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花の歳月
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)
年々歳々の花は変わらぬが、花を見る人の心は同じではない−ということばは、きわめて日本的である。一年を二四季節に分けるほど、時々刻々に四季が推移する風土は、他国にも類がなかろう。
四季一二カ月を彩る自然と草花の実は、日本人の精神生活に深い相関を持ちつづけてきた。文芸に、美術に、祭式に、時の花をもって飾るという伝統を現代ではどう受けついでいくであろうか。
古くは八幡放生会とよばれた三大勅祭の一つ−石清水祭に、「供花(くんげ)」という一二月一二個の花の作り物が、九月一五日の祭に、幣吊とともに宮内省よりおくられる。その起源は明確でないが、『日本書紀』に
「いざなみのみことを生む時に、灼(や)かれて押さりましぬ。故(か)れ紀伊国の能川野の有馬村に葬りまつる。土俗此の神の魂を祭るに、花の時には、亦花をもって祭る。また鼓・吹・幡旗を用て、歌ひ舞ひて祭る」
とある古代の民俗にまでさかのばることができよう。寛永のころ、御所方の好みで京極黄門=定家の十二月の花鳥の歌の心を「十二月の懸物」として、直径四五糎くらいの花鳥の作り物に一米くらいの五色の糸を吊るしたものを、月ごとに飾ることが始まった。石清水祭の「供花」は、仏前荘厳の花鬘(けまん)と懸物の神式化と考えられる。
聖なるものの来臨−祭というものが、労働の日々に対して、聖なるものを俗なるものと明白に区別する。古来から日本人は、天香具山の榊や笹葉や日かげかずらなどの常緑植物や、樹木・稲藁の注連を神聖のよりしろに用いてきた。後世には、花の荘厳が盛んになったが、植物の生気を人間エネルギーの再生更新のためにする、年々歳々の祭式のシンボルとする観念は変らず今日にまでつづいている。
人間短命起源神話のヒロインー木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を不死(富士)の山にまつる富士宮浅間神社では、祭の日に社憎が悼・花鬘(けまん)をかざり、花振りの清め舞を延年舞の序に行なった。
生存の条件は食であるから、農耕儀礼に貫かれた日本の祭には、皐月(陰暦五月)のお田植えを神事とする神社が多い。また、伊勢神宮には、「朝夕大饌(おおみけ)調進祭」という日並みの祭りが連綿とつづいてきた。これは、産みの火力を蔵する処女の童女六人の物忌みの子らが、神聖潔斎のうちに、清火で炊いた熱鱗−火と水による煮沸料理を、朝な夕なに神に捧げる式である。父親と供人の介添で、白絹の冠り物をつけた童女が、神苑の朝夕のしじまに神に奉仕する姿は、清争な花にまごう美しさであった。各地にみる童女の頭上神饌運搬、童男の女装椎児舞、椎児田楽を神事とする祭や、草花を飾った風流傘、造花をあしらった田楽笠に垂れる赤布水引、母親の丸帯などは、この童女物忌の観念−「生命の火処」のシンボルのヴァリユーショソなのである。
栽培植物の起源が、地母神イザナミの死と、火神迦具土の誕生を介している神話は、祭式に具体化された観念のことばによる伝承である。
ほととぎす鳴く声聞くや卯の花の 咲き散る丘に田草引くおとめ (万葉集巻一〇)
農耕時期をつげる「自然暦」として、向う山の斑雪の像や、野山に咲く花を目じるしにしてきた農民はもちろん、高原台地の山水自然の美を、心のよりどころにして生きていた先史縄文時代の人びとは、野山の花々に悠久な宇宙回帰のリズムを深く感受していたにちがいない。季節の花々は冠婚葬祭の荘厳であり、折り目ごとの神供であったことは今日も見られる。東北地方の水沢市の西の式内社於呂閉志(おろへし)神社の田植祭には、山かげの残雪に咲く赤い椿の一枝と山笹とを、参詣人は神符とともに持ち帰って家々の神棚に供え、田植後に枯れた椿と神符を竹に挟んで、田の水口に立てるならわしがあり、これなどもその一例である。
鎌倉時代の十三世紀に、達磨の正法を伝えた道元禅師は、仏性を四季折々の花の本性に同じと喝破している。時節到来とは、春に開花する、桜・桃や緑葉をたれる柳が、<花は紅、柳は禄>としてそれぞれの個性ある姿を完成・具現する−「存在はすべて時である」という思想に根ざしている。これほ、存在はすべての時のうちにあるというのではなく、人も花も、すべての存在は生即死という形で尽界を占めているという−無常迅速・生死事大の禅的思考である。
奥美濃の郡上郡奥名方町寒水(みょうがたかんすい)の秋祭には、華やかな風流が、百三十数人の老若男子によって、白山神社に奉納される。
太鼓踊りを囲む円陣の一隅に、十二カ月の草花をつけた花笠の女装男児が、ササラをすって大人の歌舞に唱和する。
一月まつ、二月うめ、三月さくら、四月ふじ、五月あやめ、六月ばたん、七月はぎ、八月すすき、九月きく、十月もみじ、十一月さざんか、十二月きり−と、手製の造り花が白粉紅粧の女装にはえて、稚児のよりましを杉木立の境内に出現させる。
また、流水文の友禅振袖に、十二カ月の花掌を色鮮やかな刺繍に縫いとりしたみごとな創意を、無名の職人たちがどうしてもっていたろうかと、驚くとともに感動させられるものが京都国立博物館の陳列衣裳にある。室町期の禅院を荘厳した四季山水墨画は、桃山から江戸初期の四季花鳥の極彩色障壁画にすすみ、江戸期庶民の手工芸と、その日本的な思想を溶解していった。なぜなら、蒔絵・染織・工芸をはじめ、絵画・詩歌に、うつろう四季、二カ月の草花を、これほどまでの純美な文様で彩つてきた国民はないと思うからである。それは、日本の風土を基盤とした、民族の深い自然観照が、見えるものと見えないものに架けた呪文の桟(かけはし)実存への祈りが生んだ、呪文様の風流的展開にほかならない。
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