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仁田四郎富士人穴征服の伝説
仁田四郎忠常富士の人穴退治の伝説も、また諏訪明神に交渉ある附会の伝説である。
仁田四郎は伊豆国の住人で、今の静岡県田方郡函南村大字仁田の地がその故郷であった。その末商であると称せらるる仁田氏の邸内には、忠常兄弟三人の基がある。
三人は即ち諏訪明神の化身甲賀三郎兄弟三人と対比せられる。又、忠常の墓前に山なす木太刀の納められているのは大願成就の御礼に奉納されたものであると言われている。甲賀二郎の基は、今の三重県阿山郡府中村大字佐那具の御基山に存する。三郎の垂述は諏訪明神、本地は観音なる故を以って、伊賀国一の宮の奥歓音谷にもその碁所がある。
忠常は、源頼朝の挙兵に随って崛起し、夙に驍勇をもって顕われていた。富士野の猟時には巨猪を獲し、人穴を征服し、また曽我十郎祐成を殺して、その名を人口に膾炙されているが、少くもその人穴征服の伝説には、すこぶる誇張の跡がある。これ、「吾棄鑑」建仁三年の物語を附会したもので、仮名草子本の「富士の人穴」などが捏造の張本人で、其山は、人穴より入りて、相模国江の島の山の半腹へ抜けておると言われる。
仁田次郎探索報告
この洞穴は非常に狭く、人一人がやっと通れるほどで、なかなか進むことができないで、その上真っ暗で松明を灯して進んだところ、水が流れていて足をぬらし、また蝙蝠が非常に多かった。なおいろいろなことがあったが、川幅が7〜80間もある大河に出た。その川の流れは速く極寒のように冷たかった。この川の向かい側には光が見えて、その中に奇異の御姿が立つと同時に、四人の家臣が倒れて死亡した。そこで賜った重宝の御剣を川に投げ入れたところ、奇異の姿は見えなくなくなり、一命を取り留めて助かり戻ることが出来ました。
(吾妻鑑・東海道名所図会)
江ノ島大草紙
「江島大草紙」には、「仁田抜穴、山一つより南の石壁に、昔は穴の形ありしとなり。云々」と見えて、仁田抜穴は人口に喧しいが、全くは、例の甲賀三郎怪奥伝の生み出した徳川時代の捏造であったようである。
甲賀三兄弟
昔、甲賀権守諏胤が子に、甲賀太郎諏敏(又、頼平、重宗) 甲賀二郎諏任(又、頼忠、貞頼) 甲賀三郎諏方(又、頼方、兼家)という三人の子があった。三郎は信州蓼科嶽の人穴に入って、数年の間奇しき国々をめぐりめぐっておったが、その間に、二人の兄は三郎が所領を奪ってしまった。しかるに、二郎はなお悪逆の心があるので、太郎はこれを避け、所領下野国宇都官へ下り、後に神になり、示現太郎大明神と云われた。
甲賀三郎・諏訪明神
三郎も信濃国に帰り来り、また諏訪明神となった。二人の兄弟は、かくて信主明神のはからいによって仲睦くなったが、二郎もまたその後先非を悔い、これまた兄弟と和睦して、若狭国にて田中明神となり、衆生擁護の神となった。(「若狭国神名帳私考」)こうした甲賀三郎の伝記は、やがて又浄瑠瑠に語られ、物語に採られて、民間には、一種異様の怪人物として信ぜられ、岩窟の底に堕ちて、異形に身を変じ、年を経て再び人界にかえったなどという怪奇伝説を伝えているが、 これらの出所は、多く「伊賀国志」や「伊水温故」の記録類似の口碑が転靴し趣向したものであり、仁田四郎忠常の人穴めぐりの伝説は、更にその甲賀怪奇伝から胚胎しておるらしい。
信濃国望月、諏訪源左衛門尉
碓醐天皇の御字、信濃国望月の住人に、諏訪源左衛門尉源重頼という者があったが、朝廷に仕えて勇名があった。彼には又子息が二人あったが、嫡男太郎を後に望月信濃守重宗といい、二男を諏訪芙濃守貞頼、三男を望月隠岐守兼家と言って、各源姓であった。その遠祖は、大己貴命弟一の御子健御名方命(諏訪明神)に出ずるといわれ、今も其地の豪族であった。しかるに、この時代、若狭国高懸山(遠敷郡三宅村大字神谷にある。今も其地に甲賀三郎の這入った人穴というのがあるしに、鬼輸王という兇賊があって、世を瞞すと聞えたので、諏訪の豪勇として聞えた忠頼の子息である三人に、兇賊追討の宜旨が下った。三人は、勅を蒙って、若狭国へ発向したが、中にも、三男の兼家は、勇気ことに勝れていたので、独り突進んで鬼愉王を誅伐した。で、二人の兄は、その功の兼家一人に帰するのを妬み、柑謀って兼家を誘い、遂にこれを深き竜穴に突落し、ひそかに領地へ帰って兼家の高名を奪い、ほしいままにしていた。しかるに、兼家は一旦深き穴の事であったので落下のまま気絶したが、不思議にもやがて蘇生し、月を経て帰国することが出来たのを知って、兄二人は大に驚き恥じ、何処ともなく蓄電したので、兄の所領は、そのままことごとく兼家の所領に帰した。兼家は、その後、承平の乱に東同に下向して軍功あリ、江川半国を加賜せられ、甲賀郡に移り伍み、よって甲賀近江守と称したが、更に伊賀半国を賜わるに至り、千歳、佐那具の郷に紺を造って居城し、近江と伊賀とにまたがる大領を持したと言うことであるのだが、こうした伝説から、甲賀三郎穴入りの怪奇伝説は胚胎されたものであるらしく、俗説に、甲賀三郎即ち諏訪明神という説は、甲賀氏が勢力を仮った時代に、甲賀氏の祖である三郎兼家が、諏訪明神など著名の神社の相殿として祀られたことから靴伝されたものらしく、前述「若狭国神名帳私考」の甲賀三郎伝説などは、甲賀三郎の英雄伝が、近江、信濃、若狭に互りて喧伝せられ、さてそれが伝承の時代に附会の経途にあった代表伝説の一つであると見てよいであろうと思われる。「諏訪明神本地由来記」というものに、「甲賀三郎が蛇国遊井万国に到って其処の遊井万姫に娶いだが、後本国に帰らん意発って出立し、浅間岳の麓なる大沼の地に出た。これ諏訪明神である。遊井万姫、三郎の後を慕い来り、大沼に出でて浅間明神に祝われた。」というように見える縁起は、「武美名方命本地普賢にして即ち甲賀三郎であり、木花開耶姫命本地正観音にして即ち遊井ガ姫である。」という俗縁起を混合附会して、富士浅間の木花間耶姫命の上に及ぼし、富士の人穴を甲賀三郎仏説に結び、更に仁田城四郎忠常に牽強附会せしめたもので、本地普賢菩薩の象と、仁田四郎巨猪に跨る思想とは相通じているとも見ねばならぬ。
要するに、仁田四郎富士人穴征服の伝説、人穴地獄めぐり、の伝説などは、全く後世の捏造で、例の仮名草子「ふじの人穴」物語などは、とるにも足らぬ偽伝説に外ならない。
富士の人穴
富士の人穴は、本来は読んで字のごとく、人間の座臥しもしくは入定した遺跡である。富士裾野の上、二千二百十尺の地にある人穴村の人穴も、実は富士講の開祖といわれる行者角行東覚の入定した遺跡に過ぎぬ。
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