サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

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第二回川中島合戦<甲府市史>
天文二十四年(一五五五)
晴信、信濃川中島で長尾景虎と対戦する(「甲府市史」)

(上略)去程此年七月廿三目、武田晴信公信州へ御馬ヲ被出侯、村上殿・高梨殿、越後守護長尾景虎ヲ奉頼、同景虎モ廿三目
二御馬被出侯而、善光寺二御陣ヲ張被食候、武田殿ハ三十町此方成リ、大塚二御陣ヲ被成侯、善光寺ノ堂主栗田殿ハ旭ノ域二御座候、旭ノ要害へそ武田晴信公人数三千人、サケハリヲイル程ノ弓ヲ八百張、鉄胞三百挺入候、去程二長尾景虎、再次責侯へ共不叶、後ニハ駿河今川義元御扱ニテ和談被成侯、
閏十月十五目、隻方御馬ヲ入被食候、以上二百日ニテ御馬入申侯、去程二人馬ノ労レ無申計侯、(下略)(「勝山記」)

〔解説〕(「甲府市史」)第二回川中島の戦い
 天文二十二年(一五五三)四月、晴信は念願の村上義溝の葛尾城を攻め落し、信濃の大半を掌中にした。村上氏は越後へ逃れ、長尾景虎を頼って、その援助によって、再度、小県郡に復帰していた。これによって長尾景虎との川中島をめぐる争いが始まる。
 天文二十四年七月には、両老が川中島へ出陣し、晴信は大塚に陣を敷いた。景虎も善光寺へ着陣し、十九目には両軍が川中島で対戦した。
 その後、善光寺の堂主であった栗田氏は旭城に籠って景虎を牽制し、晴信は旭城に兵三千人と弓八百張、鉄砲三百挺とを送り込んでいる。両者対陣のまま閏十月に及び、晴信は今川義元に幹旋を頼んで景虎と和睦し、ようやく両者は川中島から兵を引いた。
 これを第二回川中島の戦いという。

 <筆註>武田方の鉄砲三百挺の記事は注目される。

河中島五箇度合戦記 第二回合戦
(その2)

謙信は紺地に日の丸、白地に「毘」の字を書いた旗を二本立て、原の町に備えをととのえ、その合戦が続いた。そのうちに信玄は下知して、犀川に太い綱を幾本も張り渡して、武田の旗本大勢がその綱にすがって向こう岸に上り、芦や雑草の茂った中の細道から、旗差物を伏せしのばせて出て、謙信の旗本にときの声を上げて、にわかに切り込んで来た。そのため、謙信の旗本はいっぺんに敗れ、武田方は勝に乗じて追い討ちをかけて来た。信玄は勇んで旗を進めたところに、大塚村に備えを立てていた越後方の宇佐美駿河守定行のひきいる二千ばかりの軍が、横槍に突きかかり、信玄を御幣川に追い入れた。そこに越後方の渡辺越中守が五百余騎で駆けつけ、信玄の旗本に切ってかかり、宇佐美の軍とはさみうちに討ち取った。武田勢は人も馬も川の水に流されたり、また討ち取られた者も数知れなかった。そのうちに謙信の旗本も戻り、越後方上条弥五郎義清、長尾七郎、元井日向守、沼野掃部、小田切治部、北条丹後守などが信玄の旗本を討ち取った。その他、青川十郎、安田掃部などは御幣川に乗り込み、槍を合わせ太刀で戦い名を上げた。手柄の士も多かった。しかし討ち死にした者も数多かった。
 信玄も三十ばかりの人数で川を渡って引き1げるところを、謙信は川の中に乗り込んで二太刀切りつけた。信玄も太刀を抜いて戦う時、武田の近習の侍が謙信を取り囲んだが、それを切り払った。しかし、なかなか近づけず、信玄も謙信も間が遠くへだてられた。その時、謙信に向かった武田の近習の士を十九人切った謙信の業は、とても人間の振る舞いとは思われず、ただ鬼神のようであったといわれる。謙信とはわからず、甲州方では越後の士荒川伊豆守であろうと噂されていた。後でそれが謙信とわかって、あの時討ち取るベきであったのに残念なことをした、とみなが言ったという。

信玄は御幣川を渡って、生萱山土口の方に向かい、先陣、後陣が一つになって負け戦であった。甲州勢は塩崎の方に逃れる者もあり、海津城に逃げ入った者もあった。
 中条越前が兵糧などを警護していたところ、塩崎の百姓数千がそれを盗みに来たため、中条がこれを切り払った。このためまた、武田、上杉の両軍が入り乱れてさんざんに戦った。両軍に負傷者、死者が多く出た。信玄は戦に敗れて、戸口という山に退いた。上杉勢がこれを追いつめ、そこで甲州方数百を討ち取った。
 信玄の弟、左馬介信繁が七十騎ばかりで、後詰の陣から来て、信玄が負傷したことを聞き、その仇を取ると言って戻って来た。その時、謙信は川の向こうにいた。左馬介は大声で、「そこに引き取り申されたのは、大将謙信と見える。自分は武田左馬介である。兄の仇ゆえ、引き返して勝負されたい」と呼びかけた。謙信は乗り戻って、「自分は謙信の家来の甘糟近江守という者である。貴殿の敵には不足である」と言って、川岸に馬を寄せていた。
待っていた左馬介主従十一人が左右を見ると敵はただ一騎である。信繁も、「一騎で勝負をする、みな後に下っているよう」と真っ先に川に入るところを、謙信は川に馬を乗り入れ、左馬介と切り結んだ。左馬介は運が尽きて打ち落され、川に逆さまに落ち込んだ。謙信は向こうの岸に乗り上げ、宇佐美駿河守が七百余で備えている陣の中に駆け入った。一説には武田左馬介信繁を討ち取った者は村上義清であるともいう。上杉家では、左馬介を討ち取ったのは、謙信自身であったと言い伝えている。甲州では信玄は二か所も深手を負い、信繁は討ち死にしたのである。板垣駿河守、小笠原若狭守も二か所、三か所の負傷で敗軍であった。
 越後勢も旗本を切り崩されて敗軍したが、宇佐美駿河守、渡辺越中守が横槍に入り、信玄の旗本を崩したのに力を得て、甲州勢を追い返して、もとの陣に旗を立て、鶴翼の陣を張ることができた。

 この時の戦
天文二十三年甲寅八月十八日。
夜明けから一日中十七度の合戦があった。
武田方二万六千のうち、負傷者千八百五十九人。戦死者三千二百十六人。越後方は負傷者千九百七十九人、戦死者三千百十七人であった。
十七度の合戦のうち、十一度は謙信の勝、六度は信玄の勝であった。
謙信は旗本を破られたが追い返して、もとの場所に陣を張ることができた。
武田方は信玄が深手を負い、弟の左馬介戦死、板垣、小笠原なども負傷したため、陣を保てず、夜になって陣を解いて引き上げた。

謙信も翌日陣を解き、
十九日には善光寺に逗留して、負傷者を先に帰し、手柄を立て名を上げた軍兵に感状証文を出して、
二十日に善光寺を引き払い、越後に帰陣した。
これが天文二十三年八月十八日の川中島合戦。

第二回川中島合戦<甲府市史>
天文二十四年(一五五五)
晴信、信濃川中島で長尾景虎と対戦する(「甲府市史」)

(上略)去程此年七月廿三目、武田晴信公信州へ御馬ヲ被出侯、村上殿・高梨殿、越後守護長尾景虎ヲ奉頼、同景虎モ廿三目
二御馬被出侯而、善光寺二御陣ヲ張被食候、武田殿ハ三十町此方成リ、大塚二御陣ヲ被成侯、善光寺ノ堂主栗田殿ハ旭ノ域二御座候、旭ノ要害へそ武田晴信公人数三千人、サケハリヲイル程ノ弓ヲ八百張、鉄胞三百挺入候、去程二長尾景虎、再次責侯へ共不叶、後ニハ駿河今川義元御扱ニテ和談被成侯、
閏十月十五目、隻方御馬ヲ入被食候、以上二百日ニテ御馬入申侯、去程二人馬ノ労レ無申計侯、(下略)(「勝山記」)

〔解説〕(「甲府市史」)第二回川中島の戦い
 天文二十二年(一五五三)四月、晴信は念願の村上義溝の葛尾城を攻め落し、信濃の大半を掌中にした。村上氏は越後へ逃れ、長尾景虎を頼って、その援助によって、再度、小県郡に復帰していた。これによって長尾景虎との川中島をめぐる争いが始まる。
 天文二十四年七月には、両老が川中島へ出陣し、晴信は大塚に陣を敷いた。景虎も善光寺へ着陣し、十九目には両軍が川中島で対戦した。
 その後、善光寺の堂主であった栗田氏は旭城に籠って景虎を牽制し、晴信は旭城に兵三千人と弓八百張、鉄砲三百挺とを送り込んでいる。両者対陣のまま閏十月に及び、晴信は今川義元に幹旋を頼んで景虎と和睦し、ようやく両者は川中島から兵を引いた。
 これを第二回川中島の戦いという。

 <筆註>武田方の鉄砲三百挺の記事は注目される。

河中島五箇度合戦記 第二回合戦

 天文二十三年八月初め
謙信は越後を発ち川中島に着き、丹波島に陣を取った。越後の留守居として、謙信の姉婿に当たる上条の城主の上条入道、山浦主水入道、山本寺伊予守、大国主水入道、黒金上野介、色部修理、片貝式部の七人にその勢八千を残した。謙信は川中島に陣を張り、先手は村上義清、二番手は川田対馬守、石川備後守房明、本庄弥次郎繁長、高梨源五郎頼治の四人である。後詰(応援)は柿崎和泉守景家、北条安芸守長朝、毛利上総介広俊、大関阿波守規益の四人である。それに遊軍として、本庄美作守慶秀、斎藤下野守朝信、松川大隅守元長、中条越前守藤資、黒川備前為盛、新発田長敦、杉原壱岐守憲家、上条薩摩守、加地但馬守、鬼小島弥太郎、鬼山吉孫次郎、黒金治部、直江入道、山岸宮内、柏崎日向守、大崎筑前守高清、桃井讃岐守直近、唐崎左馬介、甘糟近江守、神藤出羽介、親光安田伯音守、長井丹後守尚光、烏山因幡守信貞、平賀志摩守頼経、飯盛摂津守、竹股筑後守春満など二十八備え、侍大将が二行に陣を張り、旗を進めた。宇佐美駿河守定行二千余、松本大学、松本内匠介千余は旗本脇備えである。総軍の弓矢奉行をつとめるのは、謙信の姉婿に当たる上田政貴で、飯野景久、古志景信、刈和実景の四人は、みな長尾という同名で謙信の一門である。これで越後勢は合わせて八千である。犀川を越え、綱島丹波島原の町に鶴翼の陣を取った。

 武田晴信も同十五日に川中島を通って、海津城に入り、十六日に人数を繰り出して、東向きに雁行に陣取った。先手は高坂弾正、布施大和守、落合伊勢守、小田切刑部、日向大蔵、室賀出羽介、馬場民部の七組で、七百の勢が先手に旗を立てて進んだ。二番手には真田弾正忠幸隆、保科弾正、市川和泉守、清野常陸介の四人が二千の兵をひきいて続き、後詰は海野常陸介、望月石見守、栗田淡路守、矢代安芸守の四人で二千七百。遊軍は仁科上野介、須田相模守、根津山城守、井上伯音守の五人、四千の軍勢である。これを二行に立てて陣を張り、総弓矢奉行は武田左馬介信繁、小笠原若狭守長詮、板垣駿河守信澄の三人の備えとなった。旗本の先頭は、飯事二郎兵衛昌景、阿止部大炊介信春、七宮将監、大久保内膳、下島内匠、小山田主計、山本勘介、駒沢主祝の八人で、信玄の本陣の左右には、名家の侍の一条信濃守義宗と逸見山城守秀親(信玄の姉婿)が万事を取りしきり、そのほかには下山河内守、南部入道喜雲、飯尾入道浄賀、和賀尾入道、土屋伊勢、浜川入道の六人が二千の兵と陣を敷いた。そして日夜お互いに足軽を出して戦いの誘いをかけたが、なかなか合戦にはならなかった。

 天文二十三年八月十八日 
朝はやく、越後方から草刈りの者二、三十人出し、まだうす暗いうちから駆けまわり、それを見て、甲州の先手の高坂陣から足軽が百人ばかり出て、その草刈りを追いまわした。かねての計略であったので、越後方から村上義清と高梨政頼の足軽大将である小室平九郎、安藤八郎兵衛ら二、三百人の者が夜のうちから道に隠れていて、高坂の足軽ども全部を討ち取った。これを見て、高坂弾正、落合伊勢守、布施山城守、室賀出羽介の陣から百騎あまりの者が大声を上げて足軽勢を追いたてた。そして、上杉方の先手の陣のそばまで押し寄せて来たところを、義清、政頬の両方の軍兵一度にどっと出て、追い討ちをかけ、武田勢百騎を一騎も残さず討ち取ってしまった。そのため、高坂、落合、小田切、布施、室賀などの守りが破れ、元の陣まで退いていった。武田方は先手が負けて退いたてられるのを見て、真田幸隆、保科弾正、清野常陸、市川和泉などが第二陣から出て、勝に乗って追いたてていった上杉勢を追い返して、陣所の木戸口まで迫り、義清、政頼も危なく見えた。この時、二番手から越後方の川田対馬守、石川備後守、高梨源五郎の三隊、そのほか遊軍の中から、新発田尾張守その子因幡守、杉原壱岐守の五隊が二千ばかりの兵と、ときの声をあげて駆け出て、武田勢を追い散らして戦った。そのうち、真田幸隆が傷を受けて退くところを、「上杉方の高梨頼治」と名乗って、真田にむんずと組んで押しふせ、鎧の脇のすきまを二太刀刺した。保科弾正はそれを見て、「真田を討たすな、者どもかかれ」と戦った。真田の家人細谷彦助が、高梨源五郎の草ずりの下をひざの上から打ち落した。つまり主人の仇を取った。これから保科を槍弾正と言うようになったという。保科もその時、越後方の大勢に取りこめられて、危なく見えたが、後詰の海野、望月、矢代、須田、井上、根津、河田、仁科の九人がこれを見て、保科を討たすな、と一度にときの声をあげて、追い散らした。越後の本陣に近いところまで切りかかってきたところ、越後の後詰斎藤下野守朝信、柿崎和泉守景家、北条安芸守、毛利上総介、大関阿波守など三千あまりが切って出て追い返し、押しもどして戦った。この戦いで、敵も味方も、負傷者、戦死者を多く出し、その数は数えきれぬほどであった。
 謙信は紺地に日の丸、白地に「毘」の字を書いた旗を二本立て、原の町に備えをとの川中島古戦場跡にたつ謙信と信玄の像え、その合戦が続いた。そのうちに信玄は下知して、犀川に太い綱を幾本も張り渡して、武田の旗本大勢がその綱にすがって向こう岸に上り、芦や雑草の茂った中の細道から、旗差物を伏せしのばせて出て、謙信の旗本にときの声を上げて、にわかに切り込んで来た。

そのため、謙信の旗本はいっぺんに敗れ、武田方は勝に乗じて追い討ちをかけて来た。信玄は勇んで旗を進めたところに、大塚村に備えを立てていた越後方の宇佐美駿河守定行のひきいる二千ばかりの軍が、横槍に突きかかり、信玄を御幣川に追い入れた。そこに越後方の渡辺越中守が五百余騎で駆けつけ、信玄の旗本に切ってかかり、宇佐美の軍とはさみ義清、政頬も危なく見えた。この時、二番手から越後方の川田対馬守、石川備後守、高梨源五郎の三隊、そのほか遊軍の中から、新発田尾張守その子因幡守、杉原壱岐守の五隊が二千ばかりの兵と、ときの声をあげて駆け出て、武田勢を追い散らして戦った。そのうち、真田幸隆が傷を受けて退くところを、「上杉方の高梨頼治」と名乗って、真田にむんずと組んで押しふせ、鎧の脇のすきまを二太刀刺した。保科弾正はそれを見て、「真田を討たすな、者どもかかれ」と戦った。真田の家人細谷彦助が、高梨源五郎の草ずりの下をひざの上から打ち落した。つまり主人の仇を取った。これから保科を槍弾正と言うようになったという。保科もその時、越後方の大勢に取りこめられて、危なく見えたが、後詰の海野、望月、矢代、須田、井上、根津、河田、仁科の九人がこれを見て、保科を討たすな、と一度にときの声をあげて、追い散らした。越後の本陣に近いところまで切りかかってきたところ、越後の後詰斎藤下野守朝信、柿崎和泉守景家、北条安芸守、毛利上総介、大関阿波守など三千あまりが切って出て追い返し、押しもどして戦った。この戦いで、敵も味方も、負傷者、戦死者を多く出し、その数は数えきれぬほどであった。

 

河中島五箇度合戦記 第一回合戦 
                  
 信州五郡の領主村上左衛門尉義清は、清和源氏伊予守頼義の弟で、陸奥守頼清の子、白河院蔵人顕清が初めて信州に住むようになり、それから四代目の孫に当たる為国、その子基国の後胤である。高梨摂津守政頼も、伊予守頼義の弟井上掃部頭頼季三代の孫に当たる高梨七肺盛光の子孫である。井上河内守清政も高梨の一族。須田相模守親政も一家。島津左京進親久は、頼朝の子島津忠久の子孫に当たって、いずれも信州の名家である。これらの人々が甲州武田信玄に負けてみな越後に落ちのび、長尾景虎(謙信)を頼って来たのでぁる。中でも村上義清は、多年武田と戦っていたが、とうとう負けて、天文二十二年五には月に越後に落ちのび、謙信の力を頼って、自分の領地坂本の城に帰ることができるのを心から望んでいた。
 
 謙信はこの年間二月初めて京都に上った。二十四歳の時である。これは、前の年の天文二十一年五月に、勅使、将軍の使があって、謙信は弾正少弼従五位下(だんじようひようひつじゆごいのげ)に任ぜられた。このお礼のため京都に上ったのである。謙信は京都御所に参り昇殿をゆるされ、後奈良天皇に拝謁し、天盃をいただいた心また将軍義輝公にお目見えして、いろいろねんごろなお言葉を受けて、五月に帰国したところ、六月村上義清が落ちのび、謙信を頼りにした。その上高梨政頼、井上清政、須田親政、島津親久、栗田、清野などがそろって越後を頼り、その助力を願った。それで同年十月十二日、田浜で勢ぞろいをして信州に向かって出発した。
途中、武田についている者どもの領分には火をかけて焼き払い、自分の館にひっこんで手向かいをしない者の領分はそのままかまわずに通り、十一月一日に川中島に陣を取った。
晴信(信玄)も二万の兵をひきいて出陣した。同十九日から二軍の間は四キロ足らずで毎日小競り合いとなった。二十七日に謙信から平賀宗助を使者にして、明日決戦をすることを申し送り、その備えを定め、夜のうちに人数を出した。先手は長尾平八郎、安田掃部、(かもん)それに長尾包四郎、元井日向守((ひゆうがのかみ)清光、同修理進(しゆりのしん)弘景、青河十郎を左右に備えた。左の横槍は諏訪部次郎右衛門行朝、水間掃部頭利宣とし、奇兵は、長尾七郎景宗、臼杵包兵衛、田原左衛門尉(さえもんのじよう)盛頼。二番手は小田切治部(じぷしようゆう)少輔勝貞、荒川伊豆守義遠、山本寺宮千代丸(後の庄蔵行長)、吉江松之助定俊、直江新五郎実綱と定めた。後陣は長尾兵衛尉景盛、北条丹後守長国、斎藤八郎利朝、柿崎和泉守景家、宇佐美駿河守走行、大国修理亮などの面々を七手に分け、四十九備えとしてそれを一手のように組んで円陣を作り、二十八日の夜明けごろから一戦を始めた。武田方も十四段の構えに備え防戦し、敵味方ともに多くの負傷者、戦死者を出した。下米宮橋を中心として、追いつめ、押し返して、昼近くまで合戦の勝負はつかなかった。しかし、越後方は千曲川の橋から上流を乗り越え、武田勢の後方にまわったので、武田方は敗れ、横田源介、武田大坊、板垣三郎など戦死、また駿河から応援に来た朝比奈左京進、武田飛騨守、穴山相模守、半菅善四郎、栗田讃岐、染田三郎左衛門、
帯兼刑部少輔など名のある人々を含んで甲州方の戦死者は五千余りにのぼった。それで十二月三日、京都公方に戦の経過を注進する。大館伊予守が披露する。これが謙信と信玄との戦いの始めである。
そのころ、謙信は長尾弾正少弼( だんじようしようひつ)と号していた。関東管領の上杉憲政は北条氏康に圧迫され、越後に内通し、管領職と上杉の姓、憲政の一字を下されたが、管領職は辞退し、謙信は景虎を改め政虎と名乗るようになった。これは天文二十三年(一五五四)春のことであった。

<武田信玄信濃(長野県)・西上野(群馬県)侵攻表>

甲出―甲府を出る
甲帰―甲府へ帰る

・天文10年(1542)5月25日
海野平の戦<対戦相手、海野棟綱他>甲出5月上旬〜甲帰6月上旬(勝山記)

・天文11年(1542)7月4日
諏訪桑原城<対戦相手、諏訪頼重>甲出4月15日〜甲帰7月9日、(高白斎記)

・天文11年(1542)9月25日
諏訪宮川の戦い<対戦相手、諏訪頼継>甲出9月19日〜甲帰?

・天文11年(1542)9・28
伊那郡福与城<対戦相手、藤沢頼親>前戦より〜甲帰10月下旬

・天文12年(1543)9月17日
小県郡長窪城<対戦相手、大井貞隆>甲出9月9日〜甲帰10月1目

・天文13年(1544〉10月29日
伊那郡福与域<対戦相手、藤沢頼親>甲出10月16日〜甲帰11月9日

・天文14年(1545)4月17日
伊那郡高遠城(対戦相手、高遠頼継)甲出4月11日〜

・天文14年(1545)6月7日
伊那郡福与城<対戦相手、藤沢頼継>甲出?〜甲帰6月17日

・天文15年(1546)5月20日
佐久郡内山城<対戦相手、大井貞清>甲出5月3日〜甲帰6月上旬

・天文15年(1546)10月6日
笛吹峠の戦<対戦相手、上杉憲政>甲出10月4日〜甲帰?

・天文16年(1547)8月6日
佐久郡小田井の戦い<対戦相手、上杉憲政>7月13日〜

・天文16年(1547)7月11日
佐久郡志賀城<対戦相手、笠原清繁>〜甲帰8月22日

・天文17年(1548)2月14日
小県郡上田原の戦い<対戦相手、村上義清>甲出2月1日〜甲帰3月26日

・天文17年(1548)7月19日
塩尻峠の戦い<対戦相手、小笠原長時>甲出7月17日〜?

・天文17年(1548)9月11日
佐久郡前山城<対戦相手、不詳>甲出?〜10月下旬

・天文18年(1549)8月〜9月
佐久郡平原城<対戦相手、平林氏>7月1日〜9月21日

・天文19年(1550)7月15日
筑摩郡林城<対戦相手、小笠原長時>甲出7月3日〜

・天文19年(1550)10月1日
小県郡戸石城<対戦相手、村上清義>〜甲帰10月7日

・天文20年(1551)7月9日
佐久郡岩尾城<対戦相手、岩尾弾正>甲出7月2日〜甲帰7月25日

・天文20年(1551)9月20日
佐久郡内山城<対戦相手、大井左衛門>甲出7月1日〜甲帰9月23日

・天文20年(1551)10月24日
安曇郡平瀬城<対戦相手、村上義清>甲出10月15日〜甲帰11月21日

・天文21年(1552)8月21日
安曇郡小岩岳城<対戦相手、小岩缶氏>甲出8月1日〜甲帰8月25日

・天文22年(1553)4月9日
壇科郡葛尾一城<対戦相手、村上義清>甲出3月23日〜甲帰5月11日

・天文22年(1553)8月5日
小県郡塩田城<対戦相手、村上義清>甲出7月25日〜

・天文22年(1553)9月〜10月
第一回川中島の戦い<対戦相手、長尾景虎>〜甲帰10月17日

・天文23年(1554)8月6日
佐久郡九ヶ城<対戦相手、小暮氏他>甲出7月24日〜

・天文23年(1554)8月
下伊那郡知久<対戦相手、知久氏>甲出?〜甲帰8月下旬?

・天文24年(1555)7月19日
第二回川中島合戦<対戦相手、長尾景虎>甲出4月23日〜

・天文24年(1555)8月
木曽福島城<対戦相手、木曽義康・義昌>〜甲帰閏10月15日

・弘治3年(1557)2月15日
水内郡葛山城<対戦相手、葛山衆>甲出4月下旬
6月、信玄「市川文書」発給

・弘治3年(1557)7月5日
安曇郡小谷城<対戦相手、葛山衆>

・弘治3年(1557)8月
第三回川中島合戦<対戦相手、長尾景虎>〜甲帰10月?

・永禄4年(1561)9月10日
第四回川中島合戦<対戦相手、上杉政虎>甲出8月18日〜甲帰9月下旬

・永禄4年(1561)11月
上野国峰城他<対戦相手、小幡氏他>甲出11月下旬〜甲帰、富生

・永禄5年(1562)9月
上野箕輪城他<対戦相手、長野業盛他>甲出9月〜?

・永禄6年(1563)2月4日
上野箕輪城<対戦相手、上田氏>甲出11月〜甲帰、翌年2月

・永禄7年(1564)3月18日
信濃水内郡野尻城<対戦相手、不詳>甲出3月〜甲帰?

・永禄7年(1564)5月
西上野出兵<対戦相手、不詳>甲出5月〜甲帰不詳

・永禄7年(1564)10月
第五回川中島合戦<対戦相手、上杉政虎>甲出8月上旬〜甲帰10月上旬

・永禄8年(1565)6月
上野倉賀野城<対戦相手、倉賀野氏>甲出5月中旬〜甲帰不詳

・永禄9年(1566)9月29日
上野箕輪城<対戦相手、長野業盛>甲出閏8月〜甲帰不詳

・永禄11年(1568)7月10日
水内郡飯山城<対戦相手、不詳>甲出5月〜甲帰、不詳

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