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<「燕石雑誌」滝沢馬琴著>にある「甲陽軍艦」の記載者
佐渡と甲斐の関係の深さについては、別号で簡単に述べたが、それより山梨を代表する武田信玄をはじめ、信虎・信玄・勝頼の三代の戦跡や事案を詳細に書いてある。「甲陽軍艦」は最近では一部の間違いを除けば誰もが認める歴史書として通用している。言い換えればこの本がなければ武田信玄や山本勘助の事績も不詳となる。
しかしこの記載者についてはさまざまな説があって定まっていない。ところが江戸随筆集の中に、それに関する記述があり、早速佐渡に跳んだ。そして実証される春日惣二郎の墓を詣でて、さらに佐渡と甲斐の関係の深さに感銘した。
甲府市に佐渡町・相川町もあり、それらも関係があることが諸書によって確認できる。これについては別記する。
なお文中の石井夏海について確たる資料がある。
佐渡の洋学者 石井夏海(「図説佐渡島歴史散歩」による)
絵図師石井夏海は、相川町下京町郷宿を職業とする石井善兵街の長男として天明3年(1783)に生まれた。静蔵といい、夏海は号である。
幼少のころから絵が好きで、のち紀南嶺や谷文晃について学んだ。また、司馬江漢について、測量術や天文学、さらに西洋画の技法を学んだ。
夏海は、文化12年(1815)、33歳のとき、佐渡奉行所地方御役所絵図師に採用され、郷宿の稼業を弟に譲り分家する。御手当は御歳払米一カ年五斗であった。奉行所にて『佐渡地誌』の絵図の取り調べや、奉行の巡村に同行して、佐渡の各地方の絵図製作をするいっぽう、異国船の図や横文字の写し、また、小木湊内外「両喘御普請計画書」の作成、「孔子廟御普請御取掛り」の仕事などをする。この間、夏海の子息文海は、文政7年(1824)に地方役所絵図師兄習として一カ月給銭500文にて雇われている。天保元年(1830)には、夏海、文海が「相川年中行事」を極彩色ゆたかに描いて鈴木奉行に献上するが、相川の町並みを描くにも西洋画の技法である遠近法が用いられている。
天保7年(1836)、51歳の夏海は文海とともに、享和3年(1830)の伊能忠敬の測量をもとにして、元禄7年(1894)の測図を改正した「佐渡国絵地図」を作製し、江戸幕府の勘定所に納めた。
夏海は佐渡奉行所絵図師としてのみならず、文人として俳諧歌は北川真顔の門人として判者を許され、また、纂刻にもすぐれ、滝沢馬琴、菊地三馬、近藤守重などとも交遊があった。自らも、「弥彦弥三郎姨双岩弾三郎狙小萬畠双生種蒔 全六冊 作者佐渡国人安潤堂夏海著」という戯作の引札を残している。しかし、夏海が佐渡奉行所の絵図師の官職についたためか、刊本にはならず、稿本として残されている。
また、馬琴の『南総里見八犬伝』第九輯の巻頭に、夏海のことと「こがねなす君がことの葉なほ兄まくあなめでたしとほりす佐渡人」の歌を掲載している。夏海が、『南総里兄八犬伝』の犬士を佐渡に来させてほしいと申し入れたためか、馬琴の書簡に、「犬田小文吾は越後から引き返したので佐渡のことは、いずれ工夫したい」とあったといわれる。
なお夏海には、俳諧歌でも相川において十数人の社中を率いてつくった「藻潮集」という集があり、「鴬はいくらの歌をよみぬれどいづれ古くは聞えざりけり」などの歌がある。
夏海は、書斎のほかに、絵画、纂刻、雑技の部屋をもっていたという。嘉永元年(1846)没、享年65であった。
苔むした墓の中で、惣二郎はどんな想い出山梨の歴史界を見ているのであろうか。どの墓石が誰かわからない。しかし私は甲陽軍艦は佐渡で書かれたとの確信を得た。
<「燕石雑誌」yahooサイト>
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