<歴史誤伝>
山梨県の歴史には数多くの誤伝が史実のように歩いて、多くの県民もそうした謝った歴史を信じている。
また歴史学者も文学研究者なども、過去の誤伝から抜け切れずに著すから、さらに誤伝が深層の中に紛れ込んでいく。
一般の歴史感などが、小学生の理解度と同程度であればよいが、最近では歴史が人の心の中に定着せず、高校生になっても一部を除いて「どうでもいい話」として取り扱われる。
歴史などは格好や国家威信や「臭い物に蓋」的な歴史を教科書で説いて見ても、日本人の果たして来た虐殺や掠奪の歴史は、史実として捕らえるべきで、覆いの中の歴史展開は何の意味もない。
<山本勘助>
最近の山梨県の歴史誤伝の筆頭は「山本勘助」である。可哀想である。行政も観光も施設も図書館もこのときとばかりにNHK大河ドラマに煽られて、悪乗りしたことは、多くの識者が危惧する内容であった。
山本勘助は受信料の回復を願って製作されたもので、ポスターの中にはそうした意図が明確になっているものもあった。
勘助は小説になり、テレビで毎週放映、市川文書なる摩訶不思議な古文書を頭上に構えて、勘助実在説を唱える歴史家や歴史学者は書き捲くり喋り捲った。
また報道も観光パンフレットも煽り捲くり、そして現在のように「黙して語らず」となった。
<歴史と観光>
歴史はよく観光と一体化する場合が多く、題材の少ない山梨県では格好の餌食となり昨年のような「馬鹿騒ぎ」を展開する。
本年は静まりかえり、山梨県内は、金銭的に効果が少ない「激安ツアー観光」のメッカとなり、一銭も落とさず、糞尿とゴミだけ置いて帰る様が各地で見られる。
<建設前と建設後>
県民の生涯学習の場として、多額な借財で建てた○○なども、すっかりイベント会社みたいに来訪者の数に一喜一憂する。
どのくらいの県民ための資料があるであろうか。計画から内容それに運営まで、どこに巨額な税金が使われているのか理解できない。
また県立図書館などを建設し、来訪者や観光客のメッカとするのか。もうたくさんである。山梨県の施設や学校などの蔵書の数はどのくらいあろのであろうか。
図書館側もさまざまな催しをして、来訪を呼びかけるが、人口減少の中で、本当に図書館としての姿を見直す時期に来ている。
<小笠原牧は旧櫛形町小笠原近辺>
さて表題の「小笠原牧」が北杜市明野町の小笠原地域にあったような誤伝が一人歩きしているが、これは何の根拠もないもので、後世の歴史家が積み重ねてきたものである。
これは今後、遺跡や遺構の中や公式の著文書の中に「小笠原牧」はその場所にあったことを示す有効資料がない限り、史実にはなれない。
<古代中世の馬>
馬といえば荒野で走る蒙古軍のような、武田騎馬軍団などの映画を彷彿するような描写が頭をよぎるが、古代の馬など現在の「ポニー」位のもので「ろば」。鎌倉時代でさえ材木座海岸で出土した馬骨からは高さ1m20cmの小型のものであったという。
小笠原といえば、旧櫛形町小笠原と明野小笠原が発祥をめぐってそれぞれ論を交わしているが、発祥は旧櫛形町(現在南アルプス市)小笠原である。これは当時の豪族や武将の流れを見れば一目瞭然で、たとえば馬を飼育する場所として明野小笠原の地を活用した可能性は残る。
秋山氏・小笠原氏・南部氏・波木井氏などの名門を排出している南巨摩郡は、その後東北南部の基礎を築き馬飼育の伝統を保持し、一部では現在も継続されている。
また小笠原家は多岐にわたり流派を創設してその数は枚挙に暇がないくらいである。
これはサイト検索でもあふれるくらい出てくる。(別記)
<小笠原牧>
歴史とは一方が語り、一方が黙していると「喋り勝ち」となる。
小笠原牧はかの有名な紀貫之が映じた歌を後生大事に石碑に刻してみても、それは歌の世界であり、どこか所在のわからない和歌が数ある中で、一句をもって論証することはあまりにも軽はずみである。(別記)
<市川団十郎そのはじめ>
施設が歴史を誤伝した好例は「歌舞伎会館」である。どうでもよいような歴史を創り(旧三珠町史)に一行も記されていない、市川団十郎初祖を甲斐市川に求めた歌舞伎関係の書はいくつかあるが、その一書を持ち出し正当化して大型の建物をつくり、そして現在は如何に。市川当家もここを初祖の地として訪れ線香を手向け、これをお墨付きして見ても、創作歴史は消えていく。こうした無駄な行為は隣の碑林会館など今は訪れる人も少ない。この公園には山梨県でも最大の南洋木材が多用されている。ヒノキの数十倍の値段のもが林立した。最後は予算がなくなり使用はなくなったが、こうした無駄の意味の薄い建物は山梨県には多い。
<関連サイト>
○http://blogs.yahoo.co.jp/denntukujp/archive/2007/10
<参考資料>
●http://www.sannichi-ybs.co.jp/~kyohoku/literature/turayuki.html#top
和歌の世界と歴史
和歌を正面に据えて歴史を展開することは出来ない。歌に読み込まれた地名や名称を鵜呑みにするとんでもない歴史展開となる。このことは甲斐国志や甲斐名勝誌それに裏見寒話さえも詠み間違いをしている。
甲斐の御牧を論じるときに和歌を中心にすることはできない。あくまでも参考資料として取り扱うべきである。甲斐の御牧の存在は中央の歴史書の記録から窺い知ることができるが、御牧の所在地を限定することは無理で、これは甲斐に限ったことでなく、信濃の望月の牧以外は後世の地名比定が先んじ不確かである。
都に居て甲斐などに来たことのない宮廷官人たちの歌に振り回されて、そこに詠まれた歌地名を根拠に論を展開することは空しい作業である。また詠まれた年次も明確でなく更に混乱する。
小笠原地名と小笠原御牧
小笠原地名も櫛形町と明野村に在り現在でも何方が本家か決着がついていない。地域の拓け方それに古墳や甲斐源氏の発祥及び後の牧場の存在地それに小笠原氏の存在からみても小笠原地名及び小笠原牧は櫛形町小笠原が発祥であり、所在地である。
明野村の小笠原は小笠原氏族が知行した時から始まるとした方が自然である。
もし櫛形町小笠原地名が先んじていれば和歌に詠まれた小笠原牧も再考を要することとなる。
明野村には小笠原の他にも「辺見」の地名がある。
歴史資料の乏しい時代に、紀貫之が最初に和歌に詠んだ。その中の地名が明野村にもあるからして、
「をかさわらへみ御牧」
の所在が明野村中心に在ったとの結論は早急で、「思い込み歴史」の典型である。
それは文献資料に表れる以前のことで穂坂牧、真衣野牧、柏前牧も資料に表れ軌道にのりはじめて間もない年次に詠まれたものであり、紀貫之の詠んだ年次はその後の治績から晩年ではなく、『西宮記』などに記載された年次より数十年以前に遡る可能性が大きい。 不思議なことに駒牽の行事は八月に行なわれ真っ先に行なわれるのは通年八月七日の真衣野・柏前である。一年間待った駒牽行事の始まりである。その真衣野・柏前牧を詠んだ歌は皆無である。
隣の長野県望月の牧はもっとも長い期間駒牽行事に貢馬していた。歌の詠まれた件数も他を圧倒するが、次に詠まれたのは穂坂牧であり、小笠原牧である。
山城の近都牧、美豆の御牧と「三つの御牧」の混同も資料研究の浅さから来たもので、それは甲斐国志以来の甲斐の地誌にあらわれている。
<関連サイト>
●http://blogs.yahoo.co.jp/denntukujp/1508611.html
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