サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

山梨県の文化財検証

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武田信玄の遺言そのニ

29、 
跡継ぎについては四郎勝頼の子息、信勝が十六歳になったら家督を譲る。
30、 
それまでは陣代として、四郎勝頼に申しつける。ただし勝頗に、武田累代の旗を持たせることはない。わが孫子の旗・将軍地蔵の旗・八幡大菩薩の旗、いずれもすべて持たせてはならぬ。太郎信勝が十六歳の家督をつぎ、初陳のおりには尊帥(孫子)の旗だけ残し、それ以外はすべて痔って出陣せよ。
31、 
勝頼は前のよう大文字の小旗を持ち、差物、法華経の母衣は典厩(信豊)に譲ること。
32、 
諏訪法性の冑は勝頼が斎用し、そののちに信勝に譲ること。
33、 
典厩信豊・穴山信君の、二人は、信玄が頼りにしていることゆえ、四郎を屋形のようにもり立てて万事につきとりおこなってもらいたい。
34、 勝頼の倅で七歳となった信勝を信玄のように重んじて、十六歳となったとき家督にすえてほしいのだ。
35、 
なお、自分の葬儀は無用である。遺体はいまから一二年後の亥年四月十二日に、諏訪湖へ甲冑を着せて沈めてもらいたい。
36、 
信玄の望みは天下に旗をたて号令することであった。が、このように死するからは、つまるところ都に上りながらも支配を固めることができぬままで果てるより、いっそいまのままならば、世の人々は、信玄は命を永らえれぼ、都に上ったであろうにと評価するだろうから、大慶というものである。
37、 
なんとしても、戦いの面で信長・家康のように幸運に恵まれたものたちと戦いを重ねたために、信玄は、いっそう命を縮めてLまったものと考える。
38、 
たとえていえば、矢勢が盛んな時は何でも射ぬくものだ。矢の勢いが盛りを過ぎた頃には浅く射るようになり、さらに過ぎれば白然に矢は地におちる。そのように人の連勢も長くよいことばかりは続かぬものだ。幸運な勢いが過ぎぬうちに盛んに戦勝して領土をひろげはじめたが、今天道から見放されようとしているのだ。
39、 
信玄が信長・家康との戦いで一対一だったならばこれほど早く命を縮めることもなかったのだが逆に、戦いでは信長・家康は二人がかりでも信玄に匹敵しないのだから、やはり(実力でなく天道が運命を決められたので、天が先に信玄を召すのだ。
40、 
その証拠に輝虎も三年の間に病死なされるはずだ。そうなれば信玄の次には輝虎が実力者であったのだから、信長を    踏みつけ破る者はいなくなると、仰せられる。
41、 
次に勝頼のとるべき戦略として、まず謙信輝虎とは和議を結ばれよ。謙信は男らしい武将であるから、若い四郎を苦しめるような行いはするまい。まして和議を結んで頼るといえば、決して終始約束を破ることはすまい。信玄は、大人気なくも謙信に頼るということを最後までいわなかったために、ついに和議を結ぶことがなかった。
42、 
勝頼は必ず謙信に敬意を表して頼りとするのがよい。謙信はそのように評してよい人物である。
43、 
次に、信長が侵攻してきた際には、難所に陣をはって持久戦に持ちこむこと。そうすれば、敵は大軍で、遠路の戦いであるから、五畿内、近江、伊勢の部隊は疲労し、無謀な戦いをいどむであろう。その機会に一撃を加えて破れば、相手は立直ることはできまい。
44、 
家康は信玄が死んだと聞けば、駿河にまで侵入してくるであろうから、駿河の国内に引き込んでから討ち取ることとせよ。小田原(北条氏政)は、強引に攻めて押しつぶすのに手間どることはないであろう。
45、 
氏政はきっと信玄が死んだと聞けば、必ずや人質をも捨てて裏切り、敵となるであろうからその覚悟をしておくように、と御一族や家老の大将に言い渡された。
46、 
弟の逍遥軒(信廉)は、今夜、甲府に使いに行くといって、心安い従者四人を連れ、出るふりをして、従者たちを土屋右衛門尉のところに預けよ。そして明日の早暁、輿に逍遥軒を乗せ、信玄公は御病気のため甲府に御帰陣になるといえば、我ら(信玄)と逍遥軒とを見分ける者はあるまい。永年見てきたところ信玄の顔を誰もがしかと見た者はないということになると、逍遥軒を見た者が必ずや信玄は生きていると思うのは確実である。
47、 
四郎は、くれぐれも好戦的にふるまうことがあってはならぬ。そして信長・家康の運の尽きることを待つことが肝要である。
48、 
運命を哀えさせるもの、それは身を飾り、ぜいたくにふけり、心おごること、この三つである。はじめに信玄が信長・家康の運の尽きるのを待てといったのは、勝頼への注意でもあるのだ。
49、 
その道理は、信長は信玄よりも十三歳若く、家康は二十一歳若く、謙信は九歳、氏政は十七歳若い。そのため彼らは、信玄の末路を待っていたのである。
50、 
一方勝頼は、謙信より十六歳、信長より十二歳、氏政より八歳、家康より四歳、いずれにもまして若いのであるから、彼らのような年長の考どもに負けぬようにし、これまでに信玄が取って渡した国々を危げなく持ちこたえることである。
51、 
そして、もしも敵どもが無碑な戦いを仕かけてきたならば、わが領国の中に引き入れ、必勝の決戦をいどむことだ。
52、 
そのときに、信玄が使ってきた大身、小身、下々の者までが一体となって奮闘するならば、信長・家康・氏政の三人が連合してこようとも、こちらの勝利は疑いあるまい。
53、 
輝虎(謙信)については、他と共謀して四郎を苦しめることはあるまい。武勇においては信玄が死んだのちは、謙信である。
54、 
天下を手にした信長と、武勇日本一の謙信との運命、この両人の運が尽きるのを待ち受けよ。
55、 
万事について思慮判断、将来への見とおしは、信玄の十倍も心するように、と仰せられる。ただし、敵がそのほうをあなどっていどんできたならば、甲斐の領内まで引き入れ、耐えぬいたうえで合戦をとげるならば、大勝利を得ることができよう。決して軽率な戦さはしてはならぬ。と、馬場美濃守・内藤修理・山県昌景にくわしく御指示なされた。
56、 
その次に信玄が生きている間は、氏康父子も謙信も信長、家康もみな国を取られぬようにと用心をしていたにもかかわらず、北条は深沢、足柄地方を、家康は二俣、三河の宮崎・野田、信長は岩村・堪の大寺・瀬戸・恵那までを信玄に取られている。
57、 
謙信の領地の越後だけは、こちらに奪い取ることはなかった。高坂弾正の部隊だけの力で越後に侵入し、謙信の居城春日山から東道六十里のところまで入って放火、掠奪を働き、女子供を奪って無事に帰還したのであるから、我ら信玄とかたを並べるというわけにはいくまい。
58、 
信玄病中とはいえ、生きている問は、わが領国に手出しをする者はおらぬはずである。三年問は深く慎め、といわれて御目を閉じられた。
59、 
また山県三郎兵衛を呼び、「明日はそのほうが旗を瀬田に旗を立てよ」、と仰せられたのは、御心が乱れたためであろう。しかし、しばらくして目を開かれて仰せられる。「大底還他肌骨好不。塗紅粉白風流』と遺作の詩句を残され、惜しいことに、誠に惜しいことに御歳五十三歳にして、朝の露と消えられたのである。
60、 
御家中各右、御遺言のとおりに取り計らったが、家老衆が相談の上遺体を諏訪湖にお沈めすることだけは取りやめることになった。
61、
三年後の四月十二日、長篠合戦の一月前に、七仏による御葬を営んだ。
62、
信玄公御一代の御武勇、御勝利にほどは、三十八年間、一度も敵に背を見せられたことはなかったのである。以上

《註》「大底還他肌骨好不。塗紅粉白風流」
----不朽の本質的なすこやかな人カの全身に伝えよう。それは少しも飾気がなく、自然に風流なのだから----

◎天正五年(1576)丙子正月吉日 高坂弾正これを記す。


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