サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

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小笠原牧間違い(4)

山梨県の歴史は古代から語り継がれていたものは少なく、後に中央に残された断片的な資料を基にした研究によるものである。歴史資料はその研究者の生きた時代背景や政治体制によって大きく内容が異なっている。戦時中などは国や主君の為に自らの命を捧げる人物がもてはやされた。近代の戦時中には甲斐の名将武田信玄などは親を離反した者として逆賊として扱っている書物もある。逆に主君の為に命を捧げた馬場美濃守信房は戦うもの手本として扱われている。
 私の住む峡北地方は古代からの歴史豊かな地であり、それは縄文、弥生、古墳、古代、中世と大地に刻まれている。しかしそれを伝える歴史資料や遺跡それに遺構は少なく、発見や発掘されても確かな資料にはなっていない。また不明の時代も長く後世の研究者が私説を交えて定説としている事項についても不確かな部分を多く抱えている。
 一般の人々の歴史観は研究者の伝える書よりテレビドラマや小説などに大きく影響を受け、それを歴史事実と捉えてしまうものである。歴史小説などは書く人が主人公を誰にするかで善人も悪人になる。逆の場合も多く見られるものである。
 甲斐の国と深い関わりも持ち、祖先が武川村の出身の柳沢吉保などは時の徳川家光将軍の中核をなした人物なのに講談や小説などで悪役として扱われて以来、現在でも評価が低く、龍王町篠原出身とされる国学者山懸大弐なども国に背いた人物として地域の懸命な継承努力にも関わらず県内全般に於てはこれまた評価が低い。市川団十郎などは父親が今の千葉県市川の出身とも言われている中で、「団十郎の祖先は武田家の家臣堀越重蔵で後に江戸に出て団十郎が生まれ、故郷の市川を名乗るとなる。団十郎の出身地とする三珠町には歌舞伎記念館が建ち地域案内書や報道は史実の様に伝える。
 あの松尾芭蕉が師と仰ぐ山口素堂などは甲斐国志編纂者の説を後生大事に守り、歪めた素堂像を今も伝える。筆者は素堂に関する新たな史実を次から次へと提示してきたが、研究者は見向きもしない。一度できあがった定説は覆す事は難しいもので、真実は明確に違っているにも関わらずである。中高年になると歴史が身近になり、研究に手を染めたり色々な勉強会や見学会に参加する人々が増えてくる。しかし『国志』や研究者の歴史書から出発すると本当の歴史は見えてこないものである。何事も探究しようと志したら自らの足で稼ぐことが肝要である。歴史学者の書した文献はあくまでも参考資料として扱うべきであり、市町村の歴史の部や遺跡報告などは難しすぎてほとんどの家庭で開かれずに眠っている。
歴史は広角度の調査が必要なのである。山梨県郡内地方の宮下家に残存する『宮下文書』などは歴史学者は偽書扱いで見向きもしない傾向にある。一方同様(?)な書に『甲陽軍艦』がある。こちらは研究者はその内容を部分的には否定しながら結局は引用して展開している。偽書扱いの書にも真実が見え隠れするもので全面否定は戴けない。『宮下文書』は甲斐の古代それも富士周辺の古代には研究資料として欠かせない内容で一読に値する。歴史を志す者は歴史書を色分けすることなく読んでみることが大切なのである。

 さて今回は北巨摩地域の古代歴史の中で最も文献資料が充実している−北巨摩の古代勅使御牧(官牧)−の存在について資料を基にした調査結果を述べてみたい。これまでの定説が正しいかどうかは読者に判断を委ねたい。(諸著参考)



 古代巨麻郡は現在北巨摩、南巨摩、中巨摩に継承され、古代の巨麻郡は甲府地域の一部を含む広大な地域であった。この巨麻(巨摩)地域に古代の天皇の直轄の御牧があり、全国では甲斐(3カ所) 
   信濃(17カ所)
   武蔵(4カ所) 
   上野(9カ所) 
 毎年献上する貢馬(くめ)数は、
   甲斐国(60匹)(柏前牧・真衣野牧30、穂坂牧30)、
   信濃国(80匹)
   武蔵国(50匹)
   上野国(50匹)
 である。単純に一御牧の貢馬数は、信濃1牧あたり4、7匹。武蔵は12、5匹。上野は五、六匹。甲斐は20匹と1御牧あたりの貢馬数は他を圧倒する多さである。それだけ1御牧の飼育地域も広大で養育の技術も充実していたことになる。後に述べるが勅使牧の運営が如何に膨大な人力と財力それに広大な適地を要したかは歴史書は紹介していない。 甲斐の駒はその始め「甲斐の黒駒」と呼ばれ、中央に於ても特に有名でそれを示す資料もある。日本書紀の雄略天皇13年(469)の項に《罪に問わた猪名部真根が処刑される寸前に赦免の勅命が下り死者が駿馬に乗り駆けつけ、あやうく命を救われた》との記載があり、その駿馬こそ甲斐の黒駒であったのである。

   ぬば玉の甲斐の黒駒鞍きせば命しまなし甲斐の黒駒

 古記が正しければ、雄略天皇13年(469)に既に甲斐の黒駒の知名度は中央に於て高かったことは、5世紀前半頃から他国を圧倒して甲斐に優秀な駒が産出されていたことを物語るものである。
 雄略天皇9年(465)には河内国のにおいて換馬の伝説として「赤駿(あかこま)の騎れる者に逢う云々」とあり、この時代には既に中央に於て乗馬の習慣があったことが推察できる。
 駒(馬)のことは神話にも登場していて『古事記』に須佐之男命(スサノウノミコト)が天照大御神(アマテラスオオミカミ)に対して「天の斑駒(ふちこま)を逆剥ぎに剥ぎて云々」とあるが、『魏志倭人伝』には「その地(倭)には牛馬虎豹羊鵲はいない」とあり、馬種については信濃国望月の大伴神社注進状に「須佐之男命が龍馬に乗り諸国を巡行して信濃国に到り、蒼生の往々住むべき処をご覧になって、これを経営し給いて乗り給える駒を遺置きて天下の駒の種とする云々」と見える。また牛馬は生け贄として神前に捧げるられる習慣もあった。月夜見尊は馬関係者の神として祀られていたり、主人に対して殉死の習慣もあり、後に埴馬として墳墓に供えられた。人が馬に乗る習慣は『古事記』に大国主命が手を鞍にかけ足を鐙にかけたとの記述が見え、『日本馬政史』には『筑後風土記』を引いて「天津神の時既に馬に乗りたることありにしや」とある。
 山梨県内各地の古墳遺跡から埴馬や馬具などの副葬物が出土されている。古墳中には高価な副葬品も発見されているが、有数な古墳のほとんどが盗掘にあっている。また破壊され畑や宅地になってしまった古墳も数知れない。
 古墳に祀られていた人物については史料がなく判明しない状況であるが、古墳の副葬品からは飼馬や乗馬の習慣があったことが理解できる。東八代郡中道町下曽根字石清水のかんかん塚(前期円墳)からは本県最古の馬具轡(くつわ)・鐙(あぶみ)が出土している。また山梨県最古の古墳東八代郡豊富村大鳥居の王塚古墳(前方後円墳)からは馬形埴輪が出土している。また『甲斐国志』には米倉山の土居原の塚から異常なる馬具を得たとある。
 甲府市地塚町三丁目の加牟那塚古墳(円墳)からは馬形埴輪が出土している。甲斐の三御牧があったとされる北巨摩地方の古墳は少なく、従って馬具などの出土も少ない。五世紀に於ては北巨摩地方より、古墳が築かれた甲府盆地を中心とした周囲の丘陵地を含む地域周辺に於て牧場があり飼育されていたと考えるのが妥当である。








 

 
  
  
 
  

 
   

みつのみまき(美豆の御牧)    

  まこもかるみつの御牧の駒の足早く楽しき世をもみる哉
 
      『兼盛集』   『類従群集』 巻第二百五十  
      兼盛−平氏。生、未詳〜没、正暦元年(990)

   隔河戀

  山城の美豆の里に妹を置ていくたひ淀の船よはふらむ

      『頼政卿集』 
     『類従群集』第二百四十六
     頼政−生、長治元年(1104)〜没、治承四年(1180)

   美豆御牧    よみ人しらす

  小笠原みつのみまきにあるゝ駒もとれはそ馴るこらが袖かも

     『夫木集』

   美豆御牧

  五月雨に里にもみつの河近みほすかりこもや庭の浮草

     『和歌名所詞花合』 『類従群集』巻第四百二十 

  美豆の江のまこもゝ今は生ぬれはたなれの駒を放ちてそみる
 
     『堀川院御時百首和歌』 『類集群従』巻第百六十七

  かりてほす美豆の御牧の夏草はしけりにけりな駒もすさめす

   『内裏名所百首』夏

  かりこもの五月の雲に成にけり美豆の御牧の夕暮の空

  渡する遠方人の袖かとよ美豆のにしるき夕かほのはな

  まこも草末こすまてに日数ふるみつの御牧のさみたれのころ

   よみ人不知
  徒に美豆の御牧のまこも草からて浪こす五月雨の比
 
      『菊葉和歌集』   『類集群従』巻第三百七十二
      【成立−応永七年(1400)頃?】

   美豆御牧  順徳院

  刈てほすみつのみまきの夏草は茂りにけりな駒もすさめる
      『順徳院御集』
      『類集群従』巻第四百二十四
      順徳天皇−生、建久八年(1197)〜没、仁治三年(1242)

   名所百首  前右大臣   

  五月雨に駒もすさめすまこも草美豆の御牧の浪にくちぬる

      『菊葉和歌集』  
      『類従群集』巻第三百七十二
      【成立−応永七年(1400)頃?】

   春駒  満 祐
  のとかなるよとの川波春見えてみつのみまきに駒そいはゆる

   西の国の方へ修業にまかりけるに、美豆野と云
   ふ所にて伴ひなれたる同行の侍りけるが、した
   しきものゝ例ならぬ事侍るとてとゞまりければ
   よめる
 
  山城のみづのみくさに繋がれて駒物憂げに見ゆる旅かな

      『頓證寺法楽百首』 応永二十一年(1414)

   大和守輔尹
  比ぶべき駒も菖蒲の草も皆みつの御牧にひけるなりけり

     『栄花物語』

   順徳院位の御時、名所の百首の歌召されけるに、
   美豆御牧  皇太后宮大夫俊成女

  船とむるみづのみ牧のまこも草からで假寝の枕にぞしく

     『玉葉和歌集』   巻八 旅歌 
     【成立−為兼撰。正和元年(1312)】

   基 俊

  なつくともいかゝとるへき草わかみゝつのみ牧にあるゝ春駒

     『堀河百首』

   名所百首歌奉ける時  従二位家隆
 
  春ぞ見しみつの御牧にあれしこま有もやすらん草かくれつゝ
 
     『新後拾遺和歌集』
     【成立−嘉元二年(1304)奉覧】撰−二条為遠・為重

   橘能元

  日をへつゝみつの野沢のまこも草あをめは春の駒そいはゆる

     『天仁二年十月顕 季卿家歌合』

   屏風の繪に霧たちわたりたるところに馬はなれたるかたかけるところを
   藤原長能

  とりつなけみつのゝ原の放駒よとの川霧秋はゝれせし

     『金葉和歌集』  【成立−天治元年(1124)奉覧】

   
   美豆御牧  藤原定歌

  わたりする遠方びとの袖かとやみづ野にしろき夕がほのはな

     『拾遺愚草』  「詠百首和歌」
     定家−生、応保二年(1162)〜没、仁治二年(1241) 参考

   堀河院の百首の歌に、同じ心を 大納言師頼

  蛙なく美豆の小川の水清みそこにぞうつるきしの山ぶき

     『続後拾遺和歌集』   巻二 春歌下
     【成立−正中二年(1325)奉覧】 二条為藤・為定撰   


題志らす  後鳥羽院御製
  春雨に濡れつゝ折らむ蛙鳴くみづの小川のやまぶきの花
   『続後拾遺和歌集』 巻二 春歌下   
 

注…  『甲斐国志』は小笠原牧を、「美豆ノ牧とは穂坂、小笠原、逸見三所を指して云なるべし」としている。

注…  『甲斐国志』には「按ずるに穂坂の庄に三ツ澤村あり。又小笠原(現明野村)の方へ通づる路を三ツ沢通りと呼ぶ斥レ之か」とある。 『甲斐国志』巻四十七 古蹟部第十

 注… 『大日本地名辞書』によれば、山城酷久世郡の御牧は、美豆と称し木津川両岸に渉る。

    『名跡志』には美豆御牧は淀大橋(木津川)の北也。古は馬寮の御牧にて放し飼いの地也。今 美豆は綴喜郡に属し、狭少なれども、御牧は数村となる。『日本馬政史』
注… 『日本馬政史』に美津御牧とは延喜式に云ふ、 山城国美豆厩野地五十町余云々。

  くつ川
 都よりおつけてひかは小笠原くつの河原に駒やあるらん
   
    『甲斐聞書』

  

 (『甲斐国志』巻之四十八 古蹟部第十一)

 和歌に御真衣野原と詠みたるは是なり

 みまきのはら(夫木集未考 御牧原か或云甲斐) よみ人しらす

   名に高き木曾のかけはし引わたしみ牧の原やこひしかるらん

 まきの里(夫木集に云山城) よみ人しらす

   布さらすまきの里ともみゆるかな卯の花さけるかきねくは

  
 
  西行法師

   西の国のかたへ修業してまかり侍るとてみづ野と
   申す所にぐしならひたる同行の侍りけるに親しき
   ものの例ならぬこと侍るとてぐせざりけり

  山城のみづの草につながれて駒ものうげに見ゆるたびかな

      『山歌集』巻下雑   【成立】治承三年(1178)草稿、後増補。
     西行法師 元永元年(1118)〜建久元年(1190)

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  日本書紀歌謡
 
 ぬばたまの甲斐の黒駒鞍着せば命死なまし甲斐の黒駒   
   
     『日本書紀』

  小笠原、逸見牧

   駒 引  紀貫之  貫之−貞観十年(868)〜天慶八年(945)
  
  都まてなつけてひくはをかさ原へみの御牧の駒にや有らん  
 
     『紀貫之集』  『類従群集』第三巻第二百四十七
   

  逸見の御牧(六帖夫木集云家集題駒牽甲斐或伊豆)    

 みやこまてなつけてひくは小笠原へみの御牧駒にや有らん  
   
     『夫木集』【成立−延慶三年(1310)。正慶元年(1332)までに補訂】

   顕仲朝臣

  小笠原へみのみまきのはなれ駒いとゝ気色そ春はあれます

     『堀川院百首和歌』春 『類集群従』巻第百六十
     堀川天皇−承暦三年(1079)〜嘉承二年(1107)

   春 駒 俊成卿
 
  小笠はらやけのゝ薄つのくめはすゝろにまかふかひの黒駒  
     
     『俊成卿五社百首』 
     『類集群従』巻第百七十六文治六年(1190)

   春 駒  仲 實

  小笠原すくろにやくる下草になつますあるゝ鶴のふちのこま 
 
     『堀川院百首和歌』春 『類集群従』巻第百六十七

   題しらす  僧都覚雅

  もえ出る草葉のみかは小笠原駒のけしきも春めきにけり

     『詞花和歌集』  【成立−兼輔撰。仁平元年(1151)奉覧】
 
   甲斐の黒駒
  八月相坂の国の関に駒むかふる人あり          

  むさしのゝ駒迎にや関山かひよりこへてけさをきつらん

     『源順集』 『類従群集』巻第二百四十九
     源順(したがう)−延喜十一年(911)〜永観元年(983)  

   信濃路のかたへ里馬引たかへたるを  

  さもこそは其名もしらね信濃ちょ引たかへたるかひの黒駒  

     『明日香井和歌集』  『類従群集』巻第二百四十二
     藤原雅経家集 【成立−永仁二年(1209)完成】

   春 駒   

  小笠はらやけのゝ薄つのくめはすゝろにまかふかひの黒駒  

     『俊成卿五社百首』  文治六年
     『類集群従』巻第百七十六 俊成−永久二年(1114)〜元久元年(1204)

   駒 迎

  相坂の関の杉村木くらきにまきれやすらんかひの黒駒  
   
     『夫木集』

   春 駒

  小笠原すくろにやくる下草になつまつあるゝ鶴のふちのこま 

     『堀川院百首和歌』    『類従群集』巻第百六十七
  
   秋  

  あふ坂の杉間もりくる月ゆへにおふちに見ゆるかひの黒駒 

     『正治二年院御百首』

   題しらず  不知読人

  とし毎にかひの黒駒ひきつれてのりていさむる春日野の原

     『南都名所記』

   日本名所千句  宗祇法師  

  浜松の里は下葉に埋もれてしはしひかふるくろ駒のやま  

     『宗祇法師連歌百韻』  
     宗祇−応永二十八年(1421)〜文亀二年(1502)

   題しらず  不知読人

  わかゞへる道の黒駒あらばきみは来すともおのれいなゝけ   

     『拾遺集』  【成立−寛弘三年(1006)頃】

  引かへてなつけむ駒の綱たえにいかゝのかひの人はみるへき  

     『相模集』  相模−生没不詳、康平四年(1061)頃没か。

   甲斐の国河口といふ所にとまりて曙ふかく御坂を
   こえて甲府につくその道に黒駒といふ所あり
   細川玄旨
   
  ときのとき出へきさいをまつ一首あへてふるまふかひの黒駒
    
     『東国陣道記』 七月十六日の項

  

   駒 迎

  相坂の関路にけふや秋の田の穂坂のこまをつむつむとひく  

     『夫木集』  (「つむつむ」が「むつむつ」の書もあり)

  関の戸に尾花葦毛のみゆる哉穂坂の駒を引にやあるらん   

     『夫木集』  藤原長家    『新葉集』 

  秋の田のほさかの駒を引つれてをさまれる代のかひもありけり  
 
     長家−寛弘二年(1005)〜康平七年(1064)
   
   駒 迎  隆源法師    

  関の戸におなしあしけのみゆる哉ほさかの駒をひくにや有らん

     『夫木集』  隆源法師−生没不詳。活躍年(1086〜1100)

   駒 迎

  関の戸に尾花葦毛のみゆる哉穂坂の駒を引にやあるらん

     『堀川院御時百首和歌』  堀河院−堀河天皇。
     承暦三年(1079)〜嘉承二年(1107)

   橋本社に讀て奉り侍し秋十五首の歌

  花すゝきほさかの駒やまかふらん玉しく庭の月の光に

     『藤原光經集』 『類集群従』巻第二百五十九 
     【完成−藤原顕輔著。仁平元年(1151)初度本】
     光経−生没不詳。
     所収和歌−建保六年(1218)〜嘉禄二年(1226)

   駒 迎

  しろたへになひく眞袖や花薄ほさかのこまにあふ坂の山
 
     『明日香井和歌集』
      藤原雅有撰。 藤原雅経家集 【成立−永仁二年(1209)完成】
      雅経−嘉応二年(1170)〜承久三年(1221)
 


   穂坂小野  入道大納言

  時来ぬと民もにきはふ秋の田の穂坂の駒をけふそ引ける

      『年中行事歌合』

   ほさかのをの(甲斐春駒を)権中納言師俊卿

  春くさの保坂をのゝはなれ駒秋は宮こへひかんとすらん
 
       『夫木集』

   ほさかのをの  前中納言匡房卿(大江氏)

  はなすゝきほさかのこまにあらね共人おちやすきをみなへし哉

       『夫木集』
      匡房(まさふさ)−長久二年(1041)〜天永二年(1111)

   ほさかのをの  衣笠大納言

  打なひき秋はきにけりはなすゝきほさかの駒をいまやひくらん
 
      『夫木集』

   穂坂小野  隆源法師

  関の戸におなしあしけのみゆる哉ほさかの駒をひくにや有らん

      『夫木集』

  
 
  新名所歌合   荒木田長言

  春深き御牧の小野の朝茅原に松原こめてかゝる藤浪

      『伊勢名勝志』
      伊勢宮内黙蔵著
    
   日本名所千句  宗祇法師   『宗祇法師連歌百韻』

  ほのかなる穂坂の小野の月更けて秋風のなる山梨の岡

   美豆御牧    よみ人しらす
 
 小笠原みつのみまきにあるゝ駒もとれはそ馴るこらが袖かも
 
      『六帖集』

 
 小笠原へみのみまきにあるゝ駒もとれはそなつくなりきてそとる
 
      『夫木集』
 

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