サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

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河中島五箇度合戦記 第五回合戦

 永禄二年 (一五五九) 
四月、
謙信は京都に上り、参内、公方義輝公に拝謁した。輝虎の名をいただき、網代の塗輿、御紋をゆるされ、文の裏書きまでゆるされて帰国された。管領職は辞退し、朱塗りの柄の傘、屋形の号もゆるされ、三管領に準ずるようになった。その後永禄五年には管領職についた。

永禄三年九月
謙信は関東に出陣、上州(群馬県)平井、厩橋(前橋)、名和、沼田などの諸城を攻め落し、その年は前橋で越年した。
永禄四年春
謙信は小田原に向かう途中、正月、古河の城に足利義氏を攻めた。三月に小田原に向かう。この時初めて上杉氏を名乗ることになった。
 永禄四年八月
謙信は川中島へ向かい、西条山に陣を取り、下米宮街道と海津の城の通路を断ち、西条山の後から赤坂山の下に出る水の流れをせき止め、堀のようにし、西条山を攻める時の防ぎとした。

八月二十六日
信玄は川中島に着き、下米宮に陣を取り、西条山の下まで陣を取ったため、越後方は前後に敵を受けた。謙信は夜戦のつもりでいろいろ手段を尽くされた。
二十九日
信玄は下米宮から海津城に入った。九月九日の夜、武田総軍をまとめて、ひそかに海津城を出て、千曲川を越えて、川中島に陣を備えた。越後方の夜の見張りの者がこれを見つけて告げてきたため、謙信は、直江大和守実綱、宇佐美駿河守定行、斎藤下野守朝信と相談して、その夜の十二時、謙信も人数をつれて、そっと川中島に出た。西条山の下には村上義清、高梨摂津守、そのほか、井上兵庫介清政、島津左京入道月下斎の五隊を残しておき、川中島には、本庄越前守繁長、新発田尾張守長敦、色部修理亮長実、鮎川摂津守、下条薩摩守、大川駿河守のひきいる五千余を、千曲川の端に備えを立て、海津の城から新手の武田勢が横槍を入れるのを防ぐためである。謙信の備えは、左の先手は柿崎和泉守、右の先手は斎藤下野守朝長と長尾政景があたり、二の手は北条丹後守長国、右の備えは本庄越前守慶秀、左の脇備えは長尾遠江守藤景、右の脇備えは山吉孫次郎親章を配置した。
中心は謙信の旗本、後備えは中条梅披斎であった。遊軍には、宇佐美駿河守走行、唐崎孫次郎吉俊、鉄孫太郎安清、大貫五郎兵衛時泰、柏崎弥七郎時貴の五組で、宇佐美の指揮の下に属した。直江大和守実綱が川を下ってひかえ、武田方から出た物見の者十七人を待ち受けて一人残らずみな討ち取った。越後勢が川を渡って、川中島に出たのを武田方は知らず、そのあと出た物見も、越後勢が意外な場所に陣を備えたので見つけなかった。そして、信玄方はただ西条山の方ばかりに目をつけていたため、千曲川のそばに、本庄、新発田、色部などの二千がひかえているのを、夜中のことで人数を確かめることもできず、多勢と見て、これが謙信の先手と思ったという。それも明け方になって見つけたので、初めのうちは越後勢が川を越えたのに気づかなかった。


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