為御志 天正十年壬午三月十一日午剋勉」
とあり、また
「英材雄公大禅定門 神儀甲州武田太郎殿御志 天正十年壬午三月十一日午剋」
と見えている。そうなると、その回向に使った掛真(けしん)は、この三人の肖像画であったことはほぼまちがいあるまい。云々


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