サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

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林野庁の暴走・迷走を誰が止めるのか。
私は最近理解できないダイオキシンについて好著を得ることが出来た。それが下記の本であるが、とくに森林の二酸化炭素吸収と放出について分かりやすいので一部を引用させていただいた。詳細はこの書をよんでいただきたい。
 現在日本に蔓延する「二酸化炭素削減問題」は本質論からかけ離れているところで議論されている。特に林野庁の迷走ぶりは民主党政権になって加速的に愚作の展覧会と化している。多くの人々が森林二酸化炭素削減を唱え「仮想対処切捨て間伐」を実践すれば、削減どころか増量になることは林野庁でもよく理解している。しかし林野庁には天下り先や関連企業団体事業体の命運を支えることが先行する施策が目白押しで、二酸化炭素削減など取り組みなどは数字と言葉のマジックである。私が最も懸念する。マツノザイセンチュウに侵された赤松を薬剤処理した上で所かまわず放置する所業は恐るべき行為で、直ちにやめるべきものを、関係者のために続けている。これは国民や自然保護や景観保護さらに国民の安全(水汚染)などにも今後大きな問題となる懸念が持たれる。林野庁や周囲の盛運に国民を犠牲にしている施策の本質見抜かずに、机上の空論を展開させる。現在の政治など国民遊離施作であることを念頭に置いて注視しないと、日本はとんでもない方向に進むことになる。商業伐採もその残材処理こそが二酸化炭素削減への取り組み上必要不可欠なのに、時折対処や対策取り組みを日本全土展開のような仮想世界の中で林政は進んでいる。国民は騙されているとしても言い過ぎではない。あることが商売になったとき本質から離れることはこれまでのさまざまなことから理解できる。
 下記の中で特に印象に残った箇所は次の箇所である。
たとえば、高さ15m・地表部直伴0.5mの杉の木では、体積は約1㎥、乾燥重量は350k9になる。木材の組成のうち50%は炭素なので、175k9の炭素が含まれている。この木が年に5㎜の年輸を形作って生長したとすると、約37kgの炭酸ガスが固定された計算だ。 
 
「リサイクル」研究は不要?
(『「お役所」からダイオキシン』間違いだらけの環境政策への処方箋 上田壽氏著より。一部加筆)
まず、環境要素としての木材を孝えるうえで、地球は炭素の循環の場であると認識しておこう。地球上にはさまざまなかたちで炭素が存在している。その多くは海底と海洋中に・また化石燃料となって地中に、残りのわずかな量が大気中と地上にある。 
そして、これらの炭素が姿を変える際に重要な働きをするのが、植物である。
特に森林の炭素変換機関としての役割は大きい。よく知られているように、植物は光合成によって炭酸ガスを取り入れながら生長し、光が当たらないときには炭酸ガスを放出している
森林と炭酸ガスとの関わりはこれだけではない。朽ちた植物たちは、微生物によって分解される際にも炭酸ガスとなっていく。つまり、炭素は植物の姿をしているかぎり木質として固定きれているわけで、さらに人間が木材をどう利用、再利用をするかで、炭酸ガスの生成に大きな差がでる。
たとえば、高さ15m・地表部直伴0.5mの杉の木では、体積は約1㎥、乾燥重量は350k9になる。木材の組成のうち50%は炭素なので、175k9の炭素が含まれている。この木が年に5㎜の年輸を形作って生長したとすると、約37kgの炭酸ガスが固定された計算だ。 
したがって、この木を切って燃やしてしまうか、そのまま生長させるかによって、大気中に放出される炭酸ガスの量は、何万kgも差が出る。これを見ただけでも、樹木のリサイクルと、植林がいかに大切かがわかる。
だからこそ、いったん切り倒されてしまった樹木を木材として利用するには、カスケード型利用ということがいわれる。つまり、木材の再利用の系統化のことだ。具体的な方法には次のものがある。
①パーティクルボード化、建築用材としての再利用法。
②化学処理によるプラスチック化。
)燃料化。
④炭素化、電磁遮蔽ボードとして再利用。
⑤コンポスト(腐敗が進みつつある有機物の混合物のことで、肥料などに用いられる)。
⑥きのこの生産(榾木という)材木に、きのこ菌を植え付けて、湿度80-100%、温度25-30℃の場所においておくと、菌体(キノコ)を形成する。材木を榾木(ほたぎ)として活用すること。
こういった観点から、スーパーウッドといわれる木材加工品には、環境保全上の大きな意義がある。その種類も今日では多様なものとなった。
「パーティクルボード」は、屑材木を小きい粒にして接着して固めたもので、接着する際に木材の小片の繊維方向を揃えてあるものを「ストランドボード」という。
「集成材」とは小さな角材をモザイク状に接着したもの。
「パララム」は針菓樹の単板をフエノール樹脂で接着プレス成型したもの。
「単板積層材」は板を繊維方向に揃えて接着したもの。
「合板」は2枚の板の繊維方向を直角用になるように重ねて接着したものだ。
「繊維板」は木材をファイバー状にほぐした後に、措着して固めたものだ。
日本にも「木材リサイクル法」がある。この法律では、木材を利用する事業者は再生資源を利用するように努める義務があり、リサイクルを容易にするような材質表示をすることが、これら製品の製造業者に求められている。また、目的製品を作る際に出る副産物の利用を図ることも明記きれている。しかし、木材輸人業者がリサイクルを妨害することを禁ずるという規定
はないようだ。
住宅に使われている材木には、切られてから何ケ年か経っていて、いよいよこれから強度が安定化するという時期に、建物ごと取り壊されて、燃やされてしまうものが多い。しかし、パーティクルボードなどに加工すれば、燃やして炭酸ガスにしてしまう前に、まだまだ再利用することが可能なのだ。また、コンクリート構造の建物を建てる場合には、型枠という彩で大量の合板が使われる。型枠の中にコンクリートを流し込んだ後、それが乾いて固まれば、型枠は取り外されるわけだが、その平均利用回数は3回と言われている。つまり、3回使えば焼却されるか埋め立てに使われ、遅かれ早かれ炭酸ガスと水になる運命だ。
そこで、冒頭に出てきた農林水産省の研究者はこの利用回数をもっと多くすべく、20回程度は繰り返し使用町能な木材の表面処理法を研究していたが、この研究に圧力がかかったという。型枠となる合板の原料には、熱帯雨林のフタパガキ科の植物ネランティー、ラワンといった木が使われる。これらの木材は、ひと山に2,3本しかない大木を切って、唯一の交通手段であ
る川を利用して、積み出されてくる。これらの木がある熱帯雨林の住民の多くは、大木を利用して作ったロングハウスという大きな家に、何家族もが一緒に住み、焼き畑農業をして生活している。熱帯雨林の人木の伐採は、彼ら住民にとっては、結果的には生活破壊であることは間違いない。
しかし、彼らの住んでいる国にしてみれば、外国から開発資金が入り、樹木の売上代金が入り、運搬等で雇用が促進されるので、それはひとつの事業となり、見かけの豊かさを保証する事となってしまう。そしてまた、これら材木を扱う日本の商祉にとっても、いい商売が成立する。
この経済のプロセスのうえに、型枠20回リサイクル使用の問題が登場する。もしそれが可能になれば、「リサイクル法」の精神にもかなうし、炭酸ガスの排出量も減るし、地球としても、日本国としても利益があるはずだ。にもかかわらず、そういう重要な研究に圧力がかかるということが、現実に起こっているのだ.
木材を取り扱う商社にしてみれば、リサイクル回数が増えれば商売が成り立たない。さらに、そうした商社に何人ものOBを天下りさせている官庁にしてみれば、商社の商売が小さくなってしまっては、白分たちの天下り先が減ってしまうことになりかねない。リサイクルの回数が7倍になれば、商汁の利益は1/7になり、OB7人雇ってもらえたのが1人に減っててしまうとでも考えているのだろうか?
白州町の人物史 宮川義汎 県会議員 電力尽力者(白州町横手「駒の松」所有者(枯れ死))
 
慶応元年八月十四日、旧駒域村横手一八九九番地、武川筋の名門宮川伝左衛門・はんの二男として生れる。
はじめ甲府徴典館に学び、のお上京慶応義塾に学んで帰郷した。
温厚で衆望厚く明治二十八年駒城村長に選ばれ村政に尽し、
明治三十年郡会議員に、
明治三十二年には県会議員に当選。のち県参事会員に推されて功績を上げ、政友会県支部総務にもなって県政界に貢献した。
その他郡農会長、地方森林会議員、赤十字山梨支部商議員等多くの要職を歴任した。その問県道改修、穴山橋改築など氏の力にあずかるところ大である。
一方実業界にも敏腕を振い、大正二年七月、高尾水力発電株式会杜を設立、取締役となり(中巨摩郡榊村上宮地に高尾発電所建設)
大正十年三月駒電力株式会杜取締役杜長(竹宇大原発電所、同十五年一月青木発電所建設)に就任、続いて中央電力株式会社監査役も歴任し電力界に偉大な業績を残したことは特筆すべきことである。また山梨銘醸株式会杜(七賢)、甲斐無尽などの各会社にも関与して進展に尽した。
このように氏は家を妻「ます」にまかせて日夜東奔西走、社会のため人のために尽したことは万人の認めるところである。
惜しくも昭和七年六月六日、八十四歳で逝去したが、有志相図り横手の(駒城小学校入口)駒の松の敷地内に類徳碑を建立、永くその功績と徳を讃えている。
白州人物史 古屋徳兵衛氏(東京松屋創始者 特売日の創始者)
 
白州町上教来石、古屋長吉の長男として嘉永二年四月十日に生まれ、幼名を徳太郎という。
東京松屋デパートの前身である呉服反物商鶴屋の創始者である。
氏は文久元年、十三歳で江戸に出て日本橋本石町一丁目にある豊島屋五兵衛という薪炭仲買人の家に身を寄せた。
時あたかも明治維新の大変革に遭遇し、主家が倒産したので郷里に帰る。その後家産所持品などを売却して金に代え、再び横浜に出て呉服の仲買商を始めた。
慶応四年二十歳の時江戸・横浜問を往復しながら横浜緑町に呉服商を開業した。
明治二年横浜の石川口に鶴屋呉服店を開業し徳兵衛と改名する。誠実と勤勉で商にあたったので店は大いに発展した。
明治二十三年、東京神田今川橋の松屋呉服店が経営不振になつているのを買収して立て直し、松屋と名のった。
明治三十六年代には横浜貿易銀行・横浜実業銀行などの取締役に耽任し、また東小呉服、反物協会頭取として繊物税問題で奔走するなど業界において大活躍した。
また氏は商道に徹し、華客であるとして客人を大切にしたり、店員を優遇し当時は年期奉公が普通であつたが給料を与えて、積み立てさせて株金として配当をつけてやるなど気を配り事業を拡大していったが、その陰には夫人満寿が和裁などを教えて店員教育に心がけたり、端切れ布の小売りや、それを利用した紐、袋もの、よだれ掛けを作って客に提供するなど、今日のバーゲンセールに相当する特売日の創始者として努力したことも松屋デパートの繁米につながっている。
一方氏は郷土愛に燃えており、鳳来小学校の子弟のために多額の金銭や物品など数十回にわたって寄付している。鳳来小学校跡地(現熊本ジユースエ場敷地内)にはその業績をたたえて顕徳碑が立てられて永くその功績を伝えている。明治四十四年七月六十二歳で残した。
白州人物史 古屋五郎氏(白州町の創始者)
 
明治四十三年一月二日、旧菅原村字竹宇の旧家古屋浜吉・ふじの三男として生まれる。
甲府中学校(現二高)で勉学するも、兄二人が旧東京帝大に学びながら病魔に倒れたので氏も同じ轍をふまないようにとの両親のはからいから、進学をあきらめ家に帰り農業を継ぐ傍ら、
昭和二年から菅原村役場書記として勤務をはじめる。
昭和十三年には助役になり村政推進の中核として活躍中、
昭和十六年太平洋戦争に応召され満州(綏陽)及び南方(マレー・スマトラ方面)の戦線で皇軍の一員として活躍すること六ケ年。
とくに南方の戦線においては隊長が職権をかさに看護婦を辱かしめようとしているのを見るにしのびず、一兵卒である氏は軍律厳しい当時としては全く無謀と言うべき、上官に告訴し看護婦を守つたというエピソードは、道義一筋を貫いた氏の信念として高く評価されている。
昭和二十二年復員、
昭和二十六年菅原村長に当選。
昭和三十年の町村合併に伴ない初代白州町長として引き続き就任し、町行政の要として十六年間
敏腕を振われた。それは「町の財産は人作りである」との信条から教育の面に力を注ぎ、施設及び人的問題を含めて統合巾学校の必要性を説き、資金賓材の苦難に対応したがら昭和二十九年には県下に誇る白州中学校々舎を建築した。
さらに地域発展のためにと町村合併を決意し、幾多の難間題をのり越えて今日の白州町の基盤を整えた。
また昭和三十四年台風襲来による末曽有の大災害の復旧事業には心血を注いでこれに当った。
この間、県町村会長・全国町村会常任理事・県農業構造改善審議会長・県農協合併促進審議会長・県農林統計協会長・秒防協会長・河川協会長・日本赤十字山梨支部副支部長・国立公園協会県副支部長をはじめ各種委員など数多くの公職を通して県政に参画した。
よって昭和三十七年には県政功績者として知事表彰を受けた。
町長退任後も県公安委員長.内水面漁場管理委員長として活躍した。
一方昭和二十二年菅原山岳会を設立して以来会長に推されて現在に至り、県山岳連盟会長・日本山岳会理事として南アルプスの開発に多くの貢献をなした。
昭和六十年勲五等瑞宝章に叙せられたことは氏の功績を物語っている。
この陰には、よ称子夫人(元白州町婦人会長)の内助の功のあつたことを附記する。
著書『南十字星の下に』新聞春秋杜発行がある。
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%8E%9F%E5%85%89%E9%9B%84&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt
白州町人物史 原光雄氏(「白州町誌」昭和61年)
 
明治四十二年八月五日、白州町白須、原源吉・さなへの三男として生まれる。
峡北農学校を卒業、
旧制新潟高等学校理科甲類を経て、
京都大学理学部化学科卒
京大理学部専任講師、
大阪市同大学商学部教授となる。
昭和三十七年より二年間商学部長を勤め、同年四月、阪南大学商学部教授兼商学部長、
昭和四十八年三月退職。
昭和五十五年三月、阪南大学教授を定年退職。
 
著書
『文化学老ラヴォアジェ』(弘文堂)
自然弁証法の研究(大雅堂)
科学と民主主義(日本科学杜)
化学入門(岩波新書)
等主な著書二十五のほかに発表した論文五十五余あり、戦前戦後を通じて、自然科学史、化学史、自然弁証法などの分野で多数の著書、論文を発表され、白然科学史の第一人者として学界に確固たる地位を築かれた。
そして、その該博な知識と熱意をもつて学生の教育と教員の指導に当たられ、敬慕されている。
退職後は悠六自適の生活を過しておられる。
現住所大阪府吹田市高野台五--
 

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