
<使い捨て観光のつけは誰が支払うのか>
最近知らない間に多くの観光物品案内看板が目に付くようになった。一部地域の理解もあるのかないのか。車の入らないようなところでも「やたらめったか」(でたらめに)設置されている。そして大切な史跡さえ破壊が進み観光地にしようとしている場所もある。
北杜市は山梨県でも有数な謝金財政であり、その額は私たちにすれば天文学的な数字を示している。こうした中で長期滞在型の観光とかいう新たな観光戦略が展開されているのだ。観光地や施設を商品登録して、安価で業者が潤う商品が提供され、その場所以外に余所見のできないツアー観光客が少ないトイレに並ぶ。挨拶もできない雰囲気に圧倒される。すぐ横で村祭りが行われていても見向きもしない。まったくの余裕のなさは観光の商品化でなく、観光客こそモルモット観光客である。
尾白川渓谷などこれまでに大勢の滑落犠牲者を生んでいて、今でもその渓谷道は安全ではない。観光施策が先行して、戦略会議や中身の保全保護それに地元対応などまったくないままの観光が目のまで展開され、汚れたトイレを清掃する人々にもむなしさが漂っていた。これが山梨県の観光かと憂うばかりである。自然と水が豊かと人はいう「自然が躍動する」などの意味不明の造語さえ踊る。自然災害のメッカでもある山梨県、水と自然の豊かさの裏側はそれだけ自然災害や危険も同居していることを気がつかない人が多い。自然が躍動するとは、地震か台風か天然地変をも含んでいることを自覚すべきである。
自然を相手に観光を展開するときに大切なのは「利用する人」と「保全する人」のバランスの上に成り立っているものもである。
山梨県を代表する三本の名松が消えた。人はまったく自然枯れ死のようなことを言うがこれは立派な人災である。
それは周囲を観光客用に開発したりして、保全のための策が後手後手になる。また国や県のしていになったり文化財の指定を受けると、その保全対策が遅れることは否めない。
観光用と樹木の保全はおのずと観点が違うことを担当者は肝に銘じる必要がある。
安易な観光は今年の信玄公祭りにもよく現れている。それは武田24将なども人物が固定されもれた人物は儚い処遇となっている。北杜市の担当は武将三枝氏で当地にはまったく関係ない御仁である。北杜市といえばやはり「山本勘助」であろう。北杜市は勘助の知行地や墓まであるところで戦略を練った寺まである。いかに不確かな創作歴史であっても行政観光が先行して展開したものである。継続と持続こそ観光なのであって、目先のことばかりに奔走していると、業者の使い捨て観光から脱却できなくなる。
看板を設置する前や以前に北杜市内の三本の名松が消えた。冥福を祈るとともに、人間のおろかな行為を猛省したい。
次に生まれ変わるときには、誰も人の行けないところで生息してください。
「南無阿弥陀仏」
1)小淵沢八幹松
2)武川町舞鶴の松
3)白州町駒の松
写真は「小淵沢八幹松」と「神田の大糸桜」(大丈夫かな?)それに残された松
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