サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

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「閑田次筆」伴蒿蹊著(文化二年)

名山大河を探ることを好むは、大史公が遺意にして壮なりといふべし。されば不二峯などに登るは、儒士の好む所なり。ふじも淺間もよそより見てこそおもしろけれ。音より歌といふうた皆、よそより見ることをよみて、登たるはいまだ聞こえず。夜ごとに登りて石室に息(いこ)ひ、雪の汁を啜(すす)り、焼穴をのぞきて、砂の力に下るは、何の益ぞといふは、優美を好む歌人の情なり。女めかしき情(こころ)ばへなど誚(そし)るも、また一概の事なり。
都良香の富士の記も登臨せるにはあらす、辛(き)をよみし甘をたしむも、たゞこゝろごゝろ成べし。秋儀玉山登山して、遠近の景を連らねられしは、文にして悉(つく)せり。叉百井塘雨が、白登て考論じたるも益あれば、こゝに挙ぐ、其説に曰、富士は駿河、伊豆、相摸、甲斐、四州に亘りたり。
宋景濂(そうけいれん)が日東曲の第三首、此嶽を賦して、
「幡根直厭三州間」
と、作りしは未盡。又希叔舟が「海東諸国記」に、
「日本富士山山の高さ四十里、四時有雪」
と、いへる、この高サ四十里といふもの、いまだ十余里を残せり。甲州吉田口より直に絶頂に登ること、三百五十七町十三間といへり。
又明ノ謝肇?(シヤツセツ)が曰、
「莫高峨眉.莫秀於天都、莫険於太華、莫大於終南、莫奇於金山、莫巧於武夷、其它雁行而巳」
吾が不二峯一山にして、その半をかねたり。猶其美麗、なるや、面向不背の象状、世に並びなし。されば文人雅士、一度この山を見ずしては、口をひら誉がたしといふべし。
(中略)
麓より樹繁き所を離れて、一合二合といへる禿山に出れば、暮過る頃、頻なりし雨の脚麓へなだれて、雷鳴足下に響き、降音も猶甚しけれど、中天は月光玲瓏として、一点の雲なく碧瑠璃のごとく、時維七月望の夜なれば、彼唐帝の月宮に遊びたまふも、かくやと計、星の光さへ塞中に耀きて、手にとるばかりにおぼゆ。兀山より上は里数を知らず。
五合より以上には石室を設けて飲食を鬻(ひさ))ぎ、氷をし瀝(した)て湯とし、渇を助しむ。
八合の室中に暫く憩い、且つ飲み且つ喰ひ、火に跨りて寒をふせぎ勢いを休むるに、いつしか眠きざして、覚えず時を移すに、質主おどろかし、夜明けばかひなし、
「早く出られよ
といふに、げにとてまた登るに、この上甚だ険難にして、大巌そばたち道危うく、もし一歩あやまたば、環を盤にころがすがごとくなるべし。
遥かに絶頂を望み見れば、傘を開きし形にして、自らの頭を覆へるがごとくおぼゆ。あるひは岩角を掴み、杖によりて休む。
意を静にして気を収めて歩めども、呼吸喘ぎて、山と胸とひたと合たるようにて、いかなる剛勇達足のものも、一息に三歩進むことあたはず。宜(むべ)もここを「胸突」と名付く。兎角して羊腸を九合といふにいたるとき、先達、「すは御來迎なり」、各拝むべしと呼ばふ。いかなるにやと東方を望めば、初に一帯の白雲空中に引わたると見れば、忽ち雲動きて舂(うすずく)がごとく、朱青紅紫の彩どりの雲棚引く。
その麗しきこと、比すべきものなし。
その見る所眼を八分に下しみる。其時傘計の薄墨をもて、月輸を隈どりしに似たるもの、漸々に進み昇る。中に朦朧と人の影のごときもの見ゆ。是を來迎と称す。さてこの圓鏡のごときが、次第にさし昇り出離ると見れば、忽然として吹消すがごとく、地下より車輸のごとき紅日さし昇ること、矢を射るにひとしく、速にして一世界こゝに明らかなり。
既にして一反斗登れば、光輝字宙にきらめき、人の眼を射て、再びむかひ見がたし。さてこのご来迎といふもの々様子、日々異同あり。
或は前後雨を帯、叉目の長煽朔望、若は曇暗によるとぞ。はた雲漢に傑出せる葱嶺(そうれい)なれば、登山の者山に酔て精神恍惚として、眞に覗留ることかたければ、種々の異説もおこれり。近世印行せる小説に、富士山上せるもの來迎を拝むといふこと忘誕(モウタン・うそ)なり、是日の暈の中に、この方の影うつりて見ゆるなり。依て此方の人うなずけは、その佛も同じくうなずく。これをもて証とすべしといへり。
これは「理学類篇」にいへる、
人蛾眉山に至る、五更の初に見れば白気を敷、既にして圓光有て鏡のごとし、其中に佛あり、然も其
人手を以て頭巾を包むときは、光中の佛も、また頭巾を包む。
これをもて、是人の影なることを知る。則彼山中一氣ありて、日の初めて出るに照しみる時は、其影圓にして人影映すること佛のごとしといふ。
又「潜確類書」にも、
大蓬山の象王峯にのぼれば、大徑百丈の黒影の佛像に彷彿たるあり。朝雲初て発り、日の出る頃なり。
などいへるを、とり合せて富士の來迎といふも、已が影のうつるなりと臆説せるなり。
予彼国の二峯は眼のあたり見ざれども、おもふに似て非なるもの歟。彼二峯は、まことに山中の一氣日光に映じて、かくのごとくなるべきは、こゝにて阿波の灌頂瀧、立山の勝妙の瀧の類ひならん。富士の日出を見るは、眼下の海中に出て、更に山氣の遮映(サエギリエイズル)るものなし。凡日月の照せること、物あれば其影背にうつるは常理なり。しかるを日東方に出るを見る、人のかげも亦東にうつるべき理は、決してなかるべし。
異邦にいふ所の日出の圓鏡は、中に陰氣の隔あるゆえ、人影もうつるべし。富嶽にみる所とは、大に異なり。よく辨(わきま)ふべし。世の人の彌陀の來迎とたうとむを、儒生など憎みて、佛といへば理非を押究めず、一慨に誣譏(しいそし)らんとするより、却てあらぬ論をいひ出すなり。また佛者黄冠(やまぶし)の類の、信不信によりて來迎を拝むことの、異なるやうにいへるも笑ふべし。
心氣虚弱の人は山に酔ひ、忙然として始末を考へざるも多かるべし。
〔割註〕
以上元文甚町寧重復、かへりて心得がたきゆえに、要をとりてしるす、意は少しもたがへず。

角行の参考資料
富士講の開祖角行

<岩佐忠雄氏著「北富士すそのものがたり」第一巻より>

富士講の開祖長谷川角行
富士講の開祖長谷川角行とは、一体どの様な人であったか、戦国時代の初頭、世の中大いに乱れて、道義全く地におち、群雄各地に蜂起した頃、左近大夫藤原久元の子として生れ幼名武松と云う。
永禄元年、十八才の時、此人を導かんとの大願を発し、諸国修業の後、元亀三年、吉田口より登山、その崇厳なる姿に打たれて、後に前記人穴で苦行の末(天正元年・1573、富士山麓の人穴で、四寸五分角の上に立ち、丈余の杖と、一本の藤蔓にすがって、爪立ち苦行一千日の末、富士講という教倫を編み出す)、正保三年六月二日死去した。時に百五才、 

角行の創唱した教義を一口にして言うならば、「人間日常の機徴」にふれたもので、其頃迄、神遣、仏教、儒教、修験道、の混然とした山岳宗教と浅間神杜に対する信仰から、加持祈薦、卜占(うらない)施術、まじたいなど、いわゆる「おたき上げ」と云う行法を盛んに行なって、商売繁昌、難病平癒、家内安全、夫婦和合、という日常生活に即した、極めて判り易い教義を流布したので、信仰の対照となった当時の下層庶民百姓の間に著しく普及したことは現代の新興宗教の勃興とよく似ている様だ。
併し、この根本となった「御身抜き」と称する秘文や、基言密教や、呪術、場占から来た、難解きわまるいろいろの教典、即ち大行の巻、真言秘書真伝、不二行の巻、法門の巻、其他は一般の人には公開しなかったといわれる。
心ある入信決定(けつじょう)の者のみが開き見ることが出来る。凡人がこれを開き見るときは、たちどころに眼がつぶれる。と云って、固く秘巻を閉じて見せなかった。であるから、余程自信のある者の外は、終生これを見ることはなかったという。たとえこれを見る人があったとしても、当て字や、作り字が余りにも多く極めて難解、読む人に依って十人十色の解釈をしたと云う。
(略)開祖角行以来百数十年の間、民間信仰を、三国一の霊峯富士山と、霊験あらたかな浅間神杜とに結びつけたので、富士へふじへと物すごい登山者が押しよせて、吉田の町は繁昌した。
中輿の祖食行身禄
<岩佐忠雄氏著「北富士すそのものがたり」第一巻より>

富士講中興の祖と云われ、角行書行藤仏よりも知られ、親しまれている角行六世食行身禄(じきぎょうみろく)は、角行以来の教典に、更に新らしい教倫を打出し、角行より一段と人心を把握した。
身禄は、伊勢の国一志郡清水村の生れ、伊藤伊兵衛と云う油商人である。
十七才の時、月行の弟子となり、信仰の念非常に厚く人にこえていた。
或時吉田に来り、油商いの傍ら、富士講に関する新説を説いて、夜の更くるを知らなかった。高声を発して教典を唱える姿は、狂人のごとく、何軒かの御師の坊を転々としたが、皆断られ、落ち着く先が無かったところ、これを喜んで迎えたのが、大田辺こと田辺十郎左衛門だという。
(十郎左衛門は後に北行、月鏡と称し、玉の坊の屋号を授けられ、身禄派第一の宿坊となった。)それ以来理解が深まるとともに、益々、入信者が増加したが、角行の唱えた、呪術・加持蔦・ト占、淫猥と思われる御詠歌等の教義は、つとめてこれを避け、専ら神祇に徹することを心掛けた。
当今迄富士講信者の守り札として授与した「おふせぎ」(御符)すら閉め出す程だった。
享保十八年、富士山七合五勺の、烏帽子岩の岩窟に籠って、一ケ月間の断食修業を行ない、遂に死去入定するまで、有名なる三十一の巻(不説の巻)口述して、これを十郎左衛門が筆記したことは、吉田の人なら大半は知っていることふおもう。
其後、身禄の後をついだ、伊藤一行七世、八世の伊藤参行と続いたのであるが、明治初期の頃には、再び角行の思想が流布される傾向があったと伝えられる。
この頃大宮の浅間神杜の宮司であった宍野半(ししのなかば)が富士浅間神杜の宮司を兼務して、新らたに「扶桑教」という一派をたてゝ今目に及んでいることは前に記した。
しかし富士講の根本義にはたいした変りはない。とも角も、富士講一世角行以来、約三百年、江戸末期まで、信仰界の太陽として、庶民の思想をリードし江戸から関東一円、遠く関西、東北迄も普及したことが、御師の発達につながっていた事は事実である。
食行身禄「不説の巻」の一節に、
----浅間様のお産まれなされ侯ところは「けんこん」と申し侯、この処は富士北口上吉田より一合ほど登り候へば、お胎内と云うところなり----
とあり、「隔掻録」の中には
----中の茶屋より西へ入ること十一町に洞穴あり、「胎内穴」と云う。間口七八問、入ること四五丈ばかりにて、傍らに折れて入る。これより下り平たる岩上に立つ、これを「子返へり」と云う。頭上甚だ迫りはって僅かに進む。ここに乳房のごとき岩あり、水滴りて乳の出るごとし。これより十丈ばかり行けば、稍々広く歩し易し、正面に大日如来の銅像あり、紀を束ねたるがごとし盥石(たらい石)という石あり、形たらいに似たり、中に「えた」のごとき石あり、仰ぎ見れば、石のしわことごとく胸、肋骨に似たり。浅問大神の出現の古跡たりと云う----
と、ある。富士登山をする道者の大半は、この胎内めぐりと、忍野八海及明見の蓬池に参拝することになっている。

http://blogs.yahoo.co.jp/asamaookami/1745285.html

角行の参考資料

富士講の開祖角行

<岩佐忠雄氏著「北富士すそのものがたり」第一巻より>

富士講の開祖長谷川角行

富士講の開祖長谷川角行とは、一体どの様な人であったか、戦国時代の初
頭、世の中大いに乱れて、道義全く地におち、群雄各地に蜂起した頃、左近大
夫藤原久元の子として生れ幼名武松と云う。

永禄元年、十八才の時、此人を導かんとの大願を発し、諸国修業の後、元亀三
年、吉田口より登山、その崇厳なる姿に打たれて、後に前記人穴で苦行の末
(天正元年・1573、富士山麓の人穴で、四寸五分角の上に立ち、丈余の杖と、
一本の藤蔓にすがって、爪立ち苦行一千日の末、富士講という教倫を編み出
す)、正保三年六月二日死去した。時に百五才、 

角行の創唱した教義を一口にして言うならば、「人間日常の機徴」にふれたも
ので、其頃迄、神遣、仏教、儒教、修験道、の混然とした山岳宗教と浅間神杜
に対する信仰から、加持祈薦、卜占(うらない)施術、まじたいなど、いわゆる「お
たき上げ」と云う行法を盛んに行なって、商売繁昌、難病平癒、家内安全、夫婦
和合、という日常生活に即した、極めて判り易い教義を流布したので、信仰の
対照となった当時の下層庶民百姓の間に著しく普及したことは現代の新興宗
教の勃興とよく似ている様だ。

併し、この根本となった「御身抜き」と称する秘文や、基言密教や、呪術、場占
から来た、難解きわまるいろいろの教典、即ち大行の巻、真言秘書真伝、不二
行の巻、法門の巻、其他は一般の人には公開しなかったといわれる。

心ある入信決定(けつじょう)の者のみが開き見ることが出来る。凡人がこれを
開き見るときは、たちどころに眼がつぶれる。と云って、固く秘巻を閉じて見せな
かった。であるから、余程自信のある者の外は、終生これを見ることはなかった
という。たとえこれを見る人があったとしても、当て字や、作り字が余りにも多く
極めて難解、読む人に依って十人十色の解釈をしたと云う。

(略)開祖角行以来百数十年の間、民間信仰を、三国一の霊峯富士山と、霊験
あらたかな浅間神杜とに結びつけたので、富士へふじへと物すごい登山者が
押しよせて、吉田の町は繁昌した。

中輿の祖食行身禄

<岩佐忠雄氏著「北富士すそのものがたり」第一巻より>

富士講中興の祖と云われ、角行書行藤仏よりも知られ、親しまれている角行六
世食行身禄(じきぎょうみろく)は、角行以来の教典に、更に新らしい教倫を打出
し、角行より一段と人心を把握した。

身禄は、伊勢の国一志郡清水村の生れ、伊藤伊兵衛と云う油商人である。

十七才の時、月行の弟子となり、信仰の念非常に厚く人にこえていた。

或時吉田に来り、油商いの傍ら、富士講に関する新説を説いて、夜の更くるを
知らなかった。高声を発して教典を唱える姿は、狂人のごとく、何軒かの御師の
坊を転々としたが、皆断られ、落ち着く先が無かったところ、これを喜んで迎え
たのが、大田辺こと田辺十郎左衛門だという。

(十郎左衛門は後に北行、月鏡と称し、玉の坊の屋号を授けられ、身禄派第一
の宿坊となった。)それ以来理解が深まるとともに、益々、入信者が増加した
が、角行の唱えた、呪術・加持蔦・ト占、淫猥と思われる御詠歌等の教義は、つ
とめてこれを避け、専ら神祇に徹することを心掛けた。

当今迄富士講信者の守り札として授与した「おふせぎ」(御符)すら閉め出す程
だった。

享保十八年、富士山七合五勺の、烏帽子岩の岩窟に籠って、一ケ月間の断食
修業を行ない、遂に死去入定するまで、有名なる三十一の巻(不説の巻)口述
して、これを十郎左衛門が筆記したことは、吉田の人なら大半は知っていること
ふおもう。

其後、身禄の後をついだ、伊藤一行七世、八世の伊藤参行と続いたのである
が、明治初期の頃には、再び角行の思想が流布される傾向があったと伝えら
れる。

この頃大宮の浅間神杜の宮司であった宍野半(ししのなかば)が富士浅間神杜
の宮司を兼務して、新らたに「扶桑教」という一派をたてゝ今目に及んでいること
は前に記した。

しかし富士講の根本義にはたいした変りはない。とも角も、富士講一世角行以
来、約三百年、江戸末期まで、信仰界の太陽として、庶民の思想をリードし江
戸から関東一円、遠く関西、東北迄も普及したことが、御師の発達につながっ
ていた事は事実である。

食行身禄「不説の巻」の一節に、

----浅間様のお産まれなされ侯ところは「けんこん」と申し侯、この処は富士北
口上吉田より一合ほど登り候へば、お胎内と云うところなり----

とあり、「隔掻録」の中には

----中の茶屋より西へ入ること十一町に洞穴あり、「胎内穴」と云う。間口七八
問、入ること四五丈ばかりにて、傍らに折れて入る。これより下り平たる岩上に
立つ、これを「子返へり」と云う。頭上甚だ迫りはって僅かに進む。ここに乳房の
ごとき岩あり、水滴りて乳の出るごとし。これより十丈ばかり行けば、稍々広く歩
し易し、正面に大日如来の銅像あり、紀を束ねたるがごとし盥石(たらい石)とい
う石あり、形たらいに似たり、中に「えた」のごとき石あり、仰ぎ見れば、石のし
わことごとく胸、肋骨に似たり。浅問大神の出現の古跡たりと云う----

と、ある。富士登山をする道者の大半は、この胎内めぐりと、忍野八海及明見
の蓬池に参拝することになっている。

http://blogs.yahoo.co.jp/asamaookami/1745285.html

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バイオテクノロジー【biotechnology】
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生物の行う化学反応、あるいはその機能を工業的に利用・応用する技術。遺伝子の組み換え、細胞融合や酵素を扱う技術が含まれ、発酵・新品種育成・環境浄化などに利用。生命工学。生物工学。


 こうした言葉先行文化が蔓延する日本では、時によってその用いる人々によってさまざまな方向へ展開する。
  木材界でも同様である。とってつけたような施策に乗って「ペレット」などが横行(?)している。
 ひところは何でも「チップ」が横行した。これなどなんらの実験や効果など示されていないうちに大流行した。どこでもかしこでもチップの山で、間伐材や製品残材などが利用された。林政のイベントなどでは「チップロード」なるものまで出現して足を滑らせたり。棘を刺したりするする人が続出した。また庭や道にまで公共工事にも広がりを見せ撒き散らした。一年経っていってみると、そこはムカデや虫の生息繁殖地となり、気の粘液が水と同化して滑って歩けない。今は造園や一部の公共施設に用いられている。これが「バイオ」の範囲かどうか知らないが、「ペレット」とストーブについても大量の補助金に乗って、その意味や効果実証も少ない中で、急速に進んでいる。

 またこれが「バイオ」最先端のような宣伝もなされている。

しかし木材の活用面から見れば稚拙な考えである。数百種もある内の一部を誇大活用してそれがすべてのような風潮は改めなければならない。ものを大切に尊敬しながら使うといいう古来からの伝承を捨てている現状を憂うばかりである。

 

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