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昇仙峡もだいぶ変わってしまった。これは須玉町の増富温泉とも共通する問題で、余りにも道路がよくなり便利になると、通貨型の観光地となってしまう。新しい道路に目的のわからない林道が併設されていて、便利ではあるが、観光客は滞留しない。観光とはある程度の時間そこに居てできたら宿泊してもらわないと本当の観光にはならない。道も不便でやっとたどり着いたときの滝を見たときの感動が人々の心を和らげ自然と同化させ疲れを忘れさせてくれ明日からの活力になる。それがバスを降りて東南アジア風の観光土産を見ればもう滝である。場所によっては滝上の生活が見える。便利さは観光資源の尊厳を失うことになる。同じ滝でも茨城の袋田の滝などトンネルを通過してやっと現れる広大な滝に感動する。sこまでいく過程の密室的なトンネルがその後の
展開を予測させる効果もある。静岡の白糸の滝など河川の中に家があり、滝の風景も阻害している。こうした問題は複雑で行政でも手が付かない。しかし閉鎖店舗や周囲の荒廃も進み、天然資源の保存と観光資源の狭間で先行きが心配でもある。今度は滝をライトアップして見せて観光客を増加させるいう。観光とはそうしたものなのであろうか。この昇仙峡や金桜神社への道を開拓した当時の記事から今何が必要なのかを考えてみたい。
御岳新道(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社1995刊)
荒川上流部、仙蛾滝背後の天狗岩東寄りの鞍部を起点とし、天神平(天神森)までほば同川東岸に沿って開発された新道。
山岳地帯に立地する猪狩村および周辺諸村は農業生産力も低く、年貢はすべて金納で、甲府城下へ薪炭を売りに行くなどして現金収入を得ていた。しかし城下への道筋は御岳道のうら外道とよばれる荒川西岸の山越えのある難路であったため、荒川沿いに下る近道が望まれた。天明2年(1783)猪狩村の名主長田森右衛門が下帯那村へ出る新道開削計画を立案したが実現しなかった。天保4年〈1833)に至り同村名主長田勇右衝門とその甥円右衛門が世話人となって再び計画が進められた。工費は勇右衛門・円右衛門らの立替えや無尽で賄われ、翌5年12月22日高成・竹日向、上・下の川窪、千田(現数島町)などの周辺諸村の協力を得て着工となった。人足はこれら周辺諸村から、石工や仙は天狗沢村(現敷島町)から雇われた。途中甲府代官所から道筋の一部変更が命じられた。工事は同7年洪水により新道の一部が流失したことや、天保の飢饉による村々の疲弊などで中断を余儀なくされた。さらに普請費用分担をめぐり円右衡門と相方が対立。同11年円右衛門を除く村方が工事再開を許可され、同13年ほぼ竣工した。一方、円右衛門が独自に甲府勤番や金桜神社社家らから寄付を得て開削した区間も同14年に完工した。明治以降道は度々改修されて荒川東岸の一本道となり、さらに甲府市街への距離が短縮するとともに観光用道路としての性格が強まっていった(以上「甲府市史」)。
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