サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

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 私はこのケヤキの生き様が好きで、たまたま訪れる。寺の横の神社境内のケヤキも生命力がほとばしっている。一方山梨県北杜市の国や県の文化財指定天然記念物は、行き過ぎた保存事業が多く、これが要因となった枯れ死も出ている。自然の力を無視して行った補助事業は結果から見て大きな反省を促したい。
 特にウレタン注入は、ウレタンと腐食箇所の隙間水分が増加してそれが腐食増進の一因となっている。
 これまで治療をした「舞鶴の松」・「遠照寺の鶴亀松の2本」・「根古屋のケヤキ2本」。「神田の桜」は一概には言えないが過剰表層保存と私は考える。自然治癒力を抑え表装や見た目を意識したウレタン注入表面塗装は、本来の保存事業を逸脱している。比類のない樹木はそれなりの生命力を持っている。保存事業でできることは自然力を活かす行為が望まれる。
 また文化財指定が切れた途端に、ゴミ扱いも情けない。文化財は枯れて虫に食われても文化財である。私はいま二本の松の復活を目指して日夜活動している。見違えるほどの樹木は生きていたときより輝く期を増している。生きた年数はそれが文化財なのである。

 末尾の一枚が、国指定天然記念物「根古屋のケヤキ」の一本。ねずみ色部分が保存事業のウレタン外部塗装部分。

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 私は仕事柄山地を歩きさまざまな現象に出会う。ごみが満載の植林地や竹薮。それはもう手がつかに地域もある。私たちを含め、老人が多くなり若い人も見向きもしない里山森林はすでに限界を超えている。また最近は身近な場所の清掃さえ行政に頼りがちで、道路周辺のゴミの散乱は恥ずかしい。いくら富士山の美化などうたっても、たとえば富士川の沿線を歩けばそのゴミの散乱振りには驚く、しかしこれは町内美化とかボランテイア活動では危険である。
 南巨摩郡のある場所では、黙認の中で大量のゴミが小河川に捨てられ常習化している地域さえある。農機具・家裁道具・建築廃材・中には農薬・医療器具なども見えた。
 こうした地域の山林はもはや森林の形態をなしていない。また放置が家屋周辺の竹の増殖を産んで、その拡大が植林桧や杉林と同居して無残な姿を晒している。また流露を失った水がさまよう森林は猪の格好の遊び場と化していた。また桧などは倒れすでに腐食しているものある。
 これについては後述する。

 行政も目に見える道路やダムなどをつくる。しかし私たちふるさとにかかわることが少なくなる中で放置森林や放置竹薮も比例して増加していく。新しい道路は、人々が山地に入ることを拒んでいるように見える。便利になればなるだけ危険も増していく皮肉現象を捕らえたらよいのだろうか。
 誰も近寄らない里山や田畑は日ごとに荒地になり、やがて崩壊していく。私たちのできることとはなにか。行政も将来を見据えてこれ以上の過大な工事は差し控える時期に来ている。

 ”荒れた里山にはゴミがよく似合う”

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 私は仕事柄山地を歩きさまざまな現象に出会う。ごみが満載の植林地や竹薮。それはもう手がつかに地域もある。私たちを含め、老人が多くなり若い人も見向きもしない里山森林はすでに限界を超えている。また最近は身近な場所の清掃さえ行政に頼りがちで、道路周辺のゴミの散乱は恥ずかしい。いくら富士山の美化などうたっても、たとえば富士川の沿線を歩けばそのゴミの散乱振りには驚く、しかしこれは町内美化とかボランテイア活動では危険である。
 南巨摩郡のある場所では、黙認の中で大量のゴミが小河川に捨てられ常習化している地域さえある。農機具・家裁道具・建築廃材・中には農薬・医療器具なども見えた。
 こうした地域の山林はもはや森林の形態をなしていない。また放置が家屋周辺の竹の増殖を産んで、その拡大が植林桧や杉林と同居して無残な姿を晒している。また流露を失った水がさまよう森林は猪の格好の遊び場と化していた。また桧などは倒れすでに腐食しているものある。
 これについては後述する。

 行政も目に見える道路やダムなどをつくる。しかし私たちふるさとにかかわることが少なくなる中で放置森林や放置竹薮も比例して増加していく。新しい道路は、人々が山地に入ることを拒んでいるように見える。便利になればなるだけ危険も増していく皮肉現象を捕らえたらよいのだろうか。
 誰も近寄らない里山や田畑は日ごとに荒地になり、やがて崩壊していく。私たちのできることとはなにか。行政も将来を見据えてこれ以上の過大な工事は差し控える時期に来ている。

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 今朝早く現場にとんだ。ここは何回も通過していて、上下に道が走る場所である。崩壊したのは下の道路であるが、上の道もそう離れていない。また岩盤が複雑であり、しかも大きな樹木が吊るさっている危険な地域である。手前には富士川クラフトパークもあり、昔は賑って、私も昨年関東の福祉関係のイベントの折に講師として参加した帰りに、早川町に行った。その岐路もここを通っていた。
 こうした切り立った掘削開閉道路の場合、斜面の上部平地がギリギリの場所に樹木があると、今回のように土砂を巻き込んで崩れることが多い。樹木は生長して枝を張ると、自重を根が支えきれない場合が多く見られ、山梨県ではこうした類似地点は枚挙に暇が無い。
 また樹木が腐ってくると、養分を上げていた根が地盤から剥離して、隙間に水分や氷が張り、それでも樹木が倒れることも多い。
 南巨摩郡の山河地帯や河川両岸には、崩落寸前の樹木が多く、さらに竹が植林地に増殖して、これも深刻な問題となる。いわゆる「限界森林」や「限界里山」が山梨県に急増している事実を真剣に考える時期に来ていることだけは間違いない。
 今回の土砂崩れは起こるべくして起こったことで、これを契機に多くの危険地帯の点検整備が求められる。新聞では一部地盤の水分過多のような話が載っていたが、ここは高台で、下には河川があり、急傾斜地であるから、水分は非常に少ない場所である。

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 参考文献をみていただきたい。こうした研究書には多くの歴史学者は否定的である。自説・仲間説・学閥説以外は無視する傾向が強い。しかし山梨県を代表する施設で展開するには情報が偏っている。「信玄賛歌」に満ち溢れていて、釜無川の全体における信玄堤を見ていない。釜無川は古来から暴れ川であり、多くの災害に遭遇している。上流でもさまざまな対策が採られ、多くの赤松なども植えられた。元来釜無川は、南アルプスから多くの河川が釜無川に流れ込み、隙があれば甲府地域に流れ込む、しかしこれは荒川の流れが遮り交差して釜無川に流れ込むという複雑な状況になっていた。sこでもっとも弱い箇所が「信玄堤」の場所であった。しかしここに堤防を築いたおかげで対岸の悲劇が始まった。その地は穴山家が領有している地域で、こうした信玄の施策が、後世の穴山梅雪の反逆行為に繋がった可能性も窺える。

 (『武田意外史』


第八章 うらみの信玄堤(『武田意外史』古屋兼雄氏著1994刊)(一部追加)
 こうした汗と苦心の作は、あまり人に読まれない。

釜無川左岸、龍王町の「信玄堤」信玄堤遠望

 ( 昭和町に「フジカラープラザ」がある。この会社が、昭和五十一年に、公害防止の「汚水処理施設」を工事中、思わぬことがあった。四メートル掘り下げたところ、横たわる二本の大木に突き当たったのである。
 この大木は、根回り二メートル、長さ七メートル、樹種は不明というほかはないが、形態は完全で、周囲の深さ三センチ位は指でポロポロとはがれるけれど、その奥は固かった。こんな大木が、平地の昭和町の面積三十平方メートルの、四メートル下から二本も出て来たのである。
推考するに、これは信玄堤築工当時よりさらに以前に、山の崩壊によって、現在地に流れつき横たわったものと思われる。それより土砂の堆積は年々続き、四メートルの堆積をみたと思われる。三十平方メートルから、二本の計算をするならば、おびただしい数の流木が、甲府盆地帯に横たわっていると言える。
この書によって、大古の河川の氾濫が偲ばれて、慄然とするものがある。現在の中郷(なかごうり)漫々たる砂川原であったとすることは、確固たることのようである。

 しからば‥…信玄堤対岸の西郡は、どうであったろうか。この疑問を解明することが、西郡歴史のすべてであると断言してはばからない。
 堤防を築くに、片方のみを特に堅固にすれば、片方が弱く破られるのは理である。信玄堤築工後の釜無川は、もっぱら西郡地方に向かって激流が、ほしいままであったと考える。
 右岸の西郡は氾濫によって、流亡、埋没、移住、閉村、逃避が起こり、左岸は新居、新田、開村が始まった。
 昭和町、田富町などに、○○新居、○○新田、○○河原などの集落があるのをみてもわかる。
 それにひきかえ、西郡には、行方不明集落「高田新田」、遠く北巨摩郡須玉町に移住した「大豆生田(まめおだ)」があり、隣村に移住した集落は、十指にあまる。
 口碑による「昔にあったそうだ。昔あったといわれている」伝説的な集落も、八田村に二つ、甲西町に二つある。
 中郡に新村がぞくぞくと、立てられてゆくのに、西郡の村々は、隣村に居候するわけであるから、肩身がせまい。
 上高砂村は、野牛島に移ったが、五百六十五石三斗一升六合の石高であったものが、十分の一の五十一石四斗五升になってしまった。(これを、ある書には、誤記では……などとあるが、如何なものか)
 築堤するという噂当時から高砂、徳永、今諏訪の人達は身の危険を察知して逃避するしかない。村から出る時は、届けを出して出掛けたという。江戸時代となると上の指図がないと動けない。
(甲西町宮沢村参照)
 信玄橋上に立って、西の御勅使川扇状地側浸蝕崖を眺める時、この断崖ぶりはどうであろうか、信玄堤以前は、なだらかに東方に向かって傾斜をなしてその突端の一ケ所に、高砂村は営みがあったものが、信玄堤以後は激流のなすがままとなって、西に逃れるしかない。
 刑沢村餓死百姓之覚 (和)(市川文蔵家蔵)
  餓死百姓覚、 五右衛門、惣右衛門、久左衛門、吉右衛門、左次衛門、半之丞、与兵衛、左次兵衛、太良左衛門、七左衛門、六左衛門、甚之丞、太右衛門、利兵衛、六兵衛、八左衛門、金左衛門、三右衛門、善右衛門、丹之助、半兵衛、猪左衛門、源兵衛、太良兵衛、忠兵衛、庄左衛門十右衛門、源左衛門、金右衛門
みぎ之者共当分餓死百姓ニ紛無御座候。為其連判仕差上ケ申候。以上。
  東十二月 刑沢村連判書覚
 <私註>
 (私も偶然甲西中学校の立替工事に木材を収めることがあり、その時頼んで工事現場を見学した。すると3メートルくらいの地下に中世の土器が砂礫に挟まっていた)。
  
そして多量の土砂は、下流をも一変させてしまった。それが為に今諏訪、鏡中条、藤田、浅原、東西南湖、和泉、戸田、宮沢、井尻、大豆生田は、移住を余儀なくされた。
 移住と一口にいっても、個人の自由や、権利を認めない封建時代のことである、大変な経済的な負担と、苦い思いであったろう。(この時代であろうか、甲西町誌の史料編に『餓死百姓』の連名が載っている。餓死したのではなく、差別的呼び名)みな信玄堤の為である。
 ここら辺も、失笑を買うところであるが、断固として進む。専門書にも突っ込めない点があるようで、ただ「御勅使(みだい)川(がわ)扇状地侵食崖」という地学上の呼び名で止まっている。(中略)
 龍王村史には、
  「天文時代までは(1532〜1544)、各河川ともに、堤防の設備はなく、流るる侭に放任して、大自然の前には、手の施し様もなかった」とある。
 堤防を築くということは画期的なことで、当時、どこにでも堤防があったわけではなく、信玄堤によってはじめて水を制したようである。日本最古の堤防は、一千余年前からのようだが、大川に築いた甲州の堤防は、信玄堤が最初であった。
 釜無川の東堤が最初であったならば、高砂村側の西堤は無かったわけで、これから、右岸、左岸の利害は、逆転してゆく。
 歴史が逆転消滅し、事実が逆転消滅する。やがて、砂礫地であった地に、美田が生まれ、承応、慶安の頃(1648〜1654)には、新田五、六万石を開かれている。
 やがて、左岸は龍王より今福新田に至る、一道の流れになった。その流れは今も変わらないと「国志」は言う。
 又、釜無川からは、良水を引いて村毎に縦横に潅漑して、林や薮がなくなり、ことごとく沃野となった。百姓その利を受けて、租税が多くなったと説く。
 下流については、最近は、川の瀬が高くなって、下流の村々は、雨が降ると水が逆流して、湖のようになる。民家のかまどから、蛙が飛び出したり、苗は全部駄目になる、そういうことが十年に五、六度はある、だから秋には全く収穫することが出来ないという。
 専門史書は、ひたすら甲州を水魔から救った「信玄堤」であると説くが、甲州とは、どこのことであろうか。一人として対岸の西郡の有様を説かない。若干の説明が見られるが、真剣に核心を突かない。大雨が降れば、囲炉裏から蛙が飛び出した位のものである。
 そして……西郡は激変し、富田落城という事実も泥中に埋まって富んだ村の「富田」が、ただ語呂の合う「戸田」 になった。
 中郡には「救いの信玄堤」であり、西郡には「うらみの信玄堤」となった。 富田が戸田になり、一人減り、二人減り次第に美田が泥治地となっていった。戸田の識者で古老の西海鉄造翁によると、戸田村は、「国志」記述には八十戸とあるが、永い年月の続く水害によって、四十一戸減り、三十九戸となったという。どこかにいってしまった。明治の大水害なども原因となった。
                                                                                                        
(甲府空襲の時、逃げるあてのない家族が、昔うちは西郡のとだという所から来たと聞いているといって、西郡に逃げたという話がある)
 今は、分家又は入村があって、八十戸を越えている。(中略)
  「信玄は、甲斐源氏の嫡流に生まれ、戦国時代の群雄を駆って、甲・信・駿・遠・三の五国の大守となり、武威を四隣に奮った英雄である。その用兵、戦術、治水、安民の法は共に古今に絶倫し、後世兵法家として、又民政家として尊敬せられた」
 という。
 戦国の英雄としての偉大さに、誰もが敬服するけれど、「信玄堤」に限っては、西郡の者は、よく考えたいと、思っている。
 信玄の治水をほめるあまり、西堤を守ったという物語がない。田富町の「粘土、おたかやん」(民謡に残る)はもっぱら東堤だけであった。
 今は、両岸は大堤防となって (内務省堤防)びくともしない。この西堤防の築造工事に、出労して小遣い取りができたという、若草町鏡中条の八十歳の方と、野良で話し合った。
「たっちゃがりの頃でねえ」十五、六歳の時、トロッコを押したという。大正末期から昭和初期であった。
 これが今の西堤防である。
 では、その前はどうであったか。
「めえ−はちいせえものだった」という。
 又、別の方の話では、関東大震災(大正十二年・1932)液化現象が起きて、堤防は無くなって、河と同じに。前は、申し訳のような小堤防であったが、大要で無くなってしまった。大正十二年以後に、やっと大境防が出来上がった。
 大震災の時の模様を「郷土研究、こうさい」によると、
 「(略)大正十二年九月の関東大震災を身を以って体験された方はまだ多くおられるが、これと 時を同じくして東南湖区(甲西町)は、釜無川の堤防決壊に依り大水害に見舞われました。当時私は小学校左生で、小舟に乗って通学したことを覚えている。何日かたって堤防が締め切られ、水が引けた眼の前に広がったのは、一面見渡すかぎりの砂礫の原でした」
  (小舟は大小二つ、東南湖区長久寺に保存されている)
さて、東堤はどうであったか。田富町毒には、明治十八年に大水害があって、これによって、築堤工事が行われた。
この時、登場するのが、美人で、美声の、「粘土おたかやん」である。
釜無川両岸は、水の恩沢によって生き、又、水の悪魔によって死した歴史を持ち続けて来たが天文年間より、利害は逆転し、信玄堤築造以後大正期まで小堤で放置され、西郡の人達は逃げまわるのみであった。
 「うらみの信玄堤」と声を大にして叫ばねばならぬ。

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