サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

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<写真は山梨県某地>
 再び訪れ唖然とした。そこには植林した桧ではなく、「桐」の木が林立していた。婦人の小河川には残木が押し込まれ、山地は大型機械で切り刻まれ、周囲には鹿が食い荒らした既桧植林地帯が広がる。外来植物も見られる。
 こうした実態を把握していない林野庁はさらに事業を進め、山地を破壊していく。その目的は何なのであろうか。すべてがこうした状況ではないにしても、国民の目の届かないところでの事業展開はあきれてしまう。民間ではありうることであるが、国家事業が自らの郷土を破壊する行為は、さらに拡大する。何でも大型機械ではなく、場所を選んで施行指導しないと飛んでもない山地ができる。列状間伐にしても傾斜地や樹幹間の狭い地域へ大型機械を入れると、樹木の根を傷め、軟弱地の水抜きも無いままの施行はいっきに荒廃が進む。涵養林の間伐や皆伐採などの事業は慎重な事前調査や、切り倒したり木は必ず安全の場所や山地から持ち出さないとならない。いかに国の指導事業であっても「事故米」の農林水産省の管轄である。民間だったらとっくに倒産である。
 水と緑の資源国日本を守ることより破壊と崩壊を繰り返す林野庁は誰が諌めるのか。
 それは石破大臣しかいない。

遺跡調査と樹木

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<写真資料>

 遺跡調査が山地や森林地帯に及ぶとき、sこには樹木の受難が待っている。

歴史は誰が創るのか

 最近若い女の子の間で戦国武将のグッズを集めるのがブームとなっているようであるが、その歴史は作られた部分が多い。それは日本を代表する人物でも同じである。
 昨年のテレビ放映で山梨県は勘助ブームが起きたが、今年は誰も口にしない。開発された「勘助商品」もすっかり姿を消して、関係諸本など半値でばら撒かれている。
 勘助の歴史的史跡などそのほとんどが後世の我田引水型の創作歴史から生まれたもので、特に勘助の墓や供養等それに生家と称する地域などもそのほとんどが危ういものである。また歴史家や歴史作家などの御仁なども歴史資料の隙間に持論を挟むから、史実と創作が行き交って混乱する。有名の歴史家など、山梨県北杜市に新たな勘助の史跡を作り上げ、報道も寄って集って有る事無い事を書きたて、さらにテレビが踊り、そのために新たな歴史施設(張りぼて)を借金財政の中で提供する市まで出てきた。ツアー観光のメッカとなって、静かな山地も荒れた。
 歴史上の人物を調べるときに必要なものは、その人物が没してから現在まで、時代の中でどう書かれどう息づいてきたかを調べることが大切である。
 またその時代背景でも取り扱いが違う。甲斐の名将武田信玄でさえ親を追放した極悪人として戦時中などは書くことがご法度であった。信玄の筆頭家臣馬場美濃などは主君武田勝頼を逃すために命を捧げた人物として、戦争の度に持て囃された。こうした人物は馬場姓を名乗る人は不明な箇所を線でつないで家系書ができ、供養塔と称するものまでつくり先祖と祭り上げる。骨や髪を埋めたなどの話も歴史にはならない話である。
 とにか不明な部分に付け込んで、さまざまな歴史創作をするから日本列島に勘助が充満する。山梨県の勘助歴史など何一つ実証されていない中で伝説や伝承それに創作附会歴史が絡み合っている。驚くことに最近の報道でもっとも活用されている勘助画像など明治以降の創作創造画像であり、多用すること一年で認証され人々の意識の中に実像として認識されている。
 こうしたことの繰り返しがさまざまな弊害を生む。テレビもドラマか史伝か明確にしないと地域では、史実より観光商売であり、そのドラマが最有力の宣伝として活用される。そしてブームが去るとその歴史まで抹消される憂き目にあう。
 観光も行き過ぎると、勘助屋敷や勘助墓それに勘助親戚まで創り上げてm抜き差しならない状況を産み、それが歴史崩壊につながることを考える機会さえ奪ってしまう。
 私のすむ北杜市の観光や文化財資源などはパンフレットの陰で天然人工崩壊を繰り返していてその認識の甘さはなんとも形容しがたい状況にある。
 テレビや映画に利用され踊らされる様は情けない。その間に管轄するかたがたの専門的認識も薄く次から次に天然記念物も消えている。日本一の名松「舞鶴の松」「駒の松」少し古いが「八幹の松」などなど、安易な指定と業者任せの保全がさらにこうした樹木の命を縮めてきた。それに国指定の「谷戸城」「金生遺跡」などすっかり変貌してしまい、見る影もない。そこにあった神社や墓までなくなり。復元技術も工法も稚拙で、ありもしない縄文時代の建物など、何が国指定なのか理解できない。傍らの資料館の立派な建物が異様である。
 山梨県では多くの補助事業や施設建設で数多くの遺跡や遺構が破壊されてきた。その中には中世の大きな意義を持つ遺跡や、数時代の遺物が積層した地域や場所などが破壊され続けた。
 事業を先行するために遺跡の「試掘堀」も無い場所を掘り、ある場所は触れないで着工。現在の北杜高校グランドの調査など、三塚古墳も想定される場所などで、担当行政に再三調査を申し入れた。川を隔て丘陵では田畑団地化事業、表面土をブルドーザーが剥ぐ、そこには文字が書かれた中世の器が無数産卵している。湿地帯からは人骨と思われるものもある。鮮やかな模様の縄文土器の破片。堆積した川砂の積層群に挟まった弥生式土器に唖然としたこともあった。
 庶民性や市民性を持たない考古学などは、時に寄れば自然破壊の最先端にもなる。大切な樹木も彼らにかかれば無用な長物であり、邪魔な存在でしかない。

 歴史は創作してはならない。観光に毒されたりしていけない。また安易な文化財保護まど多くを見直す時期に来ている。歴史書や県市町村誌などは厚いことや表装それに執筆人の豊富さではなく、いかに的確に人々に史実を伝えるかであって、著者の思い込みや持論の展開の場所であってはならない。
 よく武田信玄を山梨では「信玄さま」と呼ぶと紹介されるが、首切り執行人の戦国武将など子供たちにどう伝えるのか。「信玄さま」はそれを崇めて食の種にする神社や仏閣それを取り巻く有益業者の呼び名である。
 歴史の謎を解く関係の書物を読み終わった後にはさらに謎が深まるだけで、何の解明もされない歴史書もある。中にはさらに混迷を与えるものもある。

 山本勘助も死後、江戸の歌舞伎や浮世絵で持て囃され、暇な江戸軍学者と称する人に活用されてきた。江戸時代の随筆には、多くの勘助伝承が記されているが、それは虚実折半するものであるが、現在伝わる勘助伝説は記載されていなし。したがって現在の勘助伝説伝承故事来歴は明治以降に生まれたことは間違いない。(誤字脱字誤文未訂正)

http://blogs.yahoo.co.jp/kitanomorirekisi2007/4775263.html

○信玄帷幕の謀将は誰か(P255)
   山本勘助、真田幸隆

 武田家に於ける帷幕の謀将は誰々であったと云ふと、先ず第一に誰でも、軍師として山本勘助晴幸を考へるのであろう。そして又これに続いては真田弾正幸隆を挙げるであろうと思われる。
 武田信玄と云えば川中島合戦を聯想し、川中島合戦と云えば山本勘助を聯想する。
 事程左様に山本勘助晴幸入道道鬼斎の名前は有名であり、…真田三代記等と云ふ様な俗書によって真田弾正幸隆の名も人々に親しまれている。
 乍然事実は人々が考えている、山本勘助や真田幸隆は武田家に取って然程重要な役割を演じた者ではなかったらしい。
 (略)
 山本勘助晴幸は天文十二年(1543)より永禄四年(1561)の川中島合戦迄の此の間大功を立てたのは天文十五年(1546)の戸石合戦の時であった。
 若い頃諸国を遍歴したと云ふだけで諸国の事情に通じ、天文、兵法、槍術等に亘り、当時天下に幾人と数えられる程の人傑であった事は間違ひなかったであろうと思われるが、前期武田家譜代の諸将に比しては、身分が低く始め知行二百貫を賜り、後八百貫迄に立身した事は甲陽軍艦にも見えるが、百騎二百騎を預かる所謂侍大将ではなく、足軽大将であったのである。
 (略)
 真田三代記や俗書に見る川中島合戦などでは、一世の謀将として扱われ、殊に川中島合戦の時は、所謂山本勘助の啄木の戦法に反対しが、用ひられなかった。若し信玄が真田の戦法を採用して居れば、甲軍の大勝利に帰したのである。とか何とか色々云はれている が、事実はそんなものではなかったらしい。
 (略)
 山本勘助にしても戸石合戦に於ける甲軍の敗勢を救って勝利に導いた事は抜群であったが、川中島合戦に於ては、越後の名将、上杉謙信の為に見事裏をかゝれて作戦失敗の責を負ひ遂に討ち死にしてしまった程で、勘助一代の不覚と自らも称しているが、兎に角失敗であったのである。川中島合戦の失敗は相手が名将謙信であったえ恕す可き天もあるが、勘助晴幸には更に此の外に失敗がある。
 (略)
 「諏訪頼茂息女年十四歳になり給ふ。晨朝かくれなき美女にてまします。これを晴信公妾にとある義なり」
 について老臣が反対したが、山本勘助が老臣を説得し納得させた。(内容、既に記述)
 (略)
 これは非常に功利的な考え方であって、また人道にも反した事であり、山本勘助ともあろう程の考へる可き、事ではなく又信玄すべき事でなかった。これは川中島合戦に於ける
作戦の失敗以上の大失敗であると言へると思ふ。
 川中島合戦では謙信のために裏をかゝれとは云へ、これは部門の恥ではなく堂々たる作戦の失敗であって、何等恥べき事でなはい。云々
 (略)
 馬場美濃守が築城の術を山本勘助に習った事は、甲陽軍艦「軍法の巻」に左の如く見えることによって事実であろう。
 「……略……侍大将のつけ城、是は少別なり、一つにしても不苦、右三河牢人に山本勘助と申武士信玄公、御譜代のごとくにめしつかはるゝ者也。当家の城取はこの勘助流のなり、勘助に馬場美濃守能く相伝す」……略……
 とあって、駿河の江尻城、田中城、信州眞木島城の縄張りと伝へられている。
 川中島合戦はで有名な海津の城は、山本勘助の縄張りであるとも言われ、又一説に馬場信房の縄張りでもあると言われているが、これは山本勘助生存中の事であり、山本勘助の縄張りであると言ふ説の方が正しいと思われる。
 信州小諸城の城門も勘助晴幸の築いたものあるとされている。要するに当時山本勘助について馬場民部信房が、小諸、海津等の普請には実際指導を受けてものであろうと考えられる。
 尚、山本勘助に就いて言へば、今尚残る名刹甲斐の善光寺、(甲府市里垣町)も其の普請に当たって山本勘助が、監督の任にあったと言われている。
 (略)
 幸田露伴博士は「武田信玄」の中で
「永禄四年九月十日、川中島の大戦に其不自由な身の六十九歳の老体を馳驅奔突させた挙句、大小八十六カ所の創を負ふて、悪戦苦闘し、川中島八幡原の草の中に魂魄をたゝきつけて戦死したころは實に痛快壮快の好男子である」
 と云っていられる。
 (略)

 p272 『信玄全集末書』に

 「…略…陣城、境目之士大将居城、之外エ取出城、敵城エ付城、此等皆、山本勘助晴幸、武田家ニ善推廣委細傳 馬場美濃守信房。信房幕下之士早川彌左衛門幸豊傳之、又随心幸豊、而小幡勘兵衛景憲停伝授之矣」
 とある。取出と云うのは砦であろう。又同書に

「小田原陣、家康公卿陣城、山本帯刀卸陣屋の役なり、内藤四郎右衛門、高木主水、両武者奉行相談にて、早川爾左衛門に隠密にて申付、曲尺の馬出、つぼの升形にとらする。」
 とある。
早川彌左衛門は、武田家滅亡後徳川の家士となっていたものである。
山本帯刀と言うのは、山本勘助晴幸の弟(異母弟?)であるが、武田家とは何等交渉はなかった侍である。始め上杉謙信に仕へて豪勇の誉れあり、越後の「阿修羅」とか「首捨帯刀」などと異名をとった程の人物で各戦陣に於て高名をしても敵の首を皆拾てゝ顧みなかった侍でである。謙信に寵愛されていたが義将謙信は、甲軍に兄勘助があるを以って、骨肉相闘ふを避けしむる為、三河の松下元康(後の徳川家康)に書を迭り「秘蔵の家来であるから大切にして貰ひ度い」 と、これを徳川家忙託したと言はれている。
 幸田露伴博士は、「武田信玄」に於て、
「勘助の弟、山本帯刀成行といふものも兵学を得て居たのであらう。永禄十一年三月遠州濱松の城を徳川家康の為に修築したと言はれている」
 と、説かれている。この帯刀成行も兄に劣らぬ人傑であったものと思はれる。

 山本勘助大義を知らず

山本勘助晴幸は、兎に角武田の家中で原美濃守、小幡山城守、横田備中守、多田淡路守と並んで小身衆の中では五指を屈する中に数へられた程の名臣ではあるが、学問は無かったものゝ如くである。
 甲陽軍艦に、天文十六年二月二日に、信玄が山本勘助を呼んで、軍法備立等に就いて聞いた事が見えているが、その時「軍法、備の立様を申せ」とあれば、「勘助『終に左様のこと仕たる事無之』とて仲々申上げ得ず』と記されてある。又同書に、同じく二月十五日に、
 晴信公八幡原へ社参有し時、廻廊にて山本勘助を召し、
「其方は物の本四五冊も読みたるか」
 と、問ひ給ふ。勘助
「一冊も読み申さず候」
 と八幡を誓文に立て申上る。と、ある。若い頃、軍学、兵法、槍術の指南をしていた勘助晴幸であるが、侍大将でなかったので、
「軍法、備の立て様を申せと言はれても、終に左様のこと仕たる事無之」
 とて「仲々申上げ得ず」で、何しろ相手は十六歳の初陣以来、名将として知られた甲斐の国主信玄である。その信玄を前にしてでは、所謂、耳学問であった山本勘助、如何に智略縦横の兵法者であったとしても、「仲々に申上げ」られなかった事は当然であった事と思はれる。学問が無かったとしても、智将であり、兵法者であった事は間違ひない。否むしろ眼に一文字なくしてこれ程の兵法者であったとすれば驚嘆に値するものである。

 石水寺物語りに左の如く僻べている。

「…略…山本勘助、聞き及ひたる程、分別才覚ありて、工夫の智略よろしく、思案の宏才者なり。一文字を引かずとも、学問なくとも、物識りと言ふは此の勘助ならん、此れは只智者と申す者也、とて信虎公、信玄公二代へかけて四人の足軽大将とこの山本勘助々そへて五人衆に其の年からなされ給ふなり」
 とある。四人の足軽大将と云ふのは、原、小幡、横田、多田の四将の事である。又同書に、小幡上総守が婿の武田典厩信友公(信豊か?)に教へて、世の中に、兵法つかひ、兵法者、兵法仁の三者があり、小幡の同心、前原筑前などを兵法者と呼び、塚原ト傳などは兵法の名人と言ひ、山本勘助や浪合(波今)備前守などは、兵法仁と云ふものであると言ったと事が記されている。此處で云ふ兵法とは武芸の事であろう。

 然しながら一世の奇才山本勘助も惜むらくは無学であった事てある。伊南芳通の評言ではないが「而れども勘助、いまた王道の説た学ばす、冶道の書を得ずして説く事尚小なり」で、諏訪頼茂の、其息女事の如き失敗があったのである。更に又、甲陽軍鑑末書にも左の如き記事が見えている。

 ○信玄公本勘助に御尋ね三ケ條の事

 永禄三年庚申正月十三日に信玄公山本勘助に尋ね給ふは、
「我と対々の堅き様子の敵の殊に大剛なるをば、あてがひ如何」
 と御尋布勘功中候は
「よく押へを置なされ、あたりの猥なる國々を取治たまひ、此方大身におなり候て、御ためと対々剛敵も終には全亡しなされべぐ候なり」
 信玄公被仰は、
「近刻皆類親、或は縁者の儀は如何と被仰」
 勘助申は、
「猥なる国は其大将天道よりにくみれ得候へば、それを亡したもふは信玄公の御業にあらず、天道への御奉公と思召なさるべきと申しあげる。
 と、今一歩と言ふ事である。後に信玄が今川家を減ぼした事などを考へると、勘助の此の進言を聞く時は、それは逆に人道を無視したそれこそ天道にも逆く結果となる。
 智略他に冠絶したりと雖も、山本勘助晴幸未だ大義の自覚なく、名将信玄の下、山県大貳先生か、或は又後年維新に際會したる当時の如く、烈公斎昭に於ける藤田東湖先生の如き、斎彬島津公に於ける南洲西郷先生の如き謀将の無かった事は、内に烈々たる勤皇の芽生を感知出来る信玄の為、返すがえすも残念千萬の事であつた。

山本勘助よもやま話
引用資料『武田二十四将論』保坂義照氏著昭和19年刊

 筆註―この書には山本勘助について記されている部分が多く見られる。全文を転載するわけにもいかないので、部分的に抜粋して掲載する。

『武田二十四将論』
○信州塩尻合戦等(P104)

 (略)天文十二年正月三河牛窪の浪士山本勘助二百貫にて召し抱えへらる。

○信州戸石合戦その他(P107)

 (略)かくて此合戦武田軍の敗軍と見えて時、山本勘助晴幸、未だ足軽二十五人を預かる軽輩であったが、旗本にあって此の體を見、自分の同心を他の大将に預けて信玄の前に進み、
「村上、只今御旗本へかゝって一戦と相見へ候、甘利備前、横田備中殿討ち死に仕り、甘利殿家中、手負死人おほく有様に候へども、晴信公猛き大将の、御下の衆なればこそ、今に甘利衆崩れ申さず候、強きと申候ても又左様には堪へられぬ者にて候、甘利衆の崩れぬ前に何卒御分別遊ばせ」 と申し上げた。其處で信玄が、
「信濃、先方衆の味方各崩れたちて、其の下知も一廉仕可様、無之と覚へたり。所詮小山田備中途、諸角豊後と某旗本三備にて一合戦して討果たすより外の分別二つなし」 と云った。其處で勘助が、
「敵の同勢を南へ向け給へば、此の合戦、後は御勝
 と申し上げた。信玄は又、
「味方さへ下知につかぬ所へ、敵の備へを味方の仕様で南へ向けるなど今迄聞きたる事もないが、如何するか」
 と云われた。そこで、勘助が、後備の諸角豊後の五十騎を借り度き旨を述べて、信玄の許しを得手諸角勢を借り受け、五、六町前へ出て備えを立てるのを敵軍が見、案の条人数を纒めて前へ出た。其處で勘助は旗本へとって返して旗本足軽衆、半分及小山田備中手勢七十騎と共に打って出て敵を敗走せしめ事に成功した。
 これを山本勘助軍配の秘術大勝星と云ふ。云々
○川中島大會戦の布陣(P124〜)
 『大日本戦史川中島合戦』
 一、妻女山夜襲部隊山本勘助入道道鬼。
  尚外に総本陣信玄旗本として軍師山本勘助、云々

○武田家の軍政と其の人物(P229)
 足軽大将 山本勘助

○ 武田家の軍政と其の人物(P240〜241)
 山本勘助晴幸−勘蔵信共(長篠で戦死)
 山本勘助に就いては色々の説があるが、(別項参照)甲陽軍艦に左の如く見えている。
「本国は三州也。度々この手柄を顯し、信玄公御にても、数度の働きをいたし、武略たくましきを以て信州に於て数箇所の城を攻め落とし、一代手疵を蒙る事六十三カ所なり。此内お家にては二十カ所と雑談する、知行八百貫被下、川中島にて討死なり。子息も若く候へ共、二三度よき事候つる、去々年長篠にて討死なり。」
とある。
 去々年というからこれは天正五年に高坂弾正昌信の記したもので、間違ひはなかろうと思はれる。勘蔵信共と云ふのは、秋元氏の風雲の長篠に見えたものである。其の他、勘助には、甲陽軍艦の元を書いたと云ふ子供があったと云ふが果たしてどうか?山本勘助を山縣昌景の軽卒であったとしている『武功日記』も、それ程信憑すべきものではなかろうと思われる。

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