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富士北麓の開発とスバルラインについて
『富士山麓史』富士山麓のあゆみ・富士山北麓開発史より引用(1976年)
観光と自然破壊道路が整備され,ホテルや遊園地をはじめさまざまな観光施設が設けられ、レジャーブームの波にのって観光客がふえればふえるほど、山が汚れ,五湖が汚濁するという心配が出てくる。
<富士山の美化>
明治の末頃、一夏に2万人の道者たちが登って、山には紙くず一つもなかったといわれた富士山は,やがて昭和38年頃には、空き缶の間に山はだが見える、と椰楡されるほどの汚れを露呈していた。
新宿から直通の電車が山麓に乗入れ、バスが土ふまずに観光客を五合目まで運んでくれるとなれば、これから先き、富士山が空缶や紙くずの散乱に汚れをひどくすることを誰しも案じないわけにいかなかった。
山梨県・県教委・県観光連盟.山梨日日新聞・山梨放送などの提唱になる「富士山をきれいにする運動」が展開されるようになったのは昭和37年からで、毎年6月1目から8月31目までを実施期間とし、富士山の美化・清掃・植樹運動をおこなっている。運動は静岡・神奈川両県から他の都県にも及び,自衛隊・各学校・婦人会・青年団や諾団体が参加、46年までの10年間に1200団体16万人が清掃に参加して、800トンのごみを処理したという。
<富士山有料道路(富士スバルライン)沿線樹木の枯れ死>
ところで、北麓地域の開発拠点として観光の振興をはかる目的で建設され、まさに観光開発に基本的役割を果している富士山有料道路(富士スバルライン)が、交通量の増加にともなって、沿道の富士山原生林の公害間題でとり沙汰されるようになったのが40年代中頃になってからのことであった。観光道路としてドル箱と宣伝されたこの道路は、一方では富士山の自然である原生林の一部を枯れ死させるという問題を起こすのである。
もともとこの富士スバルライン開通直後に、沿線のツガ・シラベ・オオシラビソなどの樹木数千本が枯れはじめたが、それは道路建設の際、山はだを開削した土砂をそのまま沿線に捨てたため、木の幹がかなり上部まで埋ったのが原因といわれた。
しかし、その後の沿線の樹木の枯死は、年々交通量を増加させていた自動車の排気ガスに起因するものであった。
<レンゲツツジの盗難>
中にはまた次のような例さえある。旧吉田口登山道の大石茶屋附近にあるレンゲツツジの群落は天然記念物に指定され、30年頃までは数万本ともいわれて観光客の目を楽しませていたが、ハイカーのいたずらや、植木ブームにのって根ごと盗んでいく悪質な業者によって、群落は荒らされる一方となり,このままでは指定解除のおそれさえあるといわれたのが46年頃のことであった。
<富士山周辺の観光公害>
間題はもちろん富士山のみではなかった。かつて五湖観光地といっても河口・山中両湖などごく一部に限られていたのが、道路や観光諸施設の新設によって、岳麓一帯に観光地が拡大されたことが、いわゆる'観光公害"のまきちらしをクローズアップさせることになった。
<富士五湖水質汚濁>
富士五湖の水質について,本格的な測定がはじめられたのは昭和45年からである。観光ブrムにのって観光客の来訪が急速に増加し,また生活の近代化や宿泊施設の増加、あるいはその規模?拡大に起因して、五湖への汚水の流入が目立つようになるとともに、湖水の汚染が進んで、清浄次昔目の姿は失われつつあった。
そしてこのまま放置すれば,汚濁はさらに進行して魚類の生育に支障をきたすのみならず、水資源としての確保も困難になり、やがて観光資源としての価値の低下も必至であった。
この年、県は公害防止の見地から水質汚濁の科学的究明にとりくみ、調査の結果、湖水の汚濁は生活排水の流入が主要原因であることが明らかにされた。
すなわち,人為的汚濁原因がほとんど生活排水に限られ、そのかなりの部分が観光客によって発生する汚濁負荷とされていた。
翌46年6月施行の水質汚濁防止法にもとづいて、県は五湖の水算の現状を把握し今後の対策のための資料とするため採取分析をおこなった。山中・河口両湖は,その湖畔が五湖中で最も定住人口・観光客数ともに多いために汚濁が進み、悪化した水質となっているので、湖畔に存在する旅館・ホテル・寮その他民家の排水に対しては、きびしい扇制を必要とする段階にきているとされた。これに次ぐ精進湖も同様な対策が望まれ、本栖湖と西湖は軽度な汚濁にとどまってはいるが、これ以上の汚濁の進行を防止する予防策が必要である。云々
(略)
富士山北麓地域は中央・東名両高速道路に囲まれ,この高速道路が該地域の開発と深い関係にあることはいうまでもない。また域内交通手段のほとんどが自動車輸送に依存することと、近年のモータリゼーションの発達によって、中央道を基軸とした道路網や平通施設の整備がこの地域の基盤整備のうち最も重要なこととされている。観光と自然破壊道路が整備され,ホテルや遊園地をはじめさまざまな観光施設が設けられ,レジャーブームの波にのって観光客がふえればふえるほど,山が汚れ,五湖が汚濁するという心配が出てくる。
明治の末頃,一夏に2万人の道者たちが登っても,山には紙くず一つもなかったといわやゆれた當士山は,やがて昭和38年頃には「空き缶の間に山はだが見える」と揶揄されるほどの汚れを露呈していた。云々
<富士スバルライン利用状況>
昭和39年 317、563台
昭和40年 293、115台
昭和41年 298、937台
昭和42年 386、708台
昭和43年 433、945台
<スバルライン建設の概要>
(略)40年代のいちじるしい経済成長にともなう国民所得の向年車靹台数上と余暇の増大によって,本格的在大衆観光化の時代を迎え、観光事業も点から線へといっルートつくりの必要性が叫ばれるとともに、観光施設の整備も一層進められることになった。(『富士北麓開発基本計画』34頁)
北麓において,民間資本によるスポーツやレクリエーションを加味した観光施設がつくられたのもこの時期に集中する。観光の大衆化が一方で各観光地をつなぐ「立体観光」をおしすすめるとともに,一般観光客の趣中に対応して,四季を間わず彼らを誘致するための施設の強化が必要になっていたのである。
山梨県の直営事業としで本格的な観光遣路の建設は、36年9月着工した富士山有料遣路(富士スバルライン)であった。これは、「富士山頂へ下駄ばきで」という夢を実現しようとする富士山モグラケーブル計画に結ばれる県営第1号の有料道路で、東京オリンピックに間に合わせるため工費17億円と3年の歳月を費やして、昭和39年4月1目開通したものであった。
河口湖町船津を起点として五合目に至る全長2万9,520メートルのこの道路は、当時県営有料道路としては全国にも例をみないスケールであった。
この年、富士山と五湖は前年比146パーセントの552万5,000人の観光客を数えているが、人気をよんだ富士山スバルラインは、富士山に129方8,100人(うち富土山頂へ12万人)と前年の3.3倍の客を集めた。これから後、吉田口登山遣に登山者はほとんど見られなくなった。云々
<御坂トンネル>
地方はもちろん山梨県の産業経済に画期的な影響をあたえるものといわれた。この間、中央自動車道の開通を控え、岳麓地方の開発計画に関連して国道137号線富士吉田・甲府線の御坂薩道開襲計画が進められていた。
元来この国道は御坂峠を中心に急勾配・屈曲が多かったので、御坂峠に隆遣を新設して中央白動車道に直結させ、甲府盆地と岳麓地帯とを結ぶ一大動脈路線として、産業振興と観光開発に寄与させようというものであった。全長3,875メートル,うちトンネル部分2,778メートノレ,県営二番目の有料道路で,40年2月着工し、工費23億7,900万円を投じて中央自動車道に先んじて42年4月7目開通した。御坂トンネル有料道路とよんでいる。
<河口湖大橋(現在は無料)>
次いで翌43年11月着工した河口湖大橋は、県営三番目の有料道路で、46年4月19目開通式をあげた。工費18億5,000万円を要し、河口湖町河口の産屋ケ崎から対岸の船津まで全長1,620メートル、うち橋の部分は500メートルである。五湖観光の中心地である河口湖周辺の自動車交通は増加の一途をたどり、加えて中央白動車道の開通によってさらに激増することが予想されていた。
停滞交通の効果的な処理ルートとして計画されたのが,この河口湖の横断架橋であり、中央自動車道・富士スバルラインそして主要国道の相互間を円滑に連絡し、周辺交通網を強化することをねらいとし、さらに河口湖に白然美と人工美とを調和させた新たな景観をそえるものといわれていた。
スバルラインの入口に県立富士ビジターセンターが開設されたのも同じ4月であった。これは富士北麓を訪れる観光客に'自然や景観についての科学的知識を普及するとともに、観光地の利用方法などの利便を提供しようとするための施設であった。云々
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