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第三回川中島合戦
晴信感状(天文二十四年(一五五五)七月十九日(「甲府市史」)
晴信、遠光寺の土橋氏に感状を与える
今十九、於信刀朋更科郡川中嶋遂一戦之時、頚壱討掩之条神妙之至感入侯、弥可抽忠信者也、仍如件
天文廿四年乙郊、 七月十九日晴信(「晴信」朱印) 土橋対馬守との(「甲州古文書」)
晴信、川中島への出陣を報ずる
弘治三年(一五五七)
十一日之注進状今十四目戊刻着府、如披見老越国衆出張之由侯哉、自元存知之前候条不図出馬候、委曲於陣前可遂直談候趣具承候、飯富兵部少輔所可申趣候、恐々謹言
(弘治三年)三月十四目 晴信(花押) 木島出雲守殿原左京亮殿(「丸山史料」)
〔解説〕(「甲府市史」)
第三回川中島合戦
葛山城を攻落した後、武田軍は川中島一帯の長尾方の一掃を続行していた。景虎は雪のために出陣することができず、晴信も三月十四日にはまだ甲府にいた。
そこへ川中島より注進状が届き、越国衆が出障するとの鞍に接し、自らも出馬すると伝えている。
四月十八日、景虎が川申島に出陣し、晴信は決戦をさげて安曇郡小谷城を攻め、
八月に入ってやっと両軍が川中島で対戦した。これを第三回川中島の戦いという。
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