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山梨県の限界森林
ある集落のお年寄り頼まれて、持ち山の整理や搬出にも手がける。こうした行為は昭和40年代後半くらいまで、田舎のどこでも見られた。
また現在のように農家・農業と林家・林業などと分け隔てることなく、田舎では農林業がいったいであった。生活の中に両者とも同居していて、生産物の統制以外はある面自由に販売もしていた。現在のように政治のしがらみや縦割り行政がいきわたり、農業も林業も分断されて、生活範囲も切り離されてしまった。
この国政の誤りが、現在の農業や林業が政治や官僚にいつでも揺さぶられる要因をも作ってしまった。見通しや方向性の変換も激しく、多くの国民や従事者離れも加速した。
今頃になって「地産地消」などと標語を掲げて、さも斬新なように感じるが、田舎では現在でも続いている地域もある。それは一般に過疎地である。しかしこの呼称さえも他人が言うことであり、その方々はその生活に満足している。山菜を採り出荷して帰りにお店で子供や孫の駄菓子それに海産物を買い入れて帰る。それも気の遠くなるような道を辿って、たとえ山梨でも奥深い山中では、雪などが降れば通行不可能になり、冬季作業は困難であったが、逆にその気候風土を利用して、森林作業にもあたった。夏場では動かない木材も雪や氷の上では面白いようにすべる。最初に道をつけておけば、その道を材木が思うように滑降して、下の集積場に転がり込んだものだ。たくましい農家の人々は冬は林業が生業。
農家があり、周囲に田畑があり、その奥が里山である。清水もこうした中を奥山から走る。竹筒などの節を抜いたり、中央の腐食した木材を水道(みずみち)として、家庭では飲料水に家庭用水として、風呂などにも使われた。風呂も毎日取り替えるのでなく、上水の汚れをすくい、また炊く。もちろん薪(まき)を使用する。大きな風呂釜では、根っこでも薪代わりに利用する。数日使った風呂水は、畑や堆肥作りに活用される。燃えた後の灰はワラビなどやその他のものの灰汁抜きに使う。その後はやはり畑に蒔く。
田舎の最高の肥料は人糞(しにょう)だ。これこそ最高のリサイクルであり、これは歴史的にも神話からのことで、学校の行き帰りに、「田舎の香水」と称して、畑に巻かれた糞尿の香りは日常茶飯事であった。現在のように区画整理をしていなかった田んぼの脇には「堆肥場」があり、ここも糞尿の集散地であった。山からの枯葉を摘んだり、わらの切り屑を入れたりして、来るべき田植えを待った。遊ぶ広場であった田畑のこうした堆肥場に落ち込んで、体中糞尿だらけになった記憶は多くの人が共有する思い出であった。
<本題>
ところが農林業の不振と経済成長で他の産業は隆盛をみて、特に山地売却や森林放棄が続いた。それまで切る必要な天然樹を切り倒しそれを売って体系を整えていた林野行政は、木材販売不振と外国木材の輸入過多に、なすすべもなく、時代をすごし、国産材離れが進む中で、暗中模索の施策が続き、多額な借金をつくり、そのつけを国民に回し、将来が見込めない中で、分収林などで国民個人の金まで投入させ、反省の色も見せず、机上の林政を展開している。
山梨県の林政など、まったく国の施策を取り入れ、人材まで派遣される始末で、奈良時代の以来のお上さま様の林政を展開している。山梨県としてどうするのか、広い視野を持たない施策が、偏った林政に陥っている。
認証林指定とか企業の森とか皆伐採植林など県民遊離の施策の連続で、県民が県産木材を利用することなども不足している。業者と行政の関係が強く、最近では意味不明なNPO団体なども木材活用に口を挟み、多額な税金を使用している。県民が不在なのである。県民に県有林の木材を使うには「家」に限定する必要はあるまい。木材の活用はよく考えれば数百もあり、その対象も幼児から高齢者までさまざまである。多くの人に使ってもらってこそ、県産材の良さも理解できるのである。また業者も補助金がなければ動けない状況で、これまでどれだけの補助金が注ぎ込まれてきたかわからない。また最近では予算余剰金の使い手として、取るに足らない事業を展開して、穴を埋め、さらの余剰金で組織や団体の運営費まで賄っているとの話も聞く。
こうした方々は類する会議があれば、自然や森林の大切さを訴える。しかし現場では大型機会で山地を踏みにじりきり崩す。また行政も予算の使いきりをするために、特定の人や団体それに組織に金を流す。実態を見ればあきれ返るものが多くあり、こうした方々はほどよく補助事業の常連となって当然のように補助金の恩恵に浴する。しかし不思議なことにこうした補助金多用者こそ、子供や一般の方々へのサービスは見えない。補助金の中には県費や市町村費も添加されている場合もある。そうした金銭を使う方は今後、木材普及のイベントや奉仕活動に率先して取り組んでほしい。
さて話は最初に戻して、「限界森林」は放棄森林とも言い換えてもよい。若い頃は農作業の合間に、特に冬期間は山に入り、下草や柴の整理、除伐採それに枝打ち、炭焼き作業と勤しみできた炭は販売商店に持ち組む。優良品ほど高い値がつく。これが技術の向上につながる。薪も同じだ。パチパチして撥ねる薪は嫌われる。やがて春が近づくと、山はすっきりして、芽生えた若葉や雑木の新芽を鹿や小動物が嗜む。山地から出た葉や小枝までも生活の中で確たる地位を気づいていた。
こうした里山はすっかり手入れができずに無残な姿を晒している・これは山梨県に多い恩師林や国有林も言えることで、言い換えれば「植林過多」である。植えた樹木の適正伐採さえできないのが現状である。手入れもしない放置林はある日「認証林」となって市場に出て行く。しかしこんなお慰めの事業は業者にかかればどんな木材でも混入していく。これなど業界では当然のことで、誰にもわからない。
たとえば長野県の唐松を山梨県の唐松として混入してもだれもわからないのだ。また認証林より立派な森林木材を有していても、レッテルがなければ使えない時代もやってくる。
こうした事情や森林経営が破綻した現在、山地は無用な固定資産税のみ納入するという悪魔の相続となり、後継者の方に重くのしかかる。したがって所有者は土地と森林を放棄するようなり、こうした山地森林を「限界森林」という。これは山梨ばかりでなくどこでも有り得ることで、崩落森林地などどこでも見れる。大型道路ができて取り残される山地。隣の山はそっくりなくなっている地域もある。人間はこれほど自然破壊を繰り返してよいのであろうか。またスキー場などに見られる森林破壊も凄まじいもので、目を覆いたくなる現場は五万とある。
80歳をこえて、手放すにも放せず、手入れもできず、放置されていた森林に、CO2対策と称して間伐が進む。何の計算もなく手立てもなく、言葉先行の施策はどんな意味があるのであろうか。間伐が二酸化炭素吸収を増加させるなどのことはどこの誰が実験して実証されたのであろうか。こんな行為は作業と作業費が目的であり、現在のような行為を繰り返した森林の木材は「認証林」はならないこと請け合いである。
それは作業の持つ意味など誰も理解していない。単に作業費が入ればいいだけのことで、対象樹林がその行為によってどう育つかは」関係ないことなのだ。
山や樹木に対する敬愛と畏怖の念を忘れた事業主体に、緑と山地を守るなどいう思想はとっくに忘れられている。
大型機械導入後、山梨の森林作業は荒っぽくなった。生産に値しない作業は乱雑になり、目の届かないところで、今日もまた。
だから依頼できない。作業の後の乱雑さを見たとき、多少の金銭授受ができても、残材処理だけでも補助金の数倍もかかり、さらに後継者に負担をかけることになる。
残材の隙間に植林して、次には大型機械は入れない現場をつくり、先が見えるのであろうか。
植林した樹木と樹木の間に残木の山では、年老いた山守には負担が大きすぎる。
皆伐採地には外来植物が繁茂して蔦や蔓で覆われ、何のための補助事業か理解できない。せめて誰でも参加できる現場を作ることができない現在の「皆伐採植林補助事業」は林政の最たる悪政と考えられる。こうしたことの議論は作業地現場で行えば林野庁の職員も口が貝になる。
日本を支えた民有林を、それを支えた老人たちが諦める里山森林とはなんなのであろうか。今後も真剣に考えて対処していきたい。もちろん私はこうした森林でできるだけ作業をしたい。それが林業で生かされた人間の最後の務めでもある。
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