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先述してあるが、山梨県を始め行政が観光に手を染めるときに、内部からではなく外部からの圧迫や要請に気軽に応じ、その媒体威力に頼る傾向にある。
昨年の「風林火山」の馬鹿騒ぎは大きな負の遺産を山梨県に残した。
歴史的史実的にはまったく形成を持たない勘助をこの世に北杜市に再来させ忽然と消えさせた所業はいかに解釈すればよいのであろうか。
著名な歴史家の安易な筆法は今でも信じられない。私はこのU先生を尊敬して、その著書も多く読ませていただいた。この先生が昭和64年ころに発行した「山本勘助」や武田神社が大枚をかけて観光した記念図書の中にも、また歴史雑誌にも同様の内容を記載した。
全国津々浦々の勘助伝承や伝説を他愛もないものまで取り上げ、史実と認定するような作業をなされ、北杜市高嶺町個人家伝墓を勘助屋敷墓などと持ち上げ、世紀の発見のような記述をされた。
私はこの本を垣間見たが、それは甲陽軍艦の筆法にも似ている。「いいか山梨県の歴史家よ、目を覚ませ、こんな近くに勘助の墓があるではないか。お前たちがやらないから、私が実証する」と表現は適当ではないが、山梨県歴史家の不甲斐無さを追及しているようにも思われる内容である。
山本勘助やその実在を示したという市川文書についてはできるだけ資料を集めてみた。
私はこの文書でさえ、いかに東大が認定したものであっても、大きな疑義がある代物であると考えている。
<http://sky.geocities.jp/itikawamonnjyo/>
このような文章がなぜ北信濃の山奥にしかも他の有力な武将が居る中で、市川家にだけ残され、同様な文書がまったく発見されていないことへの疑義である。
山梨県の歴史家も、この辺りや、勘助と武田家や実証できる文献資料など提示しないままに新聞に刊行物に書き捲くった。
昨年まであふれていた関係書物は今はどこにもない。ブックオフにもまだ届かない。一冊100円が私の買える資力である。
北杜市の馬鹿騒ぎも極めで、イベントを仕掛け、個人墓に通路まで作り、何の精査もなく大看板をぶち上げあおり捲くった。
見苦しい限りである。付近の寺の住職まで、「ここで勘助作戦を練った」などと途方もない言を口にしていた。
観光客が狭い地域に殺到して、その応対に家族も翻弄された。じつはこうしたことは過去にもあり、時の当主も辟易してものだ。
山梨県の浅い拙い歴史は、一年で山本勘助を暗闇に葬ってしまった。
本来なら史実を確認して、事実であるなら「北杜市文化財」に指定していくべき問題である。
勘助誤伝は山ほどあるが、まったく困ったことに、現在出回っている「勘助像」は新しいもので、この画像などまったくの創作物であり、この画像がいかに想像をたくましく創造したのかは、他の画像と比べてみれば誰でもわかることだ。
多くの人はテレビや垣間見たもので、歴史感を養っていく。現在のような押し付けたり、畳み込み洗脳歴史のような実態は実に嘆かわしい。
現在の勘助屋敷墓の公開は中止されている。
それが賢明である。個人でしっかり見守ればよい。
また北杜市も史実に反して歴史を創作してしっまったことに謝罪すべきである。
今後もこうしたイベントやテレビに揺さぶられない、確たる文化財の指定と保護をお願いしたい。
先年○○チャンピオンのツリーハウスのテレビ放映にあわせて、作られた家もひどかった。生きた木に大きな穴をあけ。ドリルで角材や古材木を固定したもので、ある施設など貴重な樹木に同様な加工を施し、しかも有料で登らせていた。
どれかは撤去されたようだが、こんなものは自然愛護にもツリーハウスでもない。テレビのために市の財源など投入することは許されない。したたかなテレビに翻弄されるだけである。
私はこの勘助屋敷墓は当家の先祖のものであり、勘助に関係なく古くしっかりしたものである。今後は家族で後世に伝えていくべきであり、北杜市も大型看板などは撤去すべきである。
「勘助協奏曲」や「勘助便乗観光」は終わったのだから、勘助をあの世に返してください。
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