サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

消え行く観光資源

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 忘れてはならない水晶伝統工芸技の歴史。今こそ復活

 金桜神社の神主郡が御嶽水晶の伝達者だったことは恥かしながら今まで知らなかった。

御岳の玉造り技術(「技術と民族上」小学館)

水晶は最初、自然のままで床の間の置物などにされていたが、これを研磨し、玉造りする技術を教えたのは京都の玉屋の番頭高木弥助であった.天保5年(1834)、水晶原石を買いに御岳村(甲府市御岳町)を訪れた弥助は、大雨などにより水晶が露出するのを待つその滞在中のつれづれに、ありあわせの包丁や鰍の刃先で水晶を磨く方法を、御岳の金桜神社の神主らに教えた.弥助は次回には、京都から研磨材の金剛砂を持参し、本格的に教えこむようになった。
 こうして、金桜神社の御師(神主・社家)74軒のうち半数が、趣味的段階からしだいに水晶工芸に身を打ち込むようになり、研磨技術を進歩させ、やがて、塩入寿三・相原三有楽・内藤覚造といった名工が輩出した.この三人は、明治9年(1876)、県主催の水晶工芸長期講習会の講師に選ばれ、研磨技術を教え、水晶工芸を盛りあげた。
 初期の研磨工具江戸時代には、玉造り挽割り工具はまだなく、水晶体を両足の親指筋肉に挟み、金槌で余分の部分を叩き落とし、コプカキ(長さ30cm)の四角の鉄棒で両端をとがらせた工具)で、角張った部分を掻き取った.これをさらに、ハリと呼ぶ工具を用いて、細かい角を削り落とし、荒玉に仕上げる.ハリは金火箸に似たもので、大工が使うノミの役目をした。次に、小判形の盥(たらい)を、手前のほうを小高く、前方に傾斜させ、中に摺台板とトイを固定させ、水を加えた金剛砂をトイにときどき入れながら、荒玉を研ぐ.トイは、厚さ1ミリの細長い鉄板を縦に半円に曲げた雨樋の形に似たもので、樋は探さ1〜2cm、荒玉の大きさによってこの溝幅がきまり、数本のトイを鍛冶屋に作らせた。

名工の仕事(「技術と民族上」小学館)

塩入寿三は、カシの木で曲尺をつくり、目盛りをつけて使っいたが、さらに工夫をして6面立方体の箱を作り、その三等面をはずして縁に目盛りをつけ、この中に玉を入れてまわし、球形の的確さを計る工具とした。明治維新後、寿三は、上栗平村向山で掘り出された草入水晶で、直径6寸(約18,2cm)と5寸7分(約17,3cm)の二つの玉を仕上げた.このうち6寸玉はフラソス人に売り、4年半かかって仕上げた5寸7分玉は金桜神社に奉納した。この玉が明治6年(1873)、オーストリアで開かれた万国博覧会に出品された.
 明治10年(1877)、東京上野公園で開催された第一回内国勧業博覧会に、相原三有楽が出品した水晶作品は、18種類、
81点にのぼり、他の出品老にくらべて種類・点数とも最も多かった。そのなかに、すでに現在の首飾りのさきがけとなる首掛けがあった.
 寿三・三有楽は、その後、甲府に転居し、また、弟子らも甲府で店をもち、作品を販売するいっぽう、裏の一室を家庭工場として、玉をはじめ、指輪・帯止・眼鏡玉・印材のほか、床の間飾りの彫刻ものなどを作ったので、甲府の柳町・桜町が山梨の水晶工芸の本場となった。

原石挽き割り機(「技術と民族上」小学館)

明治23年(1890)、柳町の深輪屋九代、土屋愛道は、メノウ細工の先進地若狭(福井県西部)から職工を雇い入れ、原石挽割機を作った.これは、弓形の鉄製の蔓に時計のスルメ(鋼)を張ったもので、磨き盥の中央盤上に原石を固定させ、長さ61cmの鉄製蔓の重さと、さらに天井から下げた2本の竹の弾力によって、蔓のノコギリが原石面へ食い込み、徐々に水晶を切断していく仕組みである.この原石挽割機の完成により、従来、一石一物に限られていたものが、一石で多数の材右を得
ることになり、水晶業の革命的機械となった。

穴あけ技法(「技術と民族上」小学館)

簪(かんざし)や数珠玉の穴あけ法は、穴あけ台木の上に、膠(にかわ)を熱でとかして張り、その真ん中に水晶玉を置き、膠が固まると固定するので、それを柄がしなう小槌で針をうつ.針は鋼鉄製で、三味線バチのように先端が開いたものを使うと、針二本で穴があけられる。この穴あけ技法と切子連結摺技法が考案されたことで、切子首飾りができあがり、これがアメリカ向け輸出品の王座を占めるようになった.そして、とくに甲府市東青沼町の菅沼工場(菅沼美之作)製作の「スガヌマ・ブリリアンカット」は一流品の評判をかちえた。三角ピラミット形切子の三隅をカットし、玉の斜面に三段の段をつけ、外形は七角面であるが、段の曲折によりさらに数面が加えられ、そのカット線から強い反射光が出るかがやかしさが、外国の女性に受けたのである.
 山梨県産水晶は、大正期、ブラジル産水晶に転換し、第二次世界大戦後は、これに色彩石を加え、カンバスや壁面に細かい石片を接着剤で貼って、一つの画想を構成する貴石画が誕生した工具は手芸からしだいに機械化され、それにともなって、多角的な作品になっている.

参考文献
甲府商工会議所「水晶宝飾史」1986年.
小沢秀之・大森文衛『水晶ものがたり』、私家版、1971年
山梨県水晶商工業協同組合「水晶」1952年
古賀逸策「水晶四十年史」『国際通信の研究』36号、1963年


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