サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

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林政あれこれ(『長坂町誌』より 現北杜市長坂町 一部加筆)
武田時代の林政
甲斐の国の山林制度は、武田信玄によって始められたといわれている。治水、土木事業に備えるための「公林」(お林)を設けたり水害を防ぐための「川除林」(かわよけ林)を造成したり、地元住民に必要な林産物採取のおきてを定め、村々の採取区域を決めるとともに、山の入り口に「山口衆」という取締人を置くなど山林施策に力を注いだ。今も残る釜無川の信亥堤水防林や笛吹川差出の磯水防林は、信玄が残した律偉大な事業の実例である。
○ 「公林」 御林幕府の直営林で公用材や災害防止のために「御川除林」などを設けたり、狩猟用に「御巣鷹山」などそれぞれの目的によって設けられた森林で、この保護取り締まりはたいへん厳しかった。
○ 社寺有林 社寺領の山林徳川時代の社寺有林は一般の土地と区別して社寺の所有とし、武家や庶民が祈願のため神社や寺に山林を寄付したもので、当時の武家や民衆は神仏への信仰心が高く、森林保護や献植につとめたので、うっそうとした林ができた。
○ 入会山=小物成山(こものたり山) 住民の多数が共同で一定の「公林に入り会って」、その林産物を採取したので入会山と呼ばれるようになった。また小物成山という名称は小物成という山年貢(税金)を納めたために呼ばれた名称である。
 
徳川時代の林政
徳川時代に入ると農業を国の基礎とする農業立国がすすめられ、入会山林がせばめられ、林産物も不足するようになったため、村と村の間に境界争いが起こった。自村の山の面積を増したり開墾をしたり論争が絶えなかった。元禄、享保年代にかけて最も多く、このころの全国人口は二五〇〇万人にも増加したので、食糧増産と入会山林の確保のため山争いが絶えなかった。
百姓持山(ひゃくしょうもち山)
個人持ち山と村持ち山の通称である。当時の農山村は自給自足で交通も不便のため、木材のような重い物は遠くへ運べず使用量も少なかった。農業用の下草刈り、馬草刈り、マキの採取、カヤ刈り、細木の採取など自由に採取することができたが、また時々山火事が発生し、この被害が多くせっかくの百姓持ち山は荒れるばかりで植林も行われなかった。
 
明治時代の林政
①官民有区分未定時代(明治初年〜十四年)山の税金について官民の摩擦があり紛争が多く、このため山林の暴採、盗伐、山火事が至るところに起こり林野は荒れるばかりであった。
②官有地時代(明治十四〜二十一年)入会林野の採取木が出願制になり、官地編入の非を訴えて住民は無断で入山して盗伐、放火の被害が各地に起こった。
③官林時代(明治二十一〜二十二年)松本大林区署の所管とし管理にあたった。
④御料地時代(明治二十二〜四十四年)御料地草木払い下げ規則を制定したが、条規は樹木の払い下げを二十年としたため住民は将来への望みを失い乱伐暴採が横行した。このため当局は規則を改正したが、手続きが複雑なことと、払い下げ区域の制限や払い下げ価格が高いことなどを非難して抵抗し、各所に盗伐、乱伐がくり返された。ここに林政の一大転換策として御料地がご下賜になった。
⑤恩賜林時代(明治四十四以降現代まで)県による恩賜林の保護策が今日まで続いて立派な林野ができあがっている。
「古杣川西外七字恩賜林保護財産管理会」は長坂町唯一の保護団体として確かな業跡を今日に残している。
八ケ岳南麓もの語り(『長坂町誌』より 現北杜市長坂町 一部加筆)
一、  東京へ東京へと木材はゆく(八ケ岳四町村民有林造林の移り変わり)
(『長坂町誌』より 現北杜市長坂町 一部加筆)
黒こげに焼けただれた東京。敗戦の日本。八月十五日。思い出すだけでも、ぞっとする。戦災の東京へ東京へと木材は送られた。このため八ケ岳南麓の山々は、ほとんど切り尽くされてしまった。中央線上り列車の、山と積まれた木材貨車が今日も明日も京を目がけて走った。以来四十数年を経た今日、東京の町に八ケ岳南麓の木材を使った家は、ほとんど見られなくなり、そのかわり石と鉄とコソクリートに固められた高層ビルの谷間に人々は息をひそめて住むことになった。
戦後四十年、長坂駅も変わってしまって、あのころの駅のあった場所もホームの位置も、さだかに思い出せない。多分、役場、環境改善セソターの建物あたりが駅ホームであったと思う。この消え去った駅ホームに木材の山がそれこそ毎目のように積み込まれては運ばれ、運び込まれては積み去られていったものだった。
小渕沢駅も長坂駅、日野駅も穴山駅も同様であった。敗戦直後十年間、八ケ岳南麓の山々から切り出された木材の量は、それこそ何十万石に達したことか、その数さえ知る由もない。
長坂町の林業を語るには八ケ岳全体の林業を考えることが重要であり、一まとめにして説明することにする。行政区画にしばられ、限られた視野で物を見ることを避けたい。このような視点から南麓造林の移り変わりを次の折り線グラフで検討すると、民有林の造林面積は
戦後昭和二十二年六六ヘクタール、二十四年から五年間、毎年ほぼ三〇〇ヘクタール以上、最高五一五ヘクタールまでが記録されている。二十七年をピークに三十四年は五三ヘクタールまで下がったが、再び上昇して四十年代は平均して民間造林熱はさめなかったが、五十年代から六十年代にかけては低迷そのもので、ついに年間造林面積一〇ヘクタール以下となってしまった(5)。これが八ケ岳四町村民有林造林の移り変わりである。
 
八ケ岳南麓もの語り
県有林造林(『長坂町誌』より 現北杜市長坂町 一部加筆)
県有林造林は、図6に掲げた折り線グラフに表れた線の頂点が毎年平均化されていることに気付くであろう。これは県有林の経営老が「県林務部」という一経営者であることと、計画的に毎年の収穫を平均にそろえるということが原因である。
毎年の予算がほぼ平均に使用され、特別の年に特別の多い予算をくむことができないのは役所仕事の常識であるからだ。折り線グラフに見る昭和三十年の造林面積が一四七ヘクタールと突出しているだけで、他は毎年五〇〜九〇ヘクタールの間で造林を実行している(6)
ところが民有林の場合は、森林所有者が白分の都合によって山を伐採して木材を売り払い、その跡地へ造林するため年間造林面積がまちまちでそろわない。戦後から昭和六十三年までの民布林造林四七五八ヘクタール、県有造林一六九六ヘクタールが災計されている(5、図6)。この造林面積は、伐採即面積と見てよい。それは伐採跡地には必ず植林をしなければないことが、森林所有者に義務づけられているからである。造林面積=伐採面積と考えてもさして間違いはなく、またこの逆も成立することを知ってもらいたい。
 
長坂町に林業はあるか(『長坂町誌』より 現北杜市長坂町 一部加筆)
現代(平成1年時)、長坂町には林業はない。八ケ岳南麓にも林業はないといってよい。戦前戦後を通して木材の不足した時代、特に戦後昭和二十年から三十五年ころまでは、伐採し造林し、それこそどこの山に入っても林業は盛んであったが、今は往時の面影は全くなくなってしまった。それは八ケ岳の造林面積六四五四ヘクタールすべて植林されてしまったからにほかならない。
このうち長坂町は二四八ヘクタールの造林がされたのである。現在(平成元年)は、林業の低迷の時代に入っている。山の手入れもしなければならないが、働き手がいない、山の手入れをしても薪や粗朶が利用できない、だれも彼れもが山などで働くよりは手をきれいにしての仕事がいっぱいだ。若いサラリーマン、婦人の職場、活動の場が広がり、工場勤め、ゴルフ場のキャディーさんなど私ども農村の周辺には八ケ岳南麓だけでも幾百の工場があり、幾多の観光施設、スポーツ施設、民宿、ペンシヨソ、ホテルの要員募集に、南麓町村の婦人の労働範囲が広められた。農業も林業も働き手がなくなった。
さらにここ十年前からの耕地整理、農地集団化事業の導入による土木事業の拡大、国や県費による道路開設、核家族化よる住居不足と、これに伴う公共住宅の建設など枚挙にいとまもない。
これら一連の近代化事業が進められる半面、農林業への施策も乏しくなりつつあるように思う。
長坂町の林家戸数八一六戸(4)に見る通り、一町歩以下の六一六戸が、それに該当する。山持ち、林家といっても、それは大部分が農林家であり、長坂町では農家といった方が妥当かも知れない。次に大きい山持ち一五八戸は一町歩から三町歩の面積があり、これは財産家である。三町から五町歩が二十二戸、五町歩以上が二十二戸となる。これらの山持ち層は大財産家であって、子孫のためにも山を残しておくことであろう。山づくりは昭和の終わりとともにすべて完成され、植えられた木々は年々すくすくと背伸びをして枝葉を日光に向けて広げてゆく。平成の時代は林木成長の時代に入ったのである・
 
美人ぞろいのアカマツ林(『長坂町誌』より 現北杜市長坂町 一部加筆)
長坂町といわず八ヶ岳南麓には、冬もみどりのアカマツ林が多い。寒さに強く風にも強く日当たりのよい地を好んで生育し、しかも年中緑の着物をつげた常緑樹である。山を伐採した跡地に数年後、カヤやハギなどの下草に混じって緑色の小さなアカマツの幼苗が生えているのをよく見かける。アカマツはカヤやハギの生い茂る日陰に育って数年後に、これらの下草を追い越して背伸びをしてしまうと急速に生長を始める。
このアカマツがびっしり生えた幼齢林に人手を加えてやると、さらによい林に変わってゆくものである。みどりの衣の美人たちは、八ケ岳南麓の林の代表選手といってもよいほどに立派な景観をつくっている。
 
八ケ岳南麓民有林野の広さ(『長坂町誌』より 現北杜市長坂町 一部加筆)
(5)に掲げた「八ケ岳南麓民有林野の広さ」を説明すると、人工林針葉樹というのが植林されたカラマツ、スギ、ヒノキのことであり、大部分はカラマツ林に生長している。カラマツは生長が早く寒さに強い樹種であるから標高千ヘクタール以上の山にも、どんどん植えられて今は八ヶ岳高原に美林をつくっている。戦後から「山を緑に」の合い言葉で県有林も民有林も、「植えよ育てよ」の緑の行進曲とともに、八ケ岳南麓の山々をうめ尽くしてしまった。
スギ、ヒノキは寒さに弱いため標高の低い民有地に植えられる例が多い。南巨摩郡下にはスギ、ヒノキの美林が多いが、北巨摩に少ないのはこのためである。これは人問の場合にもあてはめることができる。北極圏に住んでいるカナダエスキモー人を熱帯のマレーシアヘ住まわせ、マレーシア人を北極地方に住まわせると同じ理由になるからだ。長坂町内にもスギ、ヒノキの造林地もあるが、その面積は少ない。集落内の人家の北側や西側には、八ケ岳おろしを防ぐ垣根の役目や財産づくりのため
の巨木がどこにも見られる。
「八ケ岳南麓民有林の広さ」(6)の中に天然林針葉樹、長坂町三一四ヘクタールを見よう。この面積が私たち長坂町内の山持ちのアカマツ林を示している。小荒間、大井ケ森、白井沢はいうに及ばず、秋田周辺、鳥久保、深沢から日野春にかけてのアカマツ林の生長は、八ケ岳南麓一帯の美林として、林業専門家すじでも定評があるほどだ。アカマツは自然林としてそれほどの手入れもいらない極めて経済的な樹種であるため、農業地帯である南麓台上至るところの人家の裏山に育てている。「山づくりは財産づくり」である。財産上同様の価値があることを知らなければならない。
 
八ヶ岳南麓四町村の天然林広葉樹(『長坂町誌』より 現北杜市長坂町 一部加筆)
次に南麓四町村の天然林広葉樹一八五ニヘクタールに目を向けよう。かって私たちの先人である縄文の森の人々は、この林が生命の泉であったとは前にも説明したが、八ケ岳南麓の林内の広葉樹は、食糧の源泉であった。それは彼らの主食であるクリ、クルミ、コナラ、ミズナラ、トチの実、クヌギ、ハシバ、ミ、ツノハシバミなどがびっしり生い茂る山であったからである。
日野春の南端七里ケ岩の台上に立って八ケ岳を眺めると、それはただ南にひろがる広大な山麓だ。この総面積二〇五平方キロメートル、この土地に四町村の人口二万六千人が住んでいる。今から四千三百年前
の縄文中期には四〇〇人程度であった。
縄文似森の住人には、この雄大な景観さえ眺めることはできなかった。世の中は変わった。八ケ岳横断道が開かれ「清里の森」に県営別荘団地が、その南斜面にゴルフ場「丘の公園」が、横断道をはさんで県営八ケ岳牧場が、また四十余年前にこの地を開いたキープ協会の土地が、来年末(平成二年)には清里スキー場がオープソする。この土地はすべて県有林内であって、その面積二千余町歩に及ぶ。
 
長坂町の木と花
長坂町は町の木としてシラカソバを指定した。今から二十年前のことである。その後ヤマツツジを町の花として制定した。
シラカソバは美人だ。全身に白い着物をまとい高原の四季に君臨するかのように、都会をはなれた若い人たちにその冷涼感を満喫してもらっている。寒冷の気侯下に育つ木だ。八ヶ岳南麓干メートルから千五百メートルにかけてはシラカソバ林が目立って美しい。地球上の植物は二十万種以上といわれているが、肌の白い美人はシラカソバ以外に見当たらない。長坂町の木として制定された意味は重く、環境さえよければすくすくと生長するので、町体育センターの周囲をこの木で埋め尽くしたい。そしてヤプツツジも。
森林の荒廃
参考資料「近代山梨県における水害と治水政策・林野行政」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
 
山梨県では甲府盆地笛吹川釜無川の両河川が流れ盆地南部で合流して富士川となり、この三大河川や支流河川により有史以来水害の耐えない地域で、中世後期から近世にかけても水害が多発しており、笛吹・釜無両河川を中心に大規模な治水工事が継続されていた。洪水被害は大雨などの自然的条件以外に山林の荒廃などによる社会的条件によっても発生しやすくなるが、山梨県では近世まで山林は山稼ぎや草木採取を共同利用地である小物成地(入会地)として入会慣行により管理されており、近世には峡東地方などで煮繭用の燃料として木材を必要とする養蚕が普及し、明治期には県令藤村紫朗の主導する殖産興業政策により製糸工業が奨励されたため蒸気機関の燃料に木材が必要とされたため、山林の荒廃が進んでいた。
 
(註、武田時代および徳川時代は,厳しい管理の中で農業生産のために地域の住民が燃料,肥料,用材などの生活必需品を採取していた山林を「入会山」とし,幕府が保護・取締を行うとともに,これらの山林に入会権を持つ村々でも,「入会山」に許可を得て入山し,草木を採取する代わりに,「村申し合わせ」などをして,入会山が荒廃しないよう保護に努めていた。
江戸時代には,山梨県の総面積の約80%を占める林野の47%が「入会山」だった。
時代が明治に入ると、新政府は,「入会山」を「官有地」にし,さらに,明治22年には,皇室の財産を確保する目的で「御料地」に編入した。生活の糧を奪われた地域住民は、一連の措置に対する不満から,愛林の気持は失われ,さらに,林政の緩みが加わって,盗伐,野火,放火などが頻発した。

水害
参考資料「近代山梨県における水害と治水政策・林野行政」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
 
このため藤村県政期にあたる明治前期には、1868(明治元年)、18761882に水害などが発生し、山腹崩壊による土砂の堆積が堤防の破壊を引き起こし、砂防中心の修理工事が相次いで行われ、県財政への負担と民力の疲弊を招いていた。特に明治15年水害は最大規模で、翌明治16年にはオランダ人技術者ムルドルが現地調査を行い、本格的な富士川直轄改修が着手されるなど県の治水事業の契機にもなっている。復旧費用は国庫補助を受けているが、政府では河川輸送から鉄道輸送を重視し河川行政が転換されたため、1880には国庫下渡金が廃止され、水害のたびに県では陳情を行い国庫補助の増額を求めている。このため根本的な河川改修は認識されていたものの、相次ぐ水害の復旧工事で県財政は手一杯な状態で改修事業は進展せず、方針を巡っても舟運重視の政府が推進する西洋式工法により底水工事と県側が洪水防止のために望む高水工事との間で対立が生じていた。このため、18851889189218961898など、水害が多発しており、水害復旧は山梨県の慢性的な懸案事項となっていた。
 
御料林問題
参考資料「近代山梨県における水害と治水政策・林野行政」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
 
同時代のムルドルらをはじめ多発する水害の原因には山林荒廃が指摘されているが、現在ではその背景には御料林問題があると考えられている。1873地租改正に際して政府は当初、原野開拓による物産増収を図るため旧小物成地の払い下げを方針とし、山梨県でも県令藤村は参事富岡敬明とともに県北西部にあたる北巨摩の日野原開拓など林野や原野を官有地として開拓し払い下げを行う政策を行っていた。1881には政府の方針が転換し、払い下げは差し止められ林野官民有区分が実施され、県林野の7割にあたる35万町歩の旧小物成地は官収され、1889には皇室御料に編入され入会慣行が制限された。これらの政策により県民の間では入会慣行との衝突や否定に至る不安が生じ、林野の乱伐や盗伐、放火や失火などが多発し、山林荒廃を押し進めていた。
 
明治40年・43年水害
参考資料「近代山梨県における水害と治水政策・林野行政」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
 
1907年(明治40年)水害は、1907821日夜半から26日にかけての台風の影響による記録的大雨により河川が乱流し、土砂崩れや堤防の決壊、橋脚の破壊などを引き起こし、家屋の全半壊や集落の孤立、耕地の流出や埋没、交通の寸断など甲府盆地東部の峡東地方中心に多大な被害を出し、死者は233人、流出家屋5000戸余りで、山梨県の近代における最大規模の災害となった。また、1910(明治43年)にも大規模な水害が発生している。
水害の様子は、同年823日から1010日まで被災地を視察した警察官の巡視日記である『明治四十年八月山梨県下水害地巡視日記』(古文書雑輯、山梨県立博物館所蔵、全文が『山梨県史』資料編14近現代1政治行政Ⅰに収録。)に詳述されており、同書は被災地や避難所の様子のほか行政の救援・医療体制、水害要因の考察などが記されており、県長官が災害時においても教育を重視して訓示を行っていることや、御真影を避難させた逸話など、同時代の社会状況を示す資料としても注目されている。
恩賜林(県有林) (『長坂町誌』より 現北杜市長坂町 一部加筆)
一、恩賜林の由来
○ 山くえ水は逆巻きて うまし田畑を押流し うつろい変る国原や 茂る民草色あせぬ
○ みめぐみ深き大君は み心いたくなやまされ 御料の林いとさわに 下し給いしかしこさよ
○ 青垣山の色深き 甲斐のおす国ゆるぎなく 栄ゆる御代の千代八干代 君の恵み仰ぐかな
 
この恩賜林記念日の歌は、大正六年から第二次世界大戦終結まで県下小中学校で歌われた。今はこの歌を知るものも少なくなった。
八ケ岳山麓の恩賜林は7700ヘクタールである。この御料地の全部をご下賜になったということが、どれほどありがたいのか、当時の小学生にはわからなかった。山は昔からそこにあり山に入って薪をとり草刈りもした。それなのに御料地を山梨県でもらい受けて、それがどうしてありがたいのだろうかと、幼な心をいためたものだった。
恩賜林記念日の歌を県下小中学校では歌わなくなったが、毎年三月十一日、甲府舞鶴城にそびえ建つ記念碑の下で今もこの歌をうたう一集団があった。その名は山梨県林業研究会の人々である。
当時、ご下賜の山林面積30万町歩、後に実測した面積は十六万ヘクタールである。この広犬な面積は山梨県下山林総面積34万ヘクタールおよそ半分にあたる。この山の木を売ったお金でいろいろの物を買うことができた。
「山梨県はおこずかいをもらったのだ」
と教えてもらえば幼な心を傷めずにすんだのに、教育のあり方にも注文をつけたい。
恩賜林の由来(『長坂町誌』より 現北杜市長坂町 一部加筆)
ここで恩賜林ご下賜の由来を述べたい。国を治める者は山を治めることである。今でも「治山治水」という言葉があるように、先ず水を治めることは山を治めることである。
明治時代は学制改革、市町村制度の確立、官庁や統治行政の改革に多忙のため、山を治めることに手が回らなかった。このため当時の国有林野は荒れるばかりであった。八ケ岳の県有地は当時国有地(御料地)であった。自分たちの裏山は昔からあった山であり、多少の制限はあったにせよ、薪も木材も採取することができたのに、明治22年から44年までの20年間は御料地に編入され、きびしいおきてにはばまれて、地元の人たちは裏山の薪も木材も採取することができなくなった。
まさに明治政府の林政の欠如が住民の怒りをまねき、山林に入り木を伐り薪をとり、自由自在に山の木を伐採したのである。 
これは長年にわたる農民一撲にあたいする行為であった。
明治の大水害(『長坂町誌』より 現北杜市長坂町 一部加筆)
明治40年の夏8月22日から降りはじめた雨は止むことを知らず、降る、降る今日も明日も、ついに一週間降り続いた。甲府市で320ミリ、韮崎市で400ミリ・石和町500ミリ・猿橋町で720ミリ・丹波山村610ミリ、中野村650ミリを記録した。大雨の後にくるものは、きまって大洪水であり水害である。降った、崩れた、こわれた、つぶれた、流された、何ともみじめな姿だった。まさに天罰がくだった。天の怒りであり山の怒りでもあった。その被害額実に1300万円、時価にして400億円の巨額。家や田畑を失い、橋を流されて困り果てた住民の姿が目に浮かぶ。
 
天災は無慈悲なものである。水害による復興のさなか、またまた大水害に見まわれた。
明治43年夏のことである。一度といわず二度の損害に地元山村民の打撃は大きかった。「天災は人災なり」と地元山村民の山林の乱伐行為は当然のことながら、これ以上に明治政府の悪政が問われることになり、これを契機として林政の一大転換をはかることになり、政府は御料地のご下賜に踏みきったのである。
それは明治44年3月11日のことで以降、山梨県は「恩賜林」と呼び、今まで78年間(平成2年)この恩恵に浴している。(註 皇室から下賜された山林は,恩賜県有財産(恩賜林)と呼ばれ,山梨県内の林野総面積34haの半分に当たる16万4千haにも及んでいる。)

恩賜林造林の様子(『長坂町誌』より 現北杜市長坂町 平成2年 一部加筆)
「ヤマがあってもヤマナシケソ」と、こんなクイズまがいの言葉がある。実はこの反対で山ばかりの県である。山梨県の総面積44万ヘクタールのうち山林は77%にあたる三十四万ヘクタールで、このうち恩賜林の広さは16万ヘクタールデ、八ケ岳の県有林は7400ヘクタールとなっている(3)
山梨県は山持ち県として全国でも有名だ。北海道は道有林、山梨県は県有林(恩賜林)があり日本一を争うほどの大地主である。
山をつくることを「造林」という。一般の人たちは「植林」と呼んでいる。明治44年から昭和55年までの造林のようすをグラフでした(3)。折り線グラフの当初から大正8年までは、それほどの事業の伸びがなく、翌年から昭和4年までは急速に造林面積が上昇した。この最高面積420ヘクタール、これは1年間の造林の足跡を示している(3)
昭和19年900ヘクタール、この年から年度により多少の移り変わりがあったが、
昭和36年ついに1700ヘクタールに達した。その後十年間急速に上昇し、
昭和43年の面積はピークに達し、年問造林面積2700ヘクタールとなり、以降減少の一途をたどった(4)
山づくりはつらい仕事である。木を植えるために人里から遠く離れた奥山へ5キロ以あるいは10キロの山道を毎日毎日通っての作業である。昔は今のような車の入れる道路はなかった。鹿や猪や熊の通う道である。山小屋へ泊まって作業もした。一日中、急な斜面を登ったり降りたりして苗木を植えるのである。1日200本くらいの苗木を山の上へ背負っての手作業は、とてもつらい仕事だ。こうして山づくりを始めて78年、県有林はどこもかしこも立派な山に変わって行った。県下造林総面積58000ヘクタール、造林費用は実に100億円となった。長い年月をかけ、幾多の困難を乗り越えての恩賜林の山づくりである。一体、どれくらいの人手がかかったのであろうか。ざっと計算しても300万人を要した。
 
恩賜林を売ればどうなるか(『長坂町誌』より 現北杜市長坂町 一部加筆)
少々無暴な話になるが、今かりに5万8千ヘクタールの山を売ることにして、この値段を計算してみることにした。1平方の山林の価格を1万円としたが、この値段は少し安いけれど、それでも売ることにした。1ヘクタール当たり1億円となり、5万8千ヘクタールだから、これに1億円を掛けると五兆八千億円になる計算だ。このお金をそのまま貯金すると、年利率を3%と見て1年間の利息は1740億となる。
恩賜林は大金持ちだ。この山林を土地つきで買うには5兆8千億円の金が必要だ。こんな金持ちはどこにもいない。政府でさえも買うことはできないであろう。だから、この山は売らないことにした。大切な山だからである。県有林はこのほかに8万ヘクタールの山を持っている。
八ケ岳の赤岳、権現岳、三ツ頭、編笠山の頂上や深い谷や急な岩石地や、高川、古杣川、川俣川、大門川の流域の広い河川敷も含まれている。もちろん富士山、駒ケ岳、鳳風三山、北岳、仙丈ケ岳も全県下の高山をも含めてのことで、立木のないところ、木を切って売ろうにも運び出すことのできたい土地が八万ヘクタールもあるのだ。県有林は長野県と比べて比較にならないほどの大地主である。この広大な恩賜林を管轄している役所が県庁内にあり、山梨県林務部と呼んでいる。全国で林務部を単独に置いている県は山梨県と北海道のみで、他は農業や水産業をかねた農林水産部などの名称で呼ばれている。
 
 

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