サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

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 お前と私
 私とお前
 君と僕
 僕と君
 ともに枯れてしまったね。
 私はこんな姿で生きていけないと思ってた

 私の体の中は腐ってしまった。
 呼吸ができない
 そこへ虫が

 私は枯れたくないあなた
 俺だって何で枯れなきゃならないんだ

 どうせ枯れるなら自然のままで
 どうせ枯れるなら普通の松として

 いっしょに枯れて
 いっしょに虫に食われ
 いっしょに切断されて
 いっしょに焼却場へ

 夫婦松はこうして枯れていく
 でもいまならまだ救えるか
 誰も来ない
 だれも勇気付けてくれない

 私たちは夫婦松
 生まれた時もいっしょ
 枯れて死ぬときもいっしょ

 私はその場から離れずに数時間を過ごした
救えないつらさ無能さに打ちひしがれて
 
 ごめんね。救えなくて
 ごめんね枯らしてしまって
 ごめんね
 ごめんね
 本当に申し訳ない
 本当に

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 山梨県の文化財や歴史遺物や遺構の保存状況は必ずしも良好ではない。特にこうした朝鮮関係のものについては、民族問題も絡んで、特に痛みや破損崩壊状況が著しい。
 歴史文化財では、甲府城に巨大な建物があったなどと、また復元費用が嵩むことを臨時手いる。甲府城など日本一の積み石落書城で特に有名である。手の届く石や上って行けるところの石などすべて落書きされている。管理や訪客のレベルの低さの現われでもある。
 この石垣は工事途中で大量紛失してsまった。あんな重い石が素人では動かし運べるはずがない、当時県議会でも大問題になり、その調査の中で、静岡の掛川城の石垣にに使用されているという辞令が示された。
 私も数度訪れ比べたが、DNA検査ではないが、同質の石と思われる。掛川城は武田信玄が攻めたときに、馬場美濃守信房が縄張り築城したものが後世江戸幕府からの派遣者が城代となった。現在でも甲州流の三日月堀は現存している。また昨年は山内一豊の後風林火山のテーマパークを設けていた。山本勘助などに何の関係もないのに。
 そしてこうした問題は限りなく黒に近い灰色で政治決着あした。
 紛失した石について、歴史家は口を噤んで語らず、そして今度高層物があったなどの見解を示す。そんなこおてゃどうでもよい。現在は信玄公祭りで、甲府城は信玄が築城したとの考えが浸透してきている。24将など江戸の浮世絵の産物を歴史に蘇らせ、架空の勘助に知行地まで与え、有名な神社の刊行物として発行した。
 北杜市高根の某家に勘助の墓があるなどの明治以降の伝承を、歴史に祭り上げた歴史大家の責任は重いし、それを調べもしないで、テレビに乗って歴史観光の目玉にしてしまう行政感覚の低レベルでは、到底こうした貴重な古墳群などただの石ころ扱いである。

 歴史と観光これを両立するには、山梨県のように県民を同居させない状況では無理である。観光とはパンフレット観光でなく、県民の中に息づくことが大切である。
 
 さて横根桜井古墳群について辞典を紐解くと、

横根・桜井積石塚古墳群(「山梨県の地名」 日本歴史地名大系19 平凡社)
甲府市横根町・桜井町

 甲府市の東端、八人山南東斜面と大蔵経寺山の南西斜面上、およびその問を流れる大山沢川によって開析された南面傾斜上、標高290メートル付近から450メートル付近にわたって展開する積石塚古墳群。昭和58年(1983)分布調査が実施され、全体では142基の積石塚が確認された。その後さらに3基確認され、現在145基を数える。調査結果ではすべて円墳であり、墳丘径6〜8メートルを測るものがほとんどである。石室形態
としては竪穴式石室と横穴式石室があり、後者が主体を占める。
古墳群は分布によって四支群に分けられる。横根支群は八人山南東斜面から大山沢川によって形成された小規模な扇状地状の地形上に分布する。総数107基を数え、当古墳群の総数の約四分の三を占める。標高290メートルから460メートル付近までの広範囲に広がりをみせ、290メートル付近から350メートル付近にかけての大山沢川両岸に最も密集している。
 そのうち39号墳は昭和五九年に積石塚の成因調査を行うために発掘調査が行われた。墳丘径9,8メートル、高さ2メートルほどの大型の円墳で、内部主体は主軸の長さ6,4メートル、幅1メートルの狭長な無袖形の横穴式石室を採用。
遺物としては土師器のほかガラス小玉・鉄鐵・刀子・馬の歯などが出土している。六世紀中頃の築造と考えられる。
 桜井内山支群は大山沢川によって形成された小扇状地から大蔵経寺山南西斜面にかけて広く分布する。標高310メートル付近から430メートル付近までに総数11基が広く散漫に分布している。そのうち9号墳は農道建設に先立って昭和60年に発掘調査が行われた。墳丘窪9,5メートル、高さ1,5メートルの円墳で、主体部は竪穴系の小石室。出土遺物としては土師器・須恵器のほか金環・人骨などが発見されている。七世紀後半代
の築造と考えられ、単次埋葬への移行期後の所産であると考えられる。

 桜井西支群は大蔵経寺山南西斜面、標高290メートル付近から410メートル付近に24基確認された。東西にはさほど広がらず、南北に長く広がりをみせる。1号墳からはかつて珠文鏡と勾玉が採集されている。桜井東支群は大蔵経寺山南斜面、標高290メートル付近から320メートル付近にかけて分布する3基からなる。
当古墳群の初現は、発掘調査の成果からは6世紀中葉頃と考えられるが、桜井支群1号墳より採集された珠文鏡および勾玉から5世紀代にさかのぼる可能性も指摘されている。
被葬者については、その起源を朝鮮半島に求める被葬者渡来人説と古墳の構築された周辺には礫が豊富に認められることから環境に求める自然環境自生説とがあり、結論には至っていない。

大坪遺跡(「山梨県の地名」 日本歴史地名大系19 平凡社)
甲府市横根町・桜井町

 大山沢川の扇状地扇端部から十郎川の沖積地に位置する奈良・平安時代を主体とした土師器生産に関係した集落跡。昭和50年(1975)と同57年、平成6年(1994)に発掘調査が行われている。昭和50年の調査では土師器集積遺構やV字溝が検出された。とくに多量の土師器と生焼成上器の出⊥から、土師器の生産遺跡であることが判明した。同57年の調査では土師器集積遺構と河川跡が発見されている。河川跡の多量に廃棄された土師
器や木製品のなかから「甲斐国山梨郡表門」と刻書された土師器皿が出土したことは注目される。その整形手法より9世紀末から10世紀初頭の時期に比定され、県内で最古の国・郡・郷の地名の記された資料である。またこの土器が当遺跡で製作され、不良品として廃棄されたことから、刻書の文字もこの地で書かれ、当地域一帯が「和名抄」に記載された山梨郡表門(うわど)郷であることが明らかにされた。「和名抄」記載の郷名がその推定地から出土した点で、文献史料と考古資料の一致したきわめて貴重な例である。平成6年の調査では竪穴住居跡・掘立柱建物跡・溝状遺構・水田状遺構・土器埋納遺構などが検出された。
 掘立柱建物跡は土器製作にかかわる工房跡の可能性も指摘されている。当地域一帯は良質の粘土の産地でもあり九古代の瓦窯跡関係の遺跡にも近撞していることから、甲斐型土器を中心とする土器生産体制を究明するうえで重要な遺跡である。

とある。
 
 現在付近では、河川改修が行われている。また南方はぶどう園が開けている。
 未払いもよく、上方に行けば富士山もよく見える。今回山林火災の大蔵経師寺山のふもとに位置している。
 

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