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白州町人物史 角田静男氏 白州町大坊出身(「白州町誌」昭和61年)
明治三十五年二月二十三目、旧駒城村字大坊の旧家「道村虎次郎」・「ひさ」の三男として生まれる。
甲府中学校(現二高)を経て、
大正九年千葉医学専門学校に入学して医学の道に精進努力する。
優れた智性をみとめられて、
大正十年角田秀作(医師)と養子縁組し角田静男となる。
大正十三年四月千葉医学専門学校を卒業し、同校第一外科教室に入局。角田秀作の養女貞子(林疎の妹)と結婚する。
大正十三年十二月から一年間軍隊生活をするも除隊後は、もとの千葉医科大学第一外科教室へ復帰し、六年間研究を重ねた。
昭和六年十月には横須賀市立病院外科部長として赴化し、
昭和九年には同病院副院長に昇格した。その間に学位を受与される。
続いて十六年大平洋戦争勃発から終戦まで再度にわたる応召で、東京第一陸軍病院第十三外科医長、陛軍々医中尉として活躍された。
昭和二十一年九月には神奈川県逗子に角田外科病院を開き院長とたる。
昭和三十二年七月から一ケ月間、ベルギーのブラッセルで開催された国際脳神径外科学会に出席するとともに、英国の社会保健及び杜会保障制度を学ぶなど医学の遣の探究と、優れた外科医の手腕は高く評価された。腹部外科患者、戦傷者、外傷患者の救命治療や、晩年の唇裂、口蓋裂の治療研究などに情熱を注ぎ、優れた治療成績を残す一方、医療器具や新薬の研究にも力を注いだ。
昭和二年には角田式間接輸血器、
昭和九年には細菌性腸炎に対する新薬(セダン・ツノダ)をそれぞれ発表し、
昭和十年にはドイツ、バイエル社より賞状と賞品を贈呈されるなど、医学の遣に献身した功績は大きく、まことに偉大な足跡を残している。
一方趣味も多岐にわたっていた。盆栽、古美術鑑賞から、ことに晩年には「能而制作」に、その芸術的才能を注ぎ、個展を開き、作品写真集を出版したが、その作品は専門能楽宗家、美術評論家の認めるまでに至った。
臨床における唇裂形成と能面製作は、蓋し「顔面の創造」という共通テーマで結ばれたにちがいない。このように医師としての業績ばかりでなく、芸術的な面にも情熱を傾けた。
昭和四十五年十一月二十七日、病のため六十八歳で生涯を終えた。
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白州町人物史 桜井義令氏 白州町横手出身 文人・歌人 省費救民の建白八条 学制改革の建白
嘉永二年(1849)六月二十一日、旧駒城村横手九三番戸に桜井義台(名主)・伊志子の二男として生まれる。幼少のころから学を志して精進、特に国学に通じ和歌をよくし、歌の数三万三千、長歌七百首以上。武水と号した。
明治、大正、昭和にかけての大歌人の中に数えられ、また書家としても界隈に名をなした。
慶応三年(1867)十一月、江戸の国学者平出篤胤の門に入り勉学に励む。
明治三年(1870)、国政活用の建白二十六条、
明治四年(1871)、省費救民の建白八条を県庁に陳情、また甲府徽典館に於いて郷校取立に尽力したので賞せられた。
明治五年(1872)逸武両筋(逸見、武川筋)学校世話役拝命、
明治六年(1873)小学校訓導に任ぜられる。学制改革の建白を県庁に提出。また郡下の主な神社の神官に任命された。郡下の学校の訓導のみでなく、河口、野田、そして廉学校の教頭を歴任、
明治十九年()徽典館の教員に擢でられ、
明治二十二年()と四十四年駒城村長に選ばれ、
明治三十五年()に菅原村長(官選)に就任した。
氏は謂謹に富み暇があれば近所の人々を集めて諸謹を交えて杜会学的な話をするのが得意であった。また物を大切にし、墨など竹にはさんで使えるまで使い、紙など裏表に歌や習字を書き、決して無駄にはしなかった。
偉大な国学者であり、教師であり、神官でもあったし、行政者でもあった。庭先には菅原道真朝臣の祠を建てて敬まっていたのもむべなるかなである。
晩年は風流を友とし詠歌、書道で閑日月を送る。
昭和四年()一月二十九日、八十一歳の生涯を閉じた。辞世の歌あり、
なきがらと世をばおはるかことのはを いくよろづたびくりかへしつつ
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白州町人物史 小林政明氏 白州町鳥原(大豆博士・大豆使節団長)傾斜畑農法の研究 我が国の食料増産に貢献
明治三十九年九月十五日、旧鳳来村烏原(松原)二、二七四に父小林政長、母おかんの長男として生まれる。
大正二年鳳来小学校入学。生来温厚実にして不言実行。研究心旺盛で勉学に励む。宇都宮高等農林学校農学科を(昭和二年)卒業し、その後農学博士の学位を取得。宇都宮高等農林学校教師、農林省熊本農事改良実験所技官、本県立峡北農学校、取得。県農業試験場次長、農業講習所長を経て山梨学院大学教授、大学長を歴任した。
大豆博土として活躍。耐虫、多収の農林一号や、耐病、多収の農林二号を育成するとともに、栽培法の研究を行なって多大の成果を上げ、我が国の食料増産に貢献した功績は誠に偉大のものがあり、その功が認められ農業技術協会長賞、農林大臣賞を受賞した。
このような研究業績から、国際的にも認められるところとなり、ブラジルの日系農業グループの招きにより渡伯、大豆法の提言指導を行ない、一州の未開発地に約二万ヘクタールに及ぶ大豆作開発達成の端緒を開き、またポーランド及びブルガリア国の招聴により大豆使節団長として赴き、その国に適した大豆栽培と大豆食について指導を行なった。
最近我が国に成人病が多発している要因の一つが食生活にあることをつきとめ、穀類・いも類・大豆・野菜など日本型食生活体系を研究し、長寿村では例外なく大豆を食生活の柱としていることなどの論証を行ない斯界に寄与した。また木県には傾斜地が多いので、農林省に働きかけその助成を得て、傾斜畑農法の研究を推進し成果をおさめた。
著書には「大豆と健康」他十一編、論文には「本邦大豆の増収に関する作物学的研究」ほか九十三編があり、五十六年間にわたり教職、研究に没頭し現在も杜会のために尽くしている偉大な人である。
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白州町人物史 河西九郎須 白州町下教来石 (初の県会議員)江戸で材木屋
文政十二年(一、八二九)五月二十六日、鳳来村下教来石に生まれ、明治十六年十月一日没す。
河西家は維新前は代々、江戸深川木場町で「天満屋」という材木問屋を経営、江戸城の御用材などを扱っていたが、後、甲州教来石宿に移り、酒造業を営む。
明治六年巨摩郡第十九区長、九年十一区長となり、十年に最初の県会議員となる。たお、公共
事業に力を注ぎ、釜無川流域の治山治水事業をはじめ、「切り通し」という山道を開発して地元住民の交通の便を図り、地方の発展に貢献した。
また、明治十三年、明治天皇ご来県の際、当家はお小休み所にあてられた。
末孫、河西泰明氏住所東京都中央区晴美一丁目八-六-四〇三
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白州人物史 海野庫太郎氏 白州町鳥原 四十三年間学校教育振興のため貢献(「白州町誌」)
明治元年(1868)九月八日、旧鳳来村鳥原二、六七二番地海野正富・るいの長男として生まれる。
温厚篤実で勤勉家、犠牲的精神に富み、他人の面倒をよくみ、人に尽すために生を受けたような人である。
農業に従事するかたわら、区や村農会の役員を勤め、
明治三十四年県から学務委員に任命されたのをはじめとして、
昭和十九年まで実に四十三年間学校教育振興のため貢献した。
昭和四十三年には推されて村会議員、鳳来小学校校舎建築委員、
昭和四十四年北巨摩郡会議員、
昭和四十五年には鳳来村長に就任し、村・郡政発展のために尽された。
なお鳥原諏訪神杜、往太神杜の氏子総代、石尊神杜の信徒総代、福昌寺、清泰寺の檀家総代等に選ばれ、神杜、寺の隆盛に献身的に尽くした。
また県下の水害の際や、鳥原水道設置についても多額の金品を寄贈した記録が数多く残されている。また石尊神社に設置されている狛犬は氏の寄進によるものである。このように生涯を通じ物心両面にわたって尽した功績は誠に律大である。
惜しくも昭和三十九年二月、九十六歳の天寿を全うした。
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