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原子力と核融合の無惨な現実
(瀬尾健氏著『地球・環境読本』別冊宝島101 1989年)(数字変換)
ところがこの原子力は、当初のバラ色の期待も空しく、冒頭でも述べたように今や惨惜たる状態である。
そのすべての困難の原因は、原子力というエネルギーが石炭や石油のような太陽エネルギーの缶詰ではなく、まったく異質のエネルギーであることにある。原子力は石炭や石油のように、分子・原子のレベルから出てくるエネルギーではなく、それより10万分の1も小さな領域から出てくる(したがって10万倍もの温度で特性づけられる)
エネルギーであって、従来の技術で扱ってきたものより10万倍の難しさがあっても不思議ではない。
石炭や石油は取ってきて燃やせば簡単に1000度もの温度が出せるけれども、原子力の場合はそうはいかない。ウランを含んだ岩石を大量に(石炭の何百万倍もの量を)掘り出してきて精錬し、おびただしい電力を使って濃縮し、精密に燃料を加工し、さらに火力発電所よりもはるかに大がかりに安全防護設備を張り巡らした原子炉に入れてはじめて、電力が取り出せる。それ以外に原子力の利用の仕方はなく、しかも電力しか取り出せず、そのうえさらに、発生したエネルギーの三分の二は海へ捨てざるを得ない。原子力は高度の技術をもってしてはじめて利用できるエネルギー資源だが、まさにそれ故にこそ、正味のエネルギーが得られるのかどうかもおぼつかないという、まことに情けないことになるのである。
未来の無尽蔵のエネルギー源として喧伝されている核融合についても、事情は同じか、もっと悪い。実用化の時期の予測が、時が経つほど遠のいていくという事実がこの技術の本質的困難さを示しているし、当初バラ色に描かれた「クリーン」で「無尽蔵」というキャッチフレーズも、すべて嘘だったということが明らかになってきている。さらに、複雑で高度な技術に頼らなければならないという事実はやはり、核融合も正味のエネルギーを生み出さないことを強く示唆している。
最近、核融合を推進する人たちからも、核融合だけでは採算が取れないから、従来の原子炉と組み合わせて複合炉として実用化する必要がある、という声が出ている。複合炉なら採算が取れるといっても、それは膨大な放射能の長期保管管理や大事故による損失などをすべて無視したうえでの採算だったことを思い出そう。
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百年前の代替エネルギー論争
(瀬尾健氏著『地球・環境読本』別冊宝島101 1989年)(数字変換)
昔の人々は、ほぼ「同時代」の太陽エネルギーだけを利用していた。近代文明発祥の地となったヨーロッパでもそうであった。
四世紀頃までのヨーロッパは、今では想像もつかないほどびっしりと森林で被われていた。ところが、建築用材の需要による大規模な森林伐採と農地拡大によって、17世紀までにはこの広大な森林はほとんど姿を消してしまったという。人々は暖房用燃料の不足に悩み、新興産業のエネルギー源の絶対的不足をきたし、ここに人類最初の「エネルギー危機」に直面することになった。あれほど広大な森林も、無計画な乱伐の前にはひとたまりもなかったのである。
この「エネルギー危機」を切り抜けるために、人々は石炭に手をつけた。石炭が燃料に使えることはもっと古くから知られていたが、人々はいろいろな意味で本よりも劣る石炭を顧みなかったのである。石炭は汚いし、燃えにくく、燃やすど臭い。そのうえ何より問題なのは、石炭は本のように簡単に取ってくるわけにはいかず、多くの場合、地中深く掘らなければならなかった。地中深くから石炭を掘り出すには大変な労力を要したし、大がかりな換気と、湧き出てぐる大量の水を汲み出す必要も生じた。これらの難問を解決するために蒸気機関が発明され、産業革命の口火が切られることになる。だがその後、石炭が動力機関の エネルギー資源として大量に使われるようになると、資源の枯渇が早くも問題となった。今から百年以上も前に、石炭代替エネルギーが議論されていたのである。
石油についても古くから燃える水として知られ、ランプなどの照明用として使われていた。しかし、石油の採掘は石炭と比べて、さらに高度の技術を要する。したがってその動カエネルギー源としての本格的な利用は、石炭より百年以上遅れることになった。
だが、石油の探鉱技術と利用技術が向上するにつれ、輸送が便利で用途の広い石油は、エネルギー資源の王座にのし上がってきた。そして現在、生活の隅から隅まで石油に支配される、まさに石油漬けの便利な生活を我々は送っているのである。それと同時に、石油資源の枯渇が問題となり、「エネルギー危機」が叫ばれ、代替エネルギーが議論され、たまたま発見された原子力が、約束された未来のエネルギーであるかのように祭り上げられるにいたったのである。
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石炭・石油は太陽エネルギーの「缶詰」
(瀬尾健氏著『地球・環境読本』別冊宝島101 1989年)(数字変換)
西洋式の考え方に立てば、我々人類は数千年の歴史を通じて知識を積み上げ、技術を改良して、着実に豊かで便利で健康的な生活を築き上げてきたことになっている。エネルギー資源も、昔のごく限られたもの、例えば人力、畜力、風力、水力、そして燃料としての木などの手近で幼稚なものから、石炭、石油、原子力と、優れたものに移り変わってきており、将来は核融合という無限のエネルギー源が約束されていると信じて疑わない。実際、中学や高校ではこうした考え方に基づく教育を一貫して続けており、なおかつ身の回りの表面的な豊かさに囲まれて育てば、ほとんどの人がこのような考え方に支配されても不思議ではない。
しかし、これとはまったく逆転した見方が、実は成り立つのだ。この見方に立って人類史を振り返ってみるとき、我々が今どういう地点に位置し、現在行なっているエネルギーの大量消費がどういうことなのかが、はっきりみえてくる。
人間は生きていくためのエネルギーとして、毎日2000キロカロリー余りが必要だと言われている。これを換算すると、約100ワットのエネルギーに相当する。この100ワットのエネルギー源として、我々は食物を摂取していることになるわけである。
食物は当然、太陽エネルギーのたまものである。そしてこの100ワットのエネルギーを元にして、新たな食料獲得のための労働をし、子孫を残す。かつてはすべての動物がそうであった。
しかし、人間は火の利用を覚え、農業・牧畜の技術を発見し、牛や馬の畜力利用を間発した。この段階で人間一人が消費するエネルギー量は二倍くらいに増えたが、利用するエネルギー資源の範囲は本質的に太陽エネルギー、それも「同時代」の太陽エネルギーであった。
太陽エネルギーは、まず、植物によって取り込まれる。そして植物の一部が栄養源として動物に取り込まれ、人間の食料となるとともに、畜力として利用される。この種の太陽エネルギーは過去数年から数十年間に地球に降り注いだもので、これを「同時代」の太陽エネルギーと呼ぶことにしよう。
これに対し、石炭や石油は、数千万年から数億年前の太陽エネルギーが生物に取り込まれてできたもので、いわば太陽エネルギーの「缶詰」とも言うべきものだ。森林は数千年から数万年程度蓄積された太陽エネルギーで、「同時代」と「缶詰」の中間に位置する。農業や牧畜から得られる食料は「同時代」、畜力も「同時代」、風力や水力は、大気や海の水に吸収された「同時代」の太陽エネルギーである。
「同時代」の太陽エネルギーは絶えず補給されているから、これだけを利用している限り、今我々が直面していると言われているような「エネルギー危機」は起こらない。もちろん凶作や不漁などによって深刻な食糧危機に見舞われることはあるが、これは利用できる太陽エネルギーの変動によるものであって、エネルギー資源そのものが底をつくことからくる「エネルギー危機」とは本質的に異なる。
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「科学技術」はエネルギー浪費の張本人
(瀬尾健氏著『地球・環境読本』別冊宝島101 1989年)(数字変換)
このように考えてみると、現代科学技術の最先端を行くはずの原発が、実はエネルギーの巨大な浪費装置であるという事実が、明らかになる。だがそうは言っても、「こうした困難な問題も、科学技術の進歩によって必ず解決されるはずだ」と反論する人がいるかも知れない。
確かに、産業革命以来(なかでもとくに戦後)の科学技術の進歩には、目を見張るものがあった。科学技術にかかれば、できないことは何もないかのようだ。しかし、この「科学技術」なるものの成り立ちをちょっと考えてみるだけで、それが幻想に過ぎないということがわかる。
目を見張る進歩をもたらした科学技術の主目標は、実は、我々の生活を便利にするためにいかにエネルギーを便うかということであった。いかにエネルギーを使わないようにするか、ということではなかったのである。むしろ、目に余るエネルギー浪費の張本人、あるいは原動力とも言うべきものが「科学技術」であり、原発はその象徴的存在とも言える。
エネルギーを湯水のように消費することによってのみ、「科学技術」のめざましい成果があり得たのである。
例えば、交通機関を考えてみよう。馬、鉄道、バス、自動車、帆船、動力船、プロペラ機、ジェット機、ロケット……。すでに20年前に、人類はロケットに乗って月に足跡を残した。まことに技術の進歩はすばらしく、科学技術の輝かしい勝利を見る感がある。しかしこれをエネルギー消費の視点からみると、様相は一変する。技術の進歩の度合に逆比例して、エネルギー効率は急激に低下しているのである。鉄道より乗用車の方が6倍以上のエネルギーを食うし、飛行機も鉄道よりはるかに多くのエネルギーを消費する。ロケットに至っては、これらをはるかに凌ぐ。
食糧生産についても、まったく事情は同じである。
昔の農業に比べ、現代の機械化農業、化学農業は、科学技術の進歩のおかげで食料の大幅増産に貢献したかにみえる。この貢献度も現在でははなはだ疑問視されているのであるが、ここでは触れない。それ以上に、エネルギーの面からみた場合、大量の石油を動力として消費し、さらに化学肥料や農薬として石油を使い、おまけにビニールハウスなどでは暖房用に大量の電力まで消費するという点が大問題なのだ。
昔の農産物は太陽エネルギーのたまものだったが、今やほとんど石油エネルギーの産物といってもよい。そして収穫した作物のもつエネルギーより、投入した石油エネルギーの方が多いというのが現状である。この傾向は近年ますますひどくなっており、最近の「野菜工場」と称する農法では、太陽エネルギーを完全にシャットアウトして、石油エネルギーに100%依存するところまでいっている。これがつまり、科学技術のめざましい進歩の現実なのだ。
このように、科学技術の成果によって我々の生活が豊かになったように見えたのは、実はその裏に、エネルギー資源の湯水のような浪費があったのである。科学技術からエネルギーの大量消費をとってしまえば、後にはほとんど何も残らないといっても過言ではない。
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借金と大博打が原発の実像!
(瀬尾健氏著『地球・環境読本』別冊宝島101 1989年)(数字変換)
ERDAでは、投入エネルギーの総量は三六となっているから、この追加分一174を加えると一挙に210となる。投入エネルギー量は、事故を考慮するだけで生産したエネルギー量の137をはるかに上回ってしまった。つまり、原発をつくって運転すればするほど、得られるエネルギー以上の石油エネルギーを注ぎ込まなければならないというまことに情けないことになってしまったのである。そのうえ、この修正計算には、廃炉など、その他の多くのエネルギー出費が含まれていないし、たとえ含まれていても多くの場合、かなり過少評価されているのである。特に高レベル放射能の保管管理には、わずか0・06のエネルギー出費しか計上されていないが、こんなわずかなエネルギーで何万年もの半減期をもつ強力な放射能を安全に保管できると本気で考えているのだろうか。この原発一基の残す使用済燃料は40万本を超え、重さは1000トンもある。その上、再処理などをすれば、余計に保管は困難になるし、ガラス固化技術など何万年も試したわけでもないから、この先どんなトラブルが起こるかわからない。つまり、この先どれだけのエネルギーを出費しなければならないのか見当もつかないのである。
それでは、なぜこんなわけのわからない原発が現実に存在し得ているのか。その秘密は、右にあげた巨大なエネルギー出費が、目下のところ顕在化していないというところにある。高レベル放射能の長期保管管理は私たちの子孫がやることだし、大事故はまだ起こっていない。つまり、言ってみれば無断で子孫から莫大な借金をし、大事故の起こらない方に賭ける大博打をやっているのが、原発の実像なのだ。
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