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○ 信玄堤対岸の惨状
しからば‥…信玄堤対岸の西郡は、どうであったろうか。この疑問を解明することが、西郡歴史のすべてであると断言してはばからない。
堤防を築くに、片方のみを特に堅固にすれば、片方が弱く破られるのは理である。信玄堤築工後の釜無川は、もっぱら西郡地方に向かって激流が、ほしいままであったと考える。
右岸の西郡は氾濫によって、流亡、埋没、移住、閉村、逃避が起こり、左岸は新居、新田、開村が始まった。
昭和町、田富町などに、○○新居、○○新田、○○河原などの集落があるのをみてもわかる。
それにひきかえ、西郡には、行方不明集落「高田新田」、遠く北巨摩郡須玉町に移住した「大豆生田(まめおだ)」があり、隣村に移住した集落は、十指にあまる。
口碑による「昔にあったそうだ。昔あったといわれている」伝説的な集落も、八田村に二つ、甲西町に二つある。
中郡(釜無川左岸)に新村がぞくぞくと、立てられてゆくのに、西郡(釜無川右岸)の村々は、隣村に居候するわけであるから、肩身がせまい。
上高砂村は、野牛島に移ったが、565石3斗1升6合の石高であったものが、十分の一の51石4斗5升になってしまった。
築堤するという噂当時から高砂、徳永、今諏訪の人達は身の危険を察知して逃避するしかない。村から出る時は、届けを出して出掛けたという。江戸時代となると上の指図がないと動けない。
(甲西町宮沢村参照)
信玄橋上に立って、西の御勅使川扇状地側浸蝕崖を眺める時、この断崖ぶりはどうであろうか、信玄堤以前は、なだらかに東方に向かって傾斜をなしてその突端の一ケ所に、高砂村は営みがあったものが、信玄堤以後は激流のなすがままとなって、西に逃れるしかない。
刑沢村餓死百姓之覚 (和)(市川文蔵家蔵)餓死百姓覚、
五右衛門、惣右衛門、久左衛門、吉右衛門、左次衛門、半之丞、与兵衛、左次兵衛、太良左衛門、七左衛門、六左衛門、甚之丞、太右衛門、利兵衛、六兵衛、八左衛門、金左衛門、三右衛門、善右衛門、丹之助、半兵衛、猪左衛門、源兵衛、太良兵衛、忠兵衛、庄左衛門十右衛門、源左衛門、金右衛門
みぎ之者共当分餓死百姓ニ紛無御座候。為其連判仕差上ケ申候。以上。
東十二月 刑沢村連判書覚
<清水、註>
(私も偶然甲西中学校の立替工事に木材を収めることがあり、その時頼んで工事現場を見学した。すると3メートルくらいの地下に中世の土器が砂礫に挟まっていた)。
そして多量の土砂は、下流をも一変させてしまった。それが為に今諏訪、鏡中条、藤田、浅原、東西南湖、和泉、戸田、宮沢、井尻、大豆生田は、移住を余儀なくされた。
移住と一口にいっても、個人の自由や、権利を認めない封建時代のことである、大変な経済的な負担と、苦い思いであったろう。(この時代であろうか、甲西町誌の史料編に『餓死百姓』の連名が載っている。餓死したのではなく、差別的呼び名)みな信玄堤の為である。
ここら辺も、失笑を買うところであるが、断固として進む。専門書にも突っ込めない点があるようで、ただ「御勅使(みだい)川(がわ)扇状地侵食崖」という地学上の呼び名で止まっている。(中略)
龍王村史には、
「天文時代までは(1532〜1544)、各河川ともに、堤防の設備はなく、流れるままに放任して、大自然の前には、手の施し様もなかった」とある。
堤防を築くということは画期的なことで、当時、どこにでも堤防があったわけではなく、信玄堤によってはじめて水を制したようである。日本最古の堤防は、一千余年前からのようだが、大川に築いた甲州の堤防は、信玄堤が最初であった。
釜無川の東堤が最初であったならば、高砂村側の西堤は無かったわけで、これから、右岸、左岸の利害は、逆転してゆく。
歴史が逆転消滅し、事実が逆転消滅する。やがて、砂礫地であった地に、美田が生まれ、承応、慶安の頃(1648〜1654)には、新田5、6万石を開かれている。
やがて、左岸は龍王より今福新田に至る、一道の流れになった。その流れは今も変わらないと「国志」は言う。
又、釜無川からは、良水を引いて村毎に縦横に潅漑して、林や薮がなくなり、ことごとく沃野となった。百姓その利を受けて、租税が多くなったと説く。
下流については、最近は、川の瀬が高くなって、下流の村々は、雨が降ると水が逆流して、湖のようになる。民家のかまどから、蛙が飛び出したり、苗は全部駄目になる、そういうことが10年に5、6度はある、だから秋には全く収穫することが出来ないという。
専門史書は、ひたすら甲州を水魔から救った「信玄堤」であると説くが、甲州とは、どこのことであろうか。一人として対岸の西郡の有様を説かない。若干の説明が見られるが、真剣に核心を突かない。大雨が降れば、囲炉裏から蛙が飛び出した位のものである。
そして……西郡は激変し、富田落城という事実も泥中に埋まって富んだ村の「富田」が、ただ語呂の合う「戸田」 になった。
中郡には「救いの信玄堤」であり、西郡には「うらみの信玄堤」となった。 富田が戸田になり、一人減り、二人減り次第に美田が泥治地となっていった。戸田の識者で古老の西海鉄造翁によると、戸田村は、「国志」記述には80戸とあるが、永い年月の続く水害によって、41戸減り、39戸となったという。どこかにいってしまった。明治の大水害なども原因となった。
(甲府空襲の時、逃げるあてのない家族が、昔うちは西郡のとだという所から来たと聞いているといって、西郡に逃げたという話がある)
今は、分家又は入村があって、80戸を越えている。(中略)
「信玄は、甲斐源氏の嫡流に生まれ、戦国時代の群雄を駆って、甲州・信州・駿州・遠州・三河、の5国の大守となり、武威を四隣に奮った英雄である。その用兵、戦術、治水、安民の法は共に古今に絶倫し、後世兵法家として、又民政家として尊敬せられた」という。
○ 信玄堤と釜無川右岸
<粘土おたかやん>
戦国の英雄としての偉大さに、誰もが敬服するけれど、「信玄堤」に限っては、西郡の者は、よく考えたいと、思っている。
信玄の治水をほめるあまり、西堤を守ったという物語がない。田富町の「粘土、おたかやん」(民謡に残る)はもっぱら東堤だけであった。
今は、両岸は大堤防となって (内務省堤防)びくともしない。この西堤防の築造工事に、出労して小遣い取りができたという、若草町鏡中条の八十歳の方と、野良で話し合った。
「たっちゃがりの頃でねえ」15、6歳の時、トロッコを押したという。大正末期から昭和初期であった。
これが今の西堤防である。
では、その前はどうであったか。
「めえ−はちいせえものだった」という。
又、別の方の話では、関東大震災(大正12年・1932)液化現象が起きて、堤防は無くなって、河と同じに。前は、申し訳のような小堤防であったが、大要で無くなってしまった。大正12年以後に、やっと大境防が出来上がった。
大震災の時の模様を「郷土研究、こうさい」によると、
「(略)大正12年9月の関東大震災を身を以って体験された方はまだ多くおられるが、これと 時を同じくして東南湖区(甲西町)は、釜無川の堤防決壊に依り大水害に見舞われました。当時私は小学校左生で、小舟に乗って通学したことを覚えている。何日かたって堤防が締め切られ、水が引けた眼の前に広がったのは、一面見渡すかぎりの砂礫の原でした」
(小舟は大小二つ、東南湖区長久寺に保存されている)
さて、東堤はどうであったか。田富町毒には、明治18年に大水害があって、これによって、築堤工事が行われた。
この時、登場するのが、美人で、美声の、「粘土おたかやん」である。
○「うらみの信玄堤」
釜無川両岸は、水の恩沢によって生き、又、水の悪魔によって死した歴史を持ち続けて来たが天文年間より、利害は逆転し、信玄堤築造以後大正期まで小堤で放置され、西郡の人達は逃げまわるのみであった。
「うらみの信玄堤」と声を大にして叫ばねばならぬ。
いまは「信玄堤」として、確固たる知名度を持って善政の象徴とされているが、やはり後世の者の英雄への讃美な発想であって、この辺のことも識者から知りたいものである。時代は物事を整理しながら、善玉だけを、強調して、後世には脚色した美的なものを残す風があるので、良く注意したいものである。
神様などには到底なるはずもない悪玉でも、時が流れると、神社にまつられて、崇敬を集めたりする。
信玄堤は、甲斐の国の救世主であるとする定説は間違いのない、不動のものであろうか。
県土の安定繁栄は、信玄堤によるものとする定説に至るまでには、その影にあって「害」と「罪」を一手に受けて、ひたすら沈黙し続けて来た対岸の村々をしっかり見つめてもらいたい。
敗者側の堤防は、勝者側より高くてはならない掟は、往時はあった。築堤も勝者側から始める。敗者側は勝者側が終らないと始めてはならない。敗者側は低くする事。これは戦国の常道であった。
信玄堤築工当時は、絶大な権力の武田家に抗す術とてなく、西郡はただ高所に逃げるしかない。高所の無い村々では、無言のまま流され、埋没し、消滅していった。(略)
推測、推定、推考、推察などは仮説の域を出ない。信玄堤に関し、西郡人の仮説が許されるならば、失笑、嘆笑をおそれずに、信玄堤は、父信虎の発想着工であった。
信玄堤とは永正12年秋、信虎終生の痛恨時であった「深田に馬を騎り入れた」大井合戦(椿城ではない)の惨敗によって発想された「水攻め」による大井庄壊滅施設であったと思いたい。計画通り大井一族は滅却し、娘を差し出し(大井夫人)大井の歴史はやがて終る。結果的に、徳川の世となってから、甲府、中郡は豊かになっていった。
○ 妙法寺記
なお妙法寺記を追ってみると、
一、永正十二年 「深田ニ馬ヲ騎入レ」信虎惨敗
一、同 十三年 「未ダ大井殿卜御屋形様ノ取合弥強盛也」
一、同 十七年 「此年夏当国大炊(大井)殿ヲ屋形ヨリ責給ヘバ負ケテ大炊殿ハ降参メサルル也」(略)
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