サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

さぶやんの歴史散歩

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 下記文書の中の一通が「勘助実在説」というものである。

市川文書の仝撮影
   カビネ版で二百数十枚
「信濃」第十一号
出羽の大富豪本間家所蔵
酔古生著
 出羽酒田の富豪である本間家に市川史書の所威されて居る事を発見されてから殆んど満二ヶ年になる。丁度その当時は、同家の代換りの時で、新戸主の公正氏は、学生々活から一躍大世帯の主人になった事とで、自分の家ながら、一向に様子が判らず、その上彼家の内規として、主人以外には絶対に出入を禁じられて居る土蔵が、二棟存在し、文書類其他の重宝ものなどは、概ね其中にあり、そこへ新主人公の不案内と来て居たから始末が悪い。鈴木知事から依頼状まで出して貰い、寓眞乾板も三十ダースも持参に及んだのだけれど、其俵退却の余儀なきに至った次第であった。
 昨年も亦、米澤へ出張の帰る道すがら立寄った。その時も亦未発見とあって、すごすご退却。更にニケ年間に手紙で問合せした事は何十回。或は故伊佐早先生の令嗣、信氏を煩はした事もあった。返答は当主公正氏からも数回、分家の本間氏からも、該家細管の圃書館長白崎光弥氏からも、その時々に来て居るので、何れも少し待ってくれとの事だから、怒るにも怒れない。
本年になっても亦数回の伺いを立てたのであったが、最終の八月初めの手紙の返事が、月の十三日に到着した。それが、思はずも吉報であったのである。
 山形県史料の殆んど最終の探訪ともいうべき出張に兼ねて、本間家にはまだ外にも伊佐早史料がある等だから、それの探訪をも兼ねて、米澤から酒田へと同来したのは、九月十一日。早速、あこがれの市河文書といふものを正確を見せてもらうことになった。省みれば、其一部分を米澤の伊佐早先生の机下で拝ませてもらった時から、二十年後を過ぎて居る。あるは、あるは、藍色の紙の琴訂をした巻ものが、三十巻もあるのである。
 文書の教が百四十七通、下高井郡中野小峯校で印刷したパンフレット式市河文書は、信濃史料叢書かたとったものであるが、あれよりは三通少ないのである。維新後、市河家の保存された時は、もつと沢山あつたに相違ない事は、伊佐早先生の常に語られたところであり、且また應永三十年前が、首四十六通であって、此間百四十年を飛んで永禄十二年のものが一通、寄生虫のようについて居るも不審、実は戦国期のものはまだ出ない史料も、四五点散在して居り、文章だけ判って居る史料も少なくない。平安朝からのものを保存した程の家柄だもの、戦国期のものが存在せぬ筈はない。此鮎か考へても、應永末年から永聴十二年迄の百四十余年間のものは、少なくとも二十通や三十通は存在したるべく.現に越後高田の謙信文庫には、應永より前の至徳三年の市河文連が一通現存するのである。かような語だから、現在此文書から紛失して居る部分は、恐らく、一半以上であろうと思う事を禁じ得ぬ。詳細は、該写真に附録として貼附する証明書に書くつもり、そして、公開する積りであるから、その時を期して貰う事とし、云はば、現存の市河文書といふものは、應永以前のものであるといふ事が、最も特色の一つであるというべきであろう。
一口に應永といっても、五百三十年の昔である。その前の文書が、百四余通もあり、殊に鎌倉前のものもあり、義仲もあり、頼朝の弟阿野全成のものもあり、北條氏などは、時政以後、殆んど歴代の花押を有して居訳であるから、諸家文書中でも珍とするのは当然である。殊にその諸家中でも、市河家といふものは、大名でなくて、徹頭徹尾、信濃国境の小名であったといふことが、珍中の珍といふ澤にもなる。
何となれば、その結果としての文書も亦、徹頭徹尾、郷土的であるからである。そして、その上に、中央舞台の上に役立って居る事の如何に多きかは、苛も大日本史料を見た者の百も承知の事であろう。
 又前記三通の不足については、中野学校印刷の市河文書その前に本間家へ送って置いたから、私より十日程前に偶然該文書を一見した帝大の伊木寿一氏(史料編纂官〕一行も、中野校本杖として研究した際に発見し、帝大と本間家との貸借時代の返却洩れではないかとの疑問も.発生し、其疑問を留保されてあったが、併し、私の所有する故伊佐早先生の古文書目録は、直ちにこれを他の中に発見したのである。
即ち、其三通は、
一、應永七年十月五日
      足利義満の感状
 二、同年四月二十九日
     小笠原長秀安堵状
 三、(應永中)七月二十六日
       細川慈忠書状
 であって、前二文書は、大塔合戦に市河氏が小笠原氏の部下として血戦した時の関係書類であるのであるが、勿論此三文書も市河文書中にあったに相違ないけれど、維新後逸散の後、拾はれた時に、別々であった為に、伊先生の分類中に於いても、微古墨宝といふ乾坤二冊ある中の乾の方に牧蒐されて居たのであって、それだから、今現在の市河文書中には、補遺されて居なかったのである。といふ様な事は、調べてから判った事であるが、とに角、此文書を見た時には、何となく感慨無量なるものがあった。八百年来把握されて居た此文書が、市河家から押流された維新の怒涛の如何に大きかったかといふような事、これらを三円の月給の時、一文書十銭位に蒐集された伊佐早先生の篤学、ては、我等の郷土に、今から三軍一手年前までは、小氏人と市川文書の会撮影.銅棒室からして、鏡をつけられた練に国境を守り、巣鷹を守って、四五百年間連綿とした市河氏の事ども、それらが、此三十巻の藍色の巻物と同時に頭に走馬燈のように描き出された影画であった。
 披見につれて、更に更に驚いた事は、どの文書も、どの文書も、とても汚れて居ないといふ一事である。殊に鎌倉時代のものは、日本の他の残存文書と共に、重に訴訟の文書であるが、其書体などは、どれを見ても、一つ一つ、骨習字の手本となるような楷行の問の名筆である事、共文書の文章が、判決文としても、詳細を極めて居る事などである。以て、鎌倉時代の民がのびやかで、穏健で。
民衆的であった事まで連想を禁じ得ない程だ。
 その他にしても、何としても、一家で、各時代を串通しにして居る話だから、各時代の文書相の一通りを僻へて居る点は、古文書学の上からしても一つの規範的のものと云い得よう。
下文、副下文、下知状、奉書、書状、譲文、訴訟、置文、注進、応宣、申状、所牌、着到状、軍忠状、感状、預ケ状.安堵状、契約状、宛行状、行渡状、定書、などの種類を、如宝に見るように感得出来る点に於いて尊い。光丘文庫の二階を臨時写場暗室等に借用して、約六日間で、此文書の穐影を終了した。文書の裏に影書きの花押もあれば、文書もある。これらは、主として鎌倉時代のものであって、文書上の特色でもある。凡て是等迄も写了したのである。
 その外にも、本間家及び酒田の古文書殆んど仝部を歴訪したが、信濃関係のものが、三十お近く存在したからこれらも概ねレンズに入れた訳である。
 終りに写真技術者の事についても、一言し置かればならない事がある。県内の史料撮影には、長野市荒木の篠原文雄氏が犠牲的に徒事して居ると同様に、山形県の資料撮影影には、米澤市の神保一臣氏が、四五年来を通じて、単に撮影ばかりでなく、史料蒐集の手助としても、殆んど、献身的に努力してくれられた一事は、是非此際報告し置きたい処である。今度の市河文書の撮影に関しても、同様であった事は云う迄もない。
 此雑誌の出る頃は、多分写真が配布される時であろうと思うが、この催しを最初から替助された更級、上下水内、上下高井郡の教育部含、及び加盟助達につとめられた諸法人に対しても、謹しんで、謝意を表して置く。

http://blogs.yahoo.co.jp/kitanomorirekisi2007/9293092.html
http://blogs.yahoo.co.jp/yamamotokannsuke2003/12800542.html


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