サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

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花の歳月

 花の歳月
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

 年々歳々の花は変わらぬが、花を見る人の心は同じではない−ということばは、きわめて日本的である。一年を二四季節に分けるほど、時々刻々に四季が推移する風土は、他国にも類がなかろう。
 四季一二カ月を彩る自然と草花の実は、日本人の精神生活に深い相関を持ちつづけてきた。文芸に、美術に、祭式に、時の花をもって飾るという伝統を現代ではどう受けついでいくであろうか。
 古くは八幡放生会とよばれた三大勅祭の一つ−石清水祭に、「供花(くんげ)」という一二月一二個の花の作り物が、九月一五日の祭に、幣吊とともに宮内省よりおくられる。その起源は明確でないが、『日本書紀』に
「いざなみのみことを生む時に、灼(や)かれて押さりましぬ。故(か)れ紀伊国の能川野の有馬村に葬りまつる。土俗此の神の魂を祭るに、花の時には、亦花をもって祭る。また鼓・吹・幡旗を用て、歌ひ舞ひて祭る」
とある古代の民俗にまでさかのばることができよう。寛永のころ、御所方の好みで京極黄門=定家の十二月の花鳥の歌の心を「十二月の懸物」として、直径四五糎くらいの花鳥の作り物に一米くらいの五色の糸を吊るしたものを、月ごとに飾ることが始まった。石清水祭の「供花」は、仏前荘厳の花鬘(けまん)と懸物の神式化と考えられる。
 聖なるものの来臨−祭というものが、労働の日々に対して、聖なるものを俗なるものと明白に区別する。古来から日本人は、天香具山の榊や笹葉や日かげかずらなどの常緑植物や、樹木・稲藁の注連を神聖のよりしろに用いてきた。後世には、花の荘厳が盛んになったが、植物の生気を人間エネルギーの再生更新のためにする、年々歳々の祭式のシンボルとする観念は変らず今日にまでつづいている。
 人間短命起源神話のヒロインー木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を不死(富士)の山にまつる富士宮浅間神社では、祭の日に社憎が悼・花鬘(けまん)をかざり、花振りの清め舞を延年舞の序に行なった。
 生存の条件は食であるから、農耕儀礼に貫かれた日本の祭には、皐月(陰暦五月)のお田植えを神事とする神社が多い。また、伊勢神宮には、「朝夕大饌(おおみけ)調進祭」という日並みの祭りが連綿とつづいてきた。これは、産みの火力を蔵する処女の童女六人の物忌みの子らが、神聖潔斎のうちに、清火で炊いた熱鱗−火と水による煮沸料理を、朝な夕なに神に捧げる式である。父親と供人の介添で、白絹の冠り物をつけた童女が、神苑の朝夕のしじまに神に奉仕する姿は、清争な花にまごう美しさであった。各地にみる童女の頭上神饌運搬、童男の女装椎児舞、椎児田楽を神事とする祭や、草花を飾った風流傘、造花をあしらった田楽笠に垂れる赤布水引、母親の丸帯などは、この童女物忌の観念−「生命の火処」のシンボルのヴァリユーショソなのである。
 栽培植物の起源が、地母神イザナミの死と、火神迦具土の誕生を介している神話は、祭式に具体化された観念のことばによる伝承である。
  ほととぎす鳴く声聞くや卯の花の 咲き散る丘に田草引くおとめ (万葉集巻一〇)

農耕時期をつげる「自然暦」として、向う山の斑雪の像や、野山に咲く花を目じるしにしてきた農民はもちろん、高原台地の山水自然の美を、心のよりどころにして生きていた先史縄文時代の人びとは、野山の花々に悠久な宇宙回帰のリズムを深く感受していたにちがいない。季節の花々は冠婚葬祭の荘厳であり、折り目ごとの神供であったことは今日も見られる。東北地方の水沢市の西の式内社於呂閉志(おろへし)神社の田植祭には、山かげの残雪に咲く赤い椿の一枝と山笹とを、参詣人は神符とともに持ち帰って家々の神棚に供え、田植後に枯れた椿と神符を竹に挟んで、田の水口に立てるならわしがあり、これなどもその一例である。
 鎌倉時代の十三世紀に、達磨の正法を伝えた道元禅師は、仏性を四季折々の花の本性に同じと喝破している。時節到来とは、春に開花する、桜・桃や緑葉をたれる柳が、<花は紅、柳は禄>としてそれぞれの個性ある姿を完成・具現する−「存在はすべて時である」という思想に根ざしている。これほ、存在はすべての時のうちにあるというのではなく、人も花も、すべての存在は生即死という形で尽界を占めているという−無常迅速・生死事大の禅的思考である。
          奥美濃の郡上郡奥名方町寒水(みょうがたかんすい)の秋祭には、華やかな風流が、百三十数人の老若男子によって、白山神社に奉納される。
 太鼓踊りを囲む円陣の一隅に、十二カ月の草花をつけた花笠の女装男児が、ササラをすって大人の歌舞に唱和する。
一月まつ、二月うめ、三月さくら、四月ふじ、五月あやめ、六月ばたん、七月はぎ、八月すすき、九月きく、十月もみじ、十一月さざんか、十二月きり−と、手製の造り花が白粉紅粧の女装にはえて、稚児のよりましを杉木立の境内に出現させる。
 また、流水文の友禅振袖に、十二カ月の花掌を色鮮やかな刺繍に縫いとりしたみごとな創意を、無名の職人たちがどうしてもっていたろうかと、驚くとともに感動させられるものが京都国立博物館の陳列衣裳にある。室町期の禅院を荘厳した四季山水墨画は、桃山から江戸初期の四季花鳥の極彩色障壁画にすすみ、江戸期庶民の手工芸と、その日本的な思想を溶解していった。なぜなら、蒔絵・染織・工芸をはじめ、絵画・詩歌に、うつろう四季、二カ月の草花を、これほどまでの純美な文様で彩つてきた国民はないと思うからである。それは、日本の風土を基盤とした、民族の深い自然観照が、見えるものと見えないものに架けた呪文の桟(かけはし)実存への祈りが生んだ、呪文様の風流的展開にほかならない。

滋賀県栗東町上砥山の「山の神祭」
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

(旧正月七日)には、祭に先立つ二日に、家々に樒の枝を配るので、花配り帳が大切にされ、花を貰わぬと正月にならないといっている。京都の旧家では、大晦日に市で樒を買い、カマド神に供える(一般には正月二四日の愛宕の日に買って帰る)。かつては、正月の門松が椅であったこと、伊勢の神宮では元旦の朝に樒を村人が投げこまないと門が明けられなかったことが、
『松の落葉』という東海道見聞記に書かれているが、三河の花祭地帯では今日も樒の門松が見られる。
 朝鬼は、花宿(祭場)の主人自らが扮するもので、銭・餅・切幣を入れた<蜂の巣>という宝袋を、舞処の天蓋に吊したものを斧で切りおとして人びとに頒ち与える。祖霊あらわす榊鬼が、みずからの魂の依代としての花枝を頒ち与えて、祝福を与える神態を演ずるものとして、子孫を守り農作をもたらす<恩寵>的な性格をもつ鬼である。その一方に、山見鬼のような、こわい、子孫をいましめる<懲罰>的な性格をも併せもつのも鬼である。
 この<懲罰>的と<恩寵>的の両面を、ポジティブ・ネガティブとしてもつところに、浄・不浄の神聖=禁忌をともなう宗教儀礼の本質が成立する。花祭のもう一つの形は、「花の御串」とよばれる一対の御幣で、もとは稲の穂をつけて杖につきながら、「花育て」の祭文をとなえて道行きした。これは穀物の霊の依代としての花で、稲の花のシンボル化である。
  逢坂を今朝越えくれば山人の 我に呉れたる山杖ぞこれ
と神楽歌に歌われた山人の山杖にあたるもので、鬼に扮した山人が、里人にもたらす祝福の花としての意味をもつものである。
 節分に、日本髪の娘がかんざしに稲の穂をつけるように、日本人にはシンボライズしたものを一体化しょうとする性格がみられる。
 このこわい鬼が、子孫に幸福をもたらすシンボルを山から持ってくるところに、山村の正月を迎える祭の意味があり、「花祭り」とよばれるわけである。このようにみてくると、前述した播州地方の鬼たちが、餅割りをする意味もはっきりしてくる。餅は先祖のミタマのシンボルであり、これを分けて子孫に与え、新しいエネルギーを身につけさせるわけである。
 修正会に寺院を笹厳する鏡餅は、この餅とお花とを参詣の氏子がいただいて帰り、無病息災や、田の虫追いのまじないに用いるものである。よりしろの花とミタマのシンボルの餅は、〃花より団子″(団子=仏前の壇供)ということばが生れたように、花よりも餅の方に人気があった。鬼は、日本人の祖霊観を具体化したシンボルということになる。

 祖霊と鬼
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

 兵庫県の六甲山の麓には、年のはじめの祭に鬼の現われる寺々が多い。二八カ所のうち、四カ所の神社をのぞく大部分は寺である。神戸の長田神社も、もとは神宮寺であった薬師堂から出た鬼であった。
 これら播州地方にむらがっている鬼は、新年の豊作祈願の「修正会」の儀式に参加する。手に持つマサカリや棒や、タイマツをふりかざして暴れたり、餅割りをしたりする。またハナフリといって、山からとってきた榊の枝を千切って参詣人にまくところもある。修正会というのは、奈良時代に始まった大寺の正月の修法をいい、天平神護二年(七六七)正月に、畿内七道諸国に対し、「毎年正月には七日問、おのおの国分光明寺で、吉祥悔過の法を修し、天下泰平、五穀成熟を祈顕すべし」という勅が出された。護国仏教の思想からはじまったものである。
 この修正会は、いまも大分県の国東半島の岩屋寺・天然寺などをはじめ、各地で続けられている。東大寺二月堂の修二会は、二月の修法であるが、薬師寺の花会式は月おくれの四月に行なわれている。
 愛知県三河地方の山村に、「花祭」という鬼の沢山出る名高い祭がある。正月前後の頃、徴夜で行なわれる各種の芸能の面白さに、見物人が大勢おしかけている。この花祭には、山見鬼と榊鬼と朝鬼という三種の鬼が、時をちがえて祭場にあらわれる。この鬼の性格をみると、山見鬼には仙人・狩人・金掘りなどの山仕事に従事する人びとが信仰する<山の神>の性格をもっている。山廻りをする山の神や山姥などの仙人の観念と、山に水を仰ぐ農耕民の山への信仰が習合されていることに気付く。
 もっとも神聖なものとされている榊鬼は、山から榊の枝を根掘りにしたのを持ったり、榊の枝を腰にさして出て、反(へん)?閇(ぱい)という特殊な足ぶみをふんで悪魔払いをする。榊のもとは、花枝とよばれる香りのよい常盤木の樒(しきみ)の枝をさしたことが記録されている。この樒の枝は賢木=榊と美称されたもので、常緑の植物を聖のシンボルとしている。

山と鬼

山と鬼
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

 鬼はこわいものときまっているが、日本人には馴染みの深いものである。お伽話では「桃太郎」も「一寸法師」も鬼退治をする。仏教では、地獄図のなかで、亡者をいためつける赤鬼・青鬼として描かれ、節分の夜には鬼役がタイマツの火を振りまわしてあばれる。
 とてろが、鬼の住む所は山の中であるらしい。「大江山の鬼退治」では、酒呑童子とよぶ鬼の大将が、丹波の大江山(千丈ケ岳)に住んだといわれ、いまも鬼の出る祭は、山村や山麓に集中している。
 オニという日本語は、隠という字音からきているという説がある。古代支那では死者の霊魂を鬼といったので、古くは漢字の鬼をオニに当てた。この漢土の民間信仰における鬼の観念に、仏教でいう地獄の鬼が習合されて、虎皮の揮姿のいわゆる恐ろしい鬼ができあがった。しかし、この鬼とは別に、わが国では、山男・大人など同じ性格で山中に住む、強烈な力をもつオニが信じられていた。鬼の田・鬼の足跡などとよばれる窪地は各所にあり、また鬼に馴染んだ村人が、親切にした御礼に多くの薪や級(しな)皮をもらったというような詰も伝わっている。オニはある時代には、近世の天狗のしわざに近い働きをしていたと考えられる。
 鉄鉱金掘りの盛んだった中国地方の吉備の国には、青備津神社の鬼退治をはじめ、各所に鬼の伝説がきかれる。また東北地方や各地方の山村にも、金・銀・鋼・鉄などの鉱山と関連した鬼の話が多いので、鬼は金掘りと関係した説明もきかれる。鉱石の採掘に従事した人びとが、征服された粗暴な身なりの原住民であったり、帰化人であったかもしれないが、幻想の産物の鬼は、実在のものではない。

 祖霊と鬼
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

 兵庫県の六甲山の麓には、年のはじめの祭に鬼の現われる寺々が多い。二八カ所のうち、四カ所の神社をのぞく大部分は寺である。神戸の長田神社も、もとは神宮寺であった薬師堂から出た鬼であった。
 これら播州地方にむらがっている鬼は、新年の豊作祈願の「修正会」の儀式に参加する。手に持つマサカリや棒や、タイマツをふりかざして暴れたり、餅割りをしたりする。またハナフリといって、山からとってきた榊の枝を千切って参詣人にまくところもある。修正会というのは、奈良時代に始まった大寺の正月の修法をいい、天平神護二年(七六七)正月に、畿内七道諸国に対し、「毎年正月には七日問、おのおの国分光明寺で、吉祥悔過の法を修し、天下泰平、五穀成熟を祈顕すべし」という勅が出された。護国仏教の思想からはじまったものである。
 この修正会は、いまも大分県の国東半島の岩屋寺・天然寺などをはじめ、各地で続けられている。東大寺二月堂の修二会は、二月の修法であるが、薬師寺の花会式は月おくれの四月に行なわれている。
 愛知県三河地方の山村に、「花祭」という鬼の沢山出る名高い祭がある。正月前後の頃、徴夜で行なわれる各種の芸能の面白さに、見物人が大勢おしかけている。この花祭には、山見鬼と榊鬼と朝鬼という三種の鬼が、時をちがえて祭場にあらわれる。この鬼の性格をみると、山見鬼には仙人・狩人・金掘りなどの山仕事に従事する人びとが信仰する<山の神>の性格をもっている。山廻りをする山の神や山姥などの仙人の観念と、山に水を仰ぐ農耕民の山への信仰が習合されていることに気付く。
 もっとも神聖なものとされている榊鬼は、山から榊の枝を根掘りにしたのを持ったり、榊の枝を腰にさして出て、反(へん)?閇(ぱい)という特殊な足ぶみをふんで悪魔払いをする。榊のもとは、花枝とよばれる香りのよい常盤木の樒(しきみ)の枝をさしたことが記録されている。この樒の枝は賢木=榊と美称されたもので、常緑の植物を聖のシンボルとしている。

 木曽の山林
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

 山また山の木曾路は、豊富な森林によって、古来重要視されてきた。ここは木曾村から南流する木曾川と、日本海へ向かう梓川を分ける高地にあたる。
 木曾の山を主とした大森林、即ち御嶽山を中心に四囲に広がる一帯と、木曾駒ケ嶽西麓一帯、表木曾・裏木曾の称のある信濃・飛騨・美濃の三国にわたる面積はおおよそ二〇万町歩といわれ、木曾川・飛騨川の水源地を擁している。江戸時代には木曾は尾張藩領で、代官山村氏にょって支配され、館が木曾福島に置かれ、幕府直轄の関所も設けられていた。代官はこの関所を守るかたわら林政も司っていたが、覚文元年(一六六一)、林政は尾張藩の直轄となり、材木奉行が任命されて、藩の山林政策が確立された。
 ヒノキ・サワラ・アスナロ・コウヤマキ・ネズコを木曾の五木といい、ヒノキ・サワラを主林木として、木曾美林は形づくられている。これらの五木は留山制度により地元住民には伐採が禁止され、もしこれを犯す者があれば直ちに斬罪に処せられた。一面住民の日常生活に必要な家具材、家屋の造作材、薪炭の類は割合自由に伐採が許されていたが、享保元年(一七一六)には、これら停止木のほかに新たにカツラ・カシ・ケヤキ等が停止木に加えられ、ますます厳重を極めたため、今日のこの栗林の基礎が固められたのである。

 木曽の運材法
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

 優秀な木曾材の伐出し事業に伴って、木曾独特の伐木運材法が工夫された。これは、河川の流れを利用した輸送法で、他地方にも見られるものであるが、弘化二年(一入四五)から嘉永七年(一入五三)に至る八年間に記録された『木曾式伐木運材図巻物』二巻が、長野営林局に保存されているので、ここに再録させて頂く。

 伐木事業一覧図
一、山植の図 山を趨とは仙人頭に材木山出しの巧者なるもの付添飯米、塩、醤油、鍋等を背負持、幾日にても行先の深山幽谷に宿り、桧、堪、黒桧など何木品にて何寸角程出来ると見積り、又谷出しは雇人夫何千人掛で大川迄幾日の間にて狩出すという大概を積るなり。
二、札小屋の図
(その一)水の手を第一の要として平日は谷水を寛(かけい)にてとり、或は汲揚て日用を足すといへども、
霧雨の節などの設に、清水を近辺に見立置く事なり。山崩れ、谷抜のおそれなき場所の材木可伐山内に補理(つくろい)、桁行は九間、梁間は二間半に限る。
(その二)四壁、屋根ともに萱、藁、唐桃(さわぐるみ)皮を以て仮初に囲い、中通り三尺は囲炉裏にして左右筵(むしろ)一枚を一人の席に定め、起居ともに他の迄にゆかず、臥時は囲炉裏の方を枕にし壁のかたへ枕するを不参枕と唱へ不快、怪我人の外はせず、また壁の方を銘々の納戸と称し他人を通さざるなり。飯米、塩、醤、持運には通例の一荷は道筋、嶮阻道にて運びがたく、米は中俵、塩、醤は七、八貫を限り人数の多少に随ひ背負持送るなり。仙人の頭を檀那といいて当日の材木の出来を平仙人より聴き質し看板にしるす。
三、祭山神の図
 仙人の小足掛調い山入最初に山神を祀り、常盤木をたて注連縄を張り、頭分のもの両三人にて御酒を奉り、材木元伐に懸れるより、かくの如く一ケ月に一度ずつ不怠(おこたらず)御酒を奉り日待と唱へ通夜するなり。
四、元伐の図
(其の一) 材木根伐せざる前に斧のみねにてきるべき木をうちて、鳥或は栗鼠(りす)など飛出ればその日その木は不伐といへり。倒るる時は発声三度あぐるなり。大木は鼎(かなえ)の足の如く三ツ足、五ツ足にも伐り残すなり。
 (其の二) −解説なし。
五、株焼の図
 槻(けやき・欅)を伐時は必彼の鼎のごとくしてその中にて火をたくなり。しかすれば生木の水気と大気とねばり合いて割る事なしとなり、他木は然するに及ばず。
六、墨打の囲
 綱打、墨を打をいふ、玉木元木を放したる丸太をいふ。綱地の山刀にて玉木の両方をいささか削り鬼皮を去る。其の木何寸角に成と見積り、綱打して猶又綱の曲りにてもなきやと綱を空に引張り、腰を極めて矯(ため)見るなり。星矯(ほしだめ)と云ふは己が背を打越し、綱打べき処の日当を見極め其の座に行て墨打つなり。上手な仙人ならではしがたき業なり。
七、文六厘の国
 文六厘といふは、如図立木をそのまま厘に用ふるをいふ。厘と云ふは材をけづる台を云ふ。
八、御山厘の図−解説なし。
九、株祭の図
 樹木伐倒し其の木の相を打て株にさしたて山神に奉り、その木の中間を山神より賜るという。古の木伐倒にて延書式大殿祭の祝詞に見え、又万葉集三ノ巻、十七ノ巻に鳥綱立(とぶさだて)とよめる、即この事なり。
十、釣木の図 
材木出来上り瞼阻の岩壁などより下す時、其の鐘狩落しては突割、胴打等の損木出来る故、苧綱を以て取木と唱へ、立木に材の大小に随ひ二巻、三巻にも巻てしめおろしするを惜みのはしと云ふ。木のおもりにて取木と網と摺合火燃え出るを水をかけ又は青柴をもって打消すなり。
十一、サデの図 
嶮巌の高山より伐出の節、谷筋計り出しがたき所に山の姿に随ひ丸木にて取建て、柴木を以て編み、材木引のすれば人力をかけずしておのづから走りくだる具なり。さりながら勾配強きは嶺をはづれて外へ走せ落る故土を入れて速に馳せゆかざるように構ふるなり。是を土サデといふ。また勾配弱くてはさらに不馳行(はせゆかず)、此の強弱より心得たる者ならでは造りがたき事なり。
十二、臼の図
 サデの曲尺(かねじゃく)の如くまかれる隅にその材を以て組建るを宇須(うす)と云ふ。題の片方の加伝木(かてぎ)を除きて義ひ、柴に材木突きあたれば勢にて首尾振りかわし尾の方前となり、おのづから立板の上にて廻り下サデへ移るように
は造れども多くは突留り、或は横さまに成りたるのみにて不動、からくして引下せば次の材を山上より繰出す。されは日一日かかりても数多くは不通なり。此造やうは殊に日雇人夫の上手ならでは組立てがたき業なり。
一三、算盤の図
 小坂山内根尾の滝上より材木、朽木伐出時は滝壷へ向ひ狩落しては疵(きず)痛みにて損木多分なる事なれば、丸木を両岸より掛渡し滝を除いて山方へ山の姿に随ひ道を造り狩出す、是を算盤といふ。其の形の似たるもって名つけたるべし。此の滝の高さ七十五尋と云 ふ。
一四、簗(やな)の図
 材木を以て魚簗のごとく組立て、いささかの谷水といへども一滴も漏らさず、塞(せ)上げサデのロへ仕掛れば材は濡れてよく走り、塞上の方は水湛て材を扱ふによろし。
一五、樋の図
 谷底より高き所へ材を運び上げる時、水谷を塞ぎ上げ材木を以て樋を組立て、継手には苔、芝、落葉などを詰込み、水一滴も不漏(もらさぬ)やうにして引揚るなり。
一六、修羅の図
 谷筋、岩高あるひは朽木、根返木などありて狩出しがたき所に材を組立て谷水を塞掛上げるを水修羅と云ひ、若し掛り難き所には下の谷底より汲取て背負のもれる。いささかの水気を得て自由に狩下すなり。
一七、伊勢大神宮へ神納木渡入の図
 仙人、山入斧初に材を伐り、吉日を選み大川に引入るを渡入と云ふ。旦竺組不残立寄、木造を謡ひ神納木を渡入するなり。男木一本、女木一本、長五尺五寸、四寸角。
十八、製材及判の図−解説なし。
十九、仙人具の図−解説なし。

 材木流送図
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

一、伊勢神宮の川狩無難守の図
 材木川狩にかからぬ前に伊勢へ代参をたて、御祓大麻をこひ得て青竹の先に結什、木尻に添ひ持運び川下げ無難の守とす。
二、小筏の図
 此の筏は木尻に添ひて両岸より鳶竿のとどき得ぬ川中の掛木を外し狩流すためとす。
三、管狩の図
 山元より美濃の下林生・湊までの川丈二十五、六里計りの問、急流難場にかかれる多牟波(たんば)、吹込木を外し狩下るを管狩といふ。多牟波とは川中に相対せる岩間に横さまに掛りたる材を云ふ。
四、鴨筏の図
 長二間材六、七寸角五、六本を藤葛を以て結合せ小筏におなじく木尻に添下りて木をはづし、又日雇人夫などの川越にも用ふ。
五、登り械の図
 登り械(かせ)、下り械(かせ)の二つあり。造り方は大かた同じ、川中の岩などの有所へ材木流れ入っては狩出がたく人夫も多くかかる事なれば、械をさして然る所へ入さるべく防ぐなり。
六、はね橋の図
 人夫通行のために材木を以て川中へかけ出して一本木を架渡す。いともいとも危ければ馴れたる者ならでは得わたらず。
七、切所狩下の図
(其の一)飛騨国益田郡中切村にて字釜といふ所川幅狭く中央に大岩立て高さ四、五問はかり。大滝あり、川筋第一の切所なり。材木ここに押掛れば川中の岩に横たへる数千の材木流通る事を得ざる故に両岸に苧綱事をさげ、筏を釣りて鳶竿を持って付添居り一本づつ繰り出し流すなり。此の釜といふ所、間遠からず二所ありて上釜、下釜といふ。ふたつながら同じさまにて
川岸に釜の形して中凹たる大岩あり。其の外奇岩幾個もあるなり。
八、切所狩下の図(其の二)解説なし。
九、留網の図
 親綱、浮木、クツ木、張網、矢巻綱、矢木、矢からみづな、あゆみ木、千鳥づな、尻あゆみ木、しっペい木、尻からみづな、なは何れも麻苧綱。留綱 詮木−浮木(うきぎ)・木覆木(ぶくり木)・執柄木(しっべい木〕・歩行木(あゆみ木)・タツ木(たつ木)・箭木(や木)・下駄木ハげた木)張綱−麻苧綱イチビ(糸宁)紆桧綱を用ふ・尻からみ綱・矢からみ綱・矢巻綱・胴からみ綱・千鳥綱 此の下駄木親綱の前の下にあり。
十、留綱張渡の図
 美濃の国の堺金山村より一里上、飛騨国中切村にて川中に大綱を張りわたし、材木、榑(くれ)木ことごとく此網に掛る。一本ずつ繰り出し惣数を改む、此所を下原の中網場と云ふ。網長七十余聞、シラクチ藤を以て周五尺余寸に打立て、張渡し材木流来るに随ひ綱重りのため網の上へ引上げ二重、三重にも敷並ぶるなり。
                          つまて
十一、角乗の図
 筏に乗りはなれなどせし時、流れ来る枛(つまて)に乗りて岸によすに人夫休足の節角の上にて諸芸をなす。鯱立、平臥一足立、角廻しなど水上急流をも畏れざる様など是を曲乗りといふ。
十二、切所掛り木の図
 益田川筋にて(美濃国では飛騨川という)美濃国加茂郡加知村のうち咽と云ふ所は、鴨筏、小筏にも乗通る事かなはず。岩石連りて掛り木多し故に持篭に人夫を入て釣りさげ、掛木に綱を付けさせ、シャチ、カグラサンにて巻上げ或は鳶竿にてはずさしむ、山元より美濃麻生湊迄のうち、彼の中切の釜と此所とはいづれも劣らぬ切所なりともいへり。
十三、筏士の図−解説なし。
十四、筏組立の図
 筏楫(かい)、ヒソ木、カリユツボ、装束木。
十五、筏乗下げの図
 美濃国下麻生湊にて下原中綱のごとく川中に綱を張り渡し筏に組立、筏一枚に三人づつ乗り、同国太田まで乗下げ、それより尾張国白鳥湊に着る也。
一六、白鳥湊着筏の図 尾張国犬山よりは筏のうへに筵にて囲ひたる支度所を構るなり、是を(かまぼこ)といふ。
 又筏一枚に舟一隻を添るを見送り舟といふ。
十七、尾州白鳥湊の図
 尾張国白鳥湊にて元船のかかれる所をぼたと云ひて木揚場に揚置たる材を此所まで筏にて
 運び積入るなり。此の「ぼた」と云所潮浅ければ、材を半分ばかり積入、夫より大芥といふ所まで漕出し積満るなり。
十八、揚木の図 解説なし。
十九、卸木の図
 船積の節卸木といひて揚木場に積置たる材を引きおろし、登掻(のぼせかき)と唱へて再筏に造り元船まで乗下るなり。
二十、大船の図
 千四古石入り元船。

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