サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ ]

    引用資料 『歴史読本』昭和40年刊
  古書の手引き『甲陽軍艦』

 江戸時代に入って、兵学、軍学は確立する。一口に軍学といっても、その内容は種々・雑多である。かつて、ロ−マの軍隊は、羊の腹を割いた神官がうらなってえる神託にしたがって、攻撃の機会をつかんだ。そんなに昔でなくとも、平安時代末期、鎌倉時代には、挙兵や攻撃の日時を、陰,陽道によってなされる卜筮(ぼくせい)や占星たよることがなされていた。源頼朝が、以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を奉して挙兵したときも、ト筮をおこなっている。 平安時代に、日常生活の中にまで深く浸透していた陰陽術がこうしたところにも顔を出しているのでる。 室町時代に入ると攻撃日取りの決定には、仏教、道教、修験道、あるいはさまざまな俗信仰がまざりあって、軍配術といわれるものを生み出した。まじないの一種であることはいうまで、もないが、呪術、祈祷占星、ト筮などを基礎にした兵法だけに、今日に伝えられている。
 『兵法秘術一巻書』 文和三年(1364)
 『兵法秘術』 応永元年(1394)
 『訓閲集』    応二十四年(1417)
 『兵法軍気巻』、  大永六年(1526)
 などという軍法書は、秘伝書で、あるたけに、素人が読んでは、何のことかさっばり分らない内容である。一方、戦闘技術そのものに、こうしたまじないの入る余地のないことは、充分承知していながら、こうした軍配術にたよっていたところに、この時代の精神生活がうかがえる。
 室町時代末期から戦国時代に入ると、軍配術はますます盛んになる。そして、天文年間になると、軍配団扇が使われるようになる。いうなれば、鉄砲の伝来とほとんど時を同じくするのである。
 大将が戦陣に携行する軍配団扇は、鉄でふちを作り、鹿皮をはって、柄をつけたものに、次のような図柄をえがく。
 円をえがいて、中央に梵字(金剛界大日如来の種子)を書き周囲を十二等分して、月と十二支をえがく。その外がわに二十八筒の朱と白の丸点をえがいて、二十八宿を示す。この星の繰り方で吉凶をうらなうのである。
 大将から特に軍配を与えられた者を「軍配者」といい、参謀として、軍議にあずかり、戦機を左右する力を与えられていた。いわゆる後世から軍師といわれる人たちも、この軍配を許された者なのであるが、その吉凶を占うだけでは、戦闘に勝てないことは、誰もが悟っていたはずである。しかし、それでもなお、『気巻』『軍配』というような書物が、軍法書として珍重視されていた。理外の理といったようなもの、何かの権威にたより、それを利用して、士気をたかめることも、大将の大事な仕事であったからである。
 こうした軍書は、文字にあかるい僧侶や公家の手によって講ぜられ、伝えられ、ひろめられていったことも、注意すべきであろう。武家が自分の力で、軍法を文字にし、何かの理屈をつけるようになったのは、江戸時代に入ってからのことである。
 こうした意味合いから『甲陽軍鑑』は、江戸特代初期に成立したまとまった軍法書として、注目されている。江戸特代の軍法、軍学は武田流(甲州信玄公流)信公流、山本勘助流、小幡流などとも呼ばれる)を筆頭とするようである。そして,北条流、山鹿流などを分派に持つだけに、軍学の総本山ともいわれている。
 武田流の道統をここで示す暇はないが、各地に伝えられ、各藩によって採用されただけに、・その伝書も多く伝えられている。こうした武田流軍学の基礎になったものが『甲陽軍鑑』である。明暦二年(1656)の版本が、現在知られている一番古いものであるが、これがすでに「新版」であるから、寛永前後には上梓されて、広く流布していたと思われている。
 昔から、本書の作者については異論が多いが、高坂昌信の、撰述になる部分が多く、昌信の死後、その甥の春日惣次郎や小幡康盛(小幡虎盛の弟)、それに外記孫八郎、西条治部といった信玄の遺臣たちに加わって、その欠補って書き継いで行き、集大成されたというのが定説のようになっている。
 版本は、寛永年間というが、写本では、毛利秀元(輝元の養子、慶安三年歿72歳)に元和七年(1621)に贈られたものがあるから、慶長元和(1596〜1623)にかけて完本が成立していたことが分る。この元和の写本、寛永の版本以後、きぴすをついで版本が出版され、元禄十二年(1699)には、『甲陽軍鑑伝解』という多少字句を異にするものが出版されるに至っている。
 ところで、本書から近世初期の軍学がどういうものであるかを探るのは、読者の好みにまかせるとして、ここでは、その一部を原文に当ってみることとしよう。先ずその冒頭。
  ……此書、仮名づかひ万事無穿鑿にて、物知の御覧侯ば、一ツとしてよき事なくて、わらひ草に成申べく候。子細は、我等百姓なれども、不慮に十六歳の春召出され、地下(じげ)出で、春日源五郎になり奉公申、しかも油断なく御前に相詰、少も学問仕べき隙なき故、文盲第一にて、如件。さりながら、かしき事をば捨給ひ、比理屈を取て、当屋形勝頼公より、太郎信勝(勝頼の長子)公御代まで、上下諸侍の作法になさるべき事……
 きわめて遠慮深い冒頭である。が、こうした書き方は、『御成敗式目』(貞水式目)以来の武家の筆法と見るのも一法である。
 勝頼の子の信勝のことに言及しているから、その誕生の永禄十年(1567)以後のことと見られるが、その諱(実名)を書いているところから、むしろ、後世の書き足しか、あるいは天正八、九年(1580、81)の記述とみることも出来よう。むしろ、武田家滅亡後に大部分が記されたとも考えられるむきもあろう。
 山本勘助、については次のように記している。

……山本勘助、散々夫男にて、其上一眼、指も不叶、足はちんば也。(中略)殊更、城どり、陣取、一切の軍法をよく鍛錬いたす。京流の兵法も上手也。軍配をも存し知たる者なりと申せ共…… とある。普通の戦闘指揮ばかりでなく、「軍配」の上手といっているところに注意されたい。いわゆるまじないの方法をも知っていたのである。そして、勘助はたいしたことはないと見極めたのが今川家であり、今川の捨てた勘助を二百貫の知行を与えて召抱えたのが武田有玄だったのである。

山本勘助よもやま話
「売りに出た勘助屋敷」
  引用資料 『中部文学』甲陽書房 第四号 今川徳三氏著 昭和四十五年

 貞享元年(1648)の二月、甲府八日町の名主廿甚兵衛の許に、山本勘助の屋敷を売り払いたいという願い出があった。
 願い出を受けた甚兵衛は、番頭の三神庄右衛門という者を検分に行かせた。
 屋敷は八日町三丁目の表通リで、間口五間。持ち主も勘助といい、父祖伝来の山本勘助の屋敷に相違なし、という書状があり、勘助の印形もちゃんと押してある。
 検分役の三神庄右エ門が、証拠である書状を入念に調べたが、別に疑わしい点もなく、正しく山本勘助様のお屋敷に相違ありません、と甚兵衛に報告した。甚兵衛ほその由を文書で、町年寄の坂田家に届け出た。
 その記録が、坂出家の日誌にその儘記載されて残っている訳だが、八日町名主甚兵衛というのは、同地で現在毛糸商を経常している太田屋の先祖に当る人で、八日町の旧家である。文書によると三神を我ら家人庄右エ門としているから、太田家は武田家臣団のり一人で、徳川家康が織田信長から甲州一円を与えられた際、八日町の現住に住居を認められ住み着き名主になったものであろう。貞享元年は、山本勘助が川中仕で討ち死して、百年ぐらい経った頃に当る。
 将軍は五代綱吉。この綱吉はその頃、将軍職について五年になるかならぬで、年も三十九歳。政治向きにも油の乗り切っている盛りで、改革に改革を加え、英才将軍であったものが、この後、間もなく元禄の太平時代を迎えると、政治向きは抑沢吉保に任せきりにして、生類憐れみの令などという、神がかり的な法令を敷いて、鈍才将軍に変り果てた。が元禄太平り礎をきずきあげた、功績は買ううべきである。

 ところで甚兵衛の文書には、町内に山本勘助の屋敷があったことに驚いている節がみえる。しかし前出のようにちゃんと文書が揃っているので、勘助屋敷に間違いなしとして、当時の売買条例に従って、甚兵衛が売り立ての代理人になった。買い取った者が誰であったか、その記載はないが、間口五間というと奥行き二十間から二十二間、タンザグ形の宿場町に見られる地割り屋敷と考えていい。いくらで売れたものか、これも不明である。が、その頃の相場で十四、五両であったろう。しかし「勘助屋敷」ということで高値を呼んだことも想像される。 ところが八年後の元禄五年(1692)には、太平ムードの反映で、地価は急上昇して、あっという間に、八日町三丁目は坪当り四両から五両にはね上って、庶民には手の出せぬ価格になった。角地になると、その倍であったという。何代目かの勘助は売り急いで、損をしているのだが、売り急ぐ事情があったかも知れない。それにしても、綱吉の元禄時代と、昭和元禄、はからずして共に地価の異状な値上がりを見せたとは、興味の深い話である。

 ところで、武田信玄の軍師といわれた山本勘助には、実在説とまぼろし説の二説あることはすでに知られた話だが、八日町三丁目に勘助の居宅があったのが事実とすると、実在説を裏づける重要なきめ手になる訳で、武田信玄を手がけ、勘助のまぼろし説を支持している新田次郎さんに、他の用事のついでに、酒田日誌けコピーを送ったら、折り返し山本勘助は実在しないのです、と甚兵衛文書を否定して来た。
 届け出を受けた太田甚兵衛も驚いて三神右エ門を検分に行かせているくらいであるから勘助屋敷の真偽についてその当時すでに、相当の論議をかもしたものであろう。
 売り立ては、先にふれたように勘助死後百年足らずのことであり、町内の一丁ばかり先の目と鼻のような場所であるから、真実ならそれらしく口伝えの話が何かありそうなものだが、甚兵衛も初耳であったようである。
 実は、山本勘助屋敷というのは、もう一つ古府中にある。山梨県立図書館所蔵の古地図に記或になっていて、躑躅が崎の信玄館を取り巻く、武将屋敷の外れに、足軽大将山本勘助と記している。八日町三丁目は武田時代の上府中に対する下府中であり、百姓、町人の居住地である。

 ここに勘助が住んでいたとすると、面白い仮説がなりたつ。
 勘助は承知の通り甲州人ではない。板垣信方に召し抱えか、又は食客の形で甲州に来てて、信方の推挙で信玄の家来になった男だ。軍師として、多くの隠密を抱えたということになっている。
 隠密の情報を受けるには、警戒のきびしい武家屋敷街よリ、出入り自由な町方に住居を持つ方が、何かと都合もよく、そこで八日町三丁目いう街道から少し入った場所に秘かに居宅を選んだことが考えられはしないか。勘助には本妻はない。従って一代で絶えているのだが、男色であったという説もないから、妾でも置いたのであろう。後日の証として、文書を与え、妾との間に出来た子供が、八日町勘助として何代か統き、百年後の貞享になって、何かのきっかけで山本勘助の名が俄にクロ−ズアップされ、素性を秘していた末裔が名乗り出て、甚兵衛その他の者を驚かすことになった、とすると小説の素材になるのだが、一つ引っかかるものがある。

 屋敷の地形がタンザク型であったことだ。この宿場町特有り地割りというものは、関東では、家康が江戸開府にあたって、街道筋の宿場の家割りをすべて、タンザク形に制定しているのである。甲州もその例外でなく、面積がせまく、奥行きの深いのが特徴になっている。勘助屋敷も、間口五間としか文書に見当らぬが、奥行き二十間かち二十二間の町方屋敷であるから、武田以後つくられた屋敷ということになる。 とすると、勘助の文書、印形もインチキくさくなってきて、何代目かの勘助も自称であり、怪しくなってくる。

 甚兵衛が驚く節のあるのも当然だが、かといって、勘助宅に伝わる文書がインチキであるというキメ手もなく、それによって実害が生ずる程のことでもない、という理由からか、売り立ての代理を引き受けざるを得なかったものであろう。
 ともあれ、実在、まぼろし説は別にして、当時すでに信玄の軍師、山本勘助としてその盛名が上っていた事実を裏づける意味合いからは、この勘助屋敷売り立ての願書は、珍重すべぎ性質のものかも知れない。

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ ]


.

過去の記事一覧

標準グループ

私は言いたい
私は言いたい
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30
検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事