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白州人物史 成沢浪次郎氏(「白州町誌」昭和61年)運輸業の先駆者 道路開発 県会議員
明治三十一年六月十目、東山梨郡牧丘町字成沢(旧成沢村)で、代々庄屋を勤める旧家成沢孝作・きんの三男として生まれる。
青春時代は、海軍に籍をおき、機関兵曹で除隊する。
大正十四年旧菅原村白須に分家し、商会を設立、トラツク四台で運輸事業を経営したが、地域への寄与などから峡北貨物自動車株式会社に組織替えし、家業の興隆と地域進展に努めた。
この間、旧菅原消防団に入団、のち推されて団長となり町村合併後も引続き白洲町消防団長として、地域の防災、住民の生命財産の保護のため率先力を致され、山梨県消防協会副会長(会長は知事)として活躍した。
なお、山梨県交通安全協会長坂支部長、県協会副会長として、交通安全対策に尽力した。また山梨県トラツク協会長坂支部長としても運輸事業に寄興する。
さらには地域の与望を担い、昭和二十二年五月、山梨県議会議員に当選。日ごろ道路の整備が地域振興の基盤であるとの信念を生かし、国道二十号線の改良、日野春・長坂線の県道編入、笹子トンネル開通など、土木.林務常任委員長として、地域はもとより、県政発表のために、尽
力された功績は大なるものである。
ちなみに、昭和二十八年には道路事業に、昭和三十九年には運輸事業に尽された功績で、建設大臣、運輸大臣よりそれぞれ表彰をうけた。
また、消防に尽された功績で昭和三十七年藍綬褒賞をうけ、昭和五十九年には勲五等瑞宝章をうけられたことでも、氏の功績が偲ばれる。なおこの陰に、喜代子夫人長)の内助の功を附記する。
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名取礼二氏(「白州町誌」昭和61年)東京慈恵会医科大学名誉学長 学位論文「筋収縮機構に就いて」
明治四十五年一月二日、白須六、七六一番地(前沢)、名取甚作・志やうの次男として生まる。
現住所、東京都杉並区高円寺二丁目三七八番地
主な経歴は次のとおりである。
昭和十一年(一九三六年)四月、東京慈恵医科大学卒業、
昭和二十一年より昭和五十六年まで同大学教授第一生理学教授主任。
昭和四十三年より昭和五十四年まで目本体力医学会理事長。
昭和五十年九月より五十七年十二月まで慈恵医大学長。
昭和五十年より同大学理事長として現在に至る。
昭和五十一年四月より現在まで杜団法人束京慈恵会々長。
昭和五十四年十二月より現在まで、教科用図書検定調査審議会々長。
昭和五十八年四月より理在まで、保健体育審議会々長。
昭和五十八年五月より現在まで財団法人日本私立医科大学協会々長。
主な受賞は次のとおりである。
昭和四十八年十一月紫綬褒章。
昭和五十二年一月、
昭和五十一年度朝日賞受賞。
昭和年四月東京慈恵医大名誉教授。
昭和五十六年六月、日本学士院賞受賞。
昭和五十六年十一月四日、文化功労老顕彰。
昭和五十七年三月、日本生理学会特別会員。
昭和五十七年四月、日本体力医学会名誉会員。
昭和五十七年十月、日本宇宙航空環境医学会名誉会員。
昭和五十七年十二月、東京慈恵会医科大学名誉学長
学位論文「筋収縮機構に就いて」。
著書
「筋生理学」、同二十二年丸善。
「現代スポーツ生理学」、同四十三年日本体育杜。
「最近体力測定法」、昭和四十五年同文書院。
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名取高三郎氏(「白州町誌」昭和61年)北海道で大活躍(名取高三郎商店)、郷土への貢献も大
安政五年(一八五八)十月二日、旧鳳来村字山口名取員保・まるの長男として生まれた。
少年時代より学を好み六歳より山口番所二宮為信氏の手習弟子として十二歳まで教を受ける。
明治八年十八歳の時叔父今井喜七外五名と開発中の北海道へ金物農具等の行商に行く。
明治十年小樽に金物店を開業、二十年ころから小樽港改良工事等にて拓殖移民が続々入道して景気上昇し、家業も大いに繁昌した。
明治二十三年、店を番頭に任せ、郷里山口に帰省、釜無川堤防工事の村受人を知事より任命される。
明治二十四年上教来石区長、鳳来村々会議員に選出され就任する。
明治二十七年再度渡道し独立店㊤を商標と定め車業の拡大に努力し金物類のほか砂金等を東京安田銀行と契約して売捌く。その為、事業益々発展し巨万の富を集め全道届指の財閥となる。
明治三十五年小樽商業会議所議員に当選。
また小榑区(市会)議員二級より立候し当選。地域発展向上に尽力信望誠に篤かつた。
大正二年小樽集鱗会祉取締役・北海道銀行監査役・北漉道製油会杜取締役等を歴任し、
昭和三年小樽市功労者として功労章を受けた。
郷里の人々の信頼も篤く、常に遠くにあっても愛郷の念深く、昭和三年旧鳳来小学校増築に際しては金壱万円の巨額の寄付をされた。
ほかにも児童の教材購入のため止数回多額の寄付をされた。
昭和四年紺綬褒章の栄を受ける。
昭和二十四年二月九十二歳で硬せられた。
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E3%80%80%E5%90%8D%E5%8F%96%E9%AB%98%E4%B8%89%E9%83%8E&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt
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白州町人物史 中山正俊氏 山梨の高等教育に献身(「白州町誌」昭和61年)
号は駒峰(または環山楼ともいう。)
安政二年(一八五五)九月二十五日、旧駒城村字横手の旧家中山福俊・いせの長男として生まれる。
少年時代より学を志し岡千仭の塾生として学び、その後塾長になり帰省して居を甲府市横近習町(中央二丁目) 、郷里の徽典館(梨大の前身)で子弟に漢文・倫理の教育をする傍ら、藤原多魔樹や
竹田忠に教えを受けた。
その後上京して岡鹿門について漢学を学び、孔子の論語を懐から離さなかったほど常に精進努力の人であった。
明治十六年、二十八歳のとき山梨県尋常師範学校の助教諭、
明治三十一年には尋常中学校(現二高の前身)教諭に任ぜられ、三十年間の永きにわたって山梨の高等教育に献身した功績は大きく帝国教育会より表彰を受け、偉大な足跡を残して大正三年九月教員生活を終えた。
氏は温厚で、ことば少なく君子の風格を具えていた。特に漢詩文に長じ、各所の碑文を撰している。
現在甲府市立富士川小学校庭にある「権太翁遺徳碑」の撰文を始め県内に数多く遺っている。
また「正俊会」は氏の徳をたたえるために多くの門弟が集って設立した会である。
大正六年八月二十六日病のため六十二歳で死去、甲府市の信立寺に葬られているが、横手馬場原の共葬墓地にも分骨されている。
著書『山県大式』(明治三十一年柳正堂発行)がある。
なお、正俊の妻、中山貞(てい)は梨本宮家の女官長をつとめ、朝鮮李王殿下の妃となられた方子殿下のご結婚の取り運びに尽くされ、後には東京九段にある東京家政学院の経営にあたられた。
白州の人物史 名取順一氏(「白州町誌」昭和61年)早稲田大学理工学部に工業経営学科を創設
明治一二十四年三月八日、旧鳳来村大武川八一番地(現北杜市)で父名取森蔵・母みよの次男として生まれる。
少年時代より学を志して精進する。
早稲田大学卒業後渡米し、アーラム大学で学んだ。
その後も引き続き、ハートフォード及びボストンの両大学の大学院で「産業心理学・労務管理学・行動科学・人間関係論」などの学問の分野について専攻し研究を深めた。
帰国後の昭和十年四月より早稲田大学理工学部兼早稲田国際学院副院長として教職について以来、四十六年三月停年退職するまで三十六年間の長きにわたり早稲田大学教授として活躍した。
この間理工学部工業経営学科主任教授・国際部六長等を歴任した。
特に、わが国にはじめて経営工学を導入して早稲田大学理工学部に工業経営学科を創設した功績は、まことに偉大なものである。
退職後は同大学の名誉教授となる。
その後四十六年四月からは東海大学工学部教授に就任し、一貫して経営工学の研究と教育に専念
した。
また他方学界においても幅広く活躍され、日本経営工学会々長・インダストリアル・エンジニアリング協会理事・行動科学研究所々長なども兼任した。
氏は生涯を通して勤勉実直な人柄で常に読書を好んだが、また自らも書を著した。それは経営のHR(雇用率)・経営のサイバネティクス(人工頭脳学)・経営杜会・広告心理学・販売心理学・労働心理・賃金管理・行動科学と労務管理・行動科学と経営・管理杜会への提言など多数ある。このように学界に貢献した業績は高く評価され、昭和四十八年十一月には勲三等瑞宝章を受章したほか、六十年七月には正五位の叙位に輝く栄誉に浴し八十四才の生涯を閉じた。
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%90%8D%E5%8F%96%E9%A0%86%E4%B8%80%E3%80%80%E6%97%A9%E7%A8%B2%E7%94%B0&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt
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白州町人物史 中山恒明氏千葉医大教授(昭和二十二年) 医学博士 医療法人中山会湯河原胃腸病院理事長
明治四十三年九月二十五日、白州町松原出身、父中山進(医学博士)と、母「希以」の長男として生れる。
《学歴》
旧制新潟高校卒(昭和五年三月)
千葉医科歯科大学卒(昭和九年三月)
医学博士を授与される(昭和十三年三月)
千葉医大第二外科助手(昭和十一年十月)、
千葉医大教授(昭和二十二年)
財団法人中山癌研究所(昭和四十年一月)。
同年、東京女子医大客員教授となり同大学消化壁病センター、早期癌センター所長も兼ねる。
昭和四十四年三月、医療法人中山会湯河原胃腸病院理事長に就任、現在に至る。
《公職》
医師国家試験審議会委員(昭和二十九年二月)。
大学院設置審議会臨時委員(昭和三十年一月)。
日本学術会議第七部長(昭和三十八年一月)。
食道疾患研究会名誉会長(昭和六十年一月)。
日本外科学会名誉会長(同年四月)。
この間、
昭和五十三年三月、国家協力事業団消化器・外科専門家として中南米に派遣される。
《受賞・叙勲》
昭和三十八年三月、腹部外科最首同貢献賞(米国腹部外科学会)。
昭和三十九年九月、世紀の外科医賞(国際外科学会)。
昭和四十一年十二月、ベルツ賞(消化器癌治療に尽した功績、西独べーリンガーゾーソ財団)。
昭和四十二年六月、最高医学器械発明賞(細小血管吻合器の開発、スイスジュネーブ大学)。
昭和五十八年十月、ギソベルナート賞(スペイソ外科学会)。
昭和五十七年十一月三日、勲一等瑞宝賞
現住所東京都千代田区平河町二丁目一一一番地、十八号ノ七〇四
なお生家は現在生井勝男氏の居宅となっており、その宅前に叔父芳定氏(医師・米国で客死)の石碑が建てられている。
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