サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

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ビキニ水爆実験と″死の灰″
世界中を汚染した放射能 日本の原発事故
(『地球環境が危ない』増田善信氏著 発行者 山本功氏 新日本出版社発行1990:4:20)
 
 1954年3月1日、静岡県焼津港のマグロはえ縄漁船第五福竜丸(140トン、乗組員23名)は、東経166度35分25秒、北緯11度53分25秒付近の洋上でマグロはえ縄漁に従事していた。ちょうどはえ縄を投縄後、エンジンを止めて漂池中の午前3時50分(日本時間)頃、西方に突然強烈な閃光が望見され、夜明け前の空と海が真昼のように照らし出された。それから7、8分してにぶい爆発音が聞かれた。火の玉の方向にキノコ状の雲ができ、それが空一面に広がってどんよりと曇ってきた。午前6時半ころより5、6時間白い粉が雪のようにチラチラ断続的に降り、船の甲板は靴の跡がくっきりとっくように真っ白になった。これがビキニ環礁でアメリカが実施した水爆実験によって吹き上げられた″死の灰″で、水爆実験場から約160キロメートル、アメリカがあらかじめ設定していた危険区域からさえ約60キロメートルも離れた第五福竜丸の上にまで降ってきたのである。ビキニは東経165度25分、北緯11度35分に位置し、マーシャル群島の中にあるサンゴ礁の島である。
アメリカはこの年の3月から5月にかけて、はじめての実用規模の水爆実験を、このビキニとエニウェトク環礁で実施し、その第一回目の実験がこの3月1日のブラボー爆発とよばれる実験であったのである。
 異常な閃光、爆発音そして降灰という現象を体験し、第五福竜丸の乗組員は、ビキュ環礁の核実験に遭遇したのであろうと考え、そうそうに漁を打ち切って帰途に着いた。彼らは身体についていた粉は洗い落としたが、3日目ころから顔がうす黒くなり、4日目ころから耳にカサブタができ、髪の毛が抜けはしめた。″死の灰〃による急性放射線症に冒されたのであるが、乗組員はよもやそのような病気に冒されているともしらず、3月14日早朝焼津に帰港した。
 当日は日曜日であったが、身体の不調を感じていたので、焼津協立病院で診察を受けた。乗組員を診察した医師は、ビキニで水爆実験が行われたことを知っており、しかも症状がいわゆる原爆症に類似していたので、とくに症状の悪い二人を東大病院に紹介した。翌15日、東大病院で診察を受けた二人のうち一人はただちに入院、他の一人も16日に入院することになった。
 この事実は「読売新聞」3月16日付朝刊でスクープされ、全世界に報道された。これがいわゆるビキニ水爆事件の発端である。早速医師団が組織され、東大病院に入院した二人以外の全員にたいする診察が行われた。その結果、全員が焼津協立病院に入院し、二週間後に東京に運ばれ、東大病院と国立東京第一病院に入院した。第五福竜丸の乗組員がどれだけの放射線量を受けていたかは正確にはわからなかったが、彼らがもち帰った″死の灰″の分析の結果などから、23人中6名が50%致死線量以上の外部被曝を受け、100パーセント致死線量に近い被曝を受けたと推定される人もいた。これはガンマ線の被曝線量であるが、乗組員はこのほかにベータ線の照射を受け、同時に、体内にとり込んだ放射性物質からの内部被曝も受けていたと考えられる。
 半数死線量以上と推定される外部被曝を受けた久保山愛吉さんは、約半年後の9月23、「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」という言葉を残して死亡した。広島、長崎につづいて三度日本人が原水爆の犠牲になったのである。
 3月1日の一発の水爆で風下1000キロメートルを越す範囲に、長期にわたって深刻な影響がもたらされていることが明らかになった。図40(略)はこの3月1日の水爆実験による放射性降下物の影響範囲を示したものである。この図で破線で示した領域は、アメリカがあらかじめ放射線の影響があり得ると考えて設定した、船舶の航行禁止区域である。しかし、この区域以外にいた第五福竜丸をはじめロングラップ島やアイリングナエ島にも死の灰が降った。この図の単位は96時間のグレイで、3グレイの線の内部が、そこに4日間滞在すると半数以上の人が死亡するという範囲である。
 アメリカは1946年から58年まで、ビキニ環礁を原水爆実験場として使用し、23回にわたって実験を行なった・そのためビキニの住民は強制的に立ちのかされていたが、ロングラップなどの島じまの住民はそのままであった。そのため1954年の一連の水爆実験によって大きな被害を受け、ロングラップ島67人、アイリングナエ島19人、ウトリック島57人が被災し、現在までに約50人が死亡したといわれている。ビキニの島民は60年代に一度帰島したが、島の汚染が甚だしいのでふたたび離島し、現在にいたるもまだ帰島できないでいる。
 ビキニにおける水爆実験の影響は海にも現れた。放射能を含んだチリが海流にのって運ばれ、太平洋全域が汚染されたのである。海水が放射能に汚染された結果、漁船や魚が汚染され、漁業関係者は大打撃を受けた。この年の11月までに合計638隻の汚染漁船が検出され、457トンものマグロが廃棄された。廃棄処分にされた汚染マグロのとれた海域は、太平洋ほとんど全域にわたっており、いかに放射能汚染の影響が大きかったかがわかる。
 
(注) グレイ(Gy)
放射線の吸収線量の単位。吸収線量とは放射線の種類に関係なく、どれだけの放射線エネルギーを体が吸収したかを表す量。休重1キログラム当たり1ジュールのエネルギーを吸収した場合がIグレイである。
 
過去にもあった東京電力・福島第二発電所三号機事故 
世界中を汚染した放射能 日本の原発事故
(『地球環境が危ない』増田善信氏著 発行者 山本功氏 新日本出版社発行1990:4:20)
 
わが国の原子炉でも、放置すれば大事故になりかねない事故がたびたびおこっている。たとえば1997年7月、関西電力・高浜原発一号機で、一次冷却系のなかにとり付けてあった、78キログラムの金具が脱落して、ポンプやパイプを破損する事故がおこった。
さらに1989年1月には、東京電力・福島第二発電所三号機で、再循環ポンプが破損し、金属片が原子炉内部にまで散らばるという事故がおこっている。チェルノブイリやスリーマイル島の事故を含めてこれらの事実は、現在の原発は、放射性廃棄物の処理を含めて未完成な技術であることを示している。
世界中を汚染した放射能 アメリカのスリーマイル島でおこった原発事故
(『地球環境が危ない』増田善信氏著 発行者 山本功氏 新日本出版社発行1990:4:20)
 
 このようにチェルノブイリ原発事故は史上最大、最悪の事故であったが、1979年3月28日にアメリカのスリーマイル島でおこった原発事故も大きな事故であった。この事故は原子炉の炉心を冷やしている冷却水がなんらかの原因でなくなってしまう冷却水喪失事故とよばれるもので、炉心溶融一歩手前の事故であった。この事故で環境に放出された放射能は希ガスが250万キュリー、ヨウ素131が15キュリーと評価され、当時は商業用原発史上最大の事故といわれた。
世界中を汚染した放射能 チェルノブイリ原発事故
 
(『地球環境が危ない』増田善信氏著 発行者 山本功氏 新日本出版社発行1990:4:20)
 
 チェルノブイリ原発事故は、このように発電所周辺に重大な被害を与えただけでなく、放射能を全世界にまき散らした。放射能雲は、その時どきの風に運ばれてヨーロッパ全域を汚染し、さらにその一部は偏西風にのって東に流され、日本の上にもやってきた。図38(略)は1996年5月から六月にかけて、つくば市にある気象研究所で観測した、チェルノブイリ原発事故に起因した放射能の濃度の変化を示したものである。観測した放射性物質は、雨などにあまり影響されないルテニウム103という元素である。この図から、放射能を含んだチリは、5月3日にはじめて日本の上空に達し、じょじょに強さを増して、5月9にピークに達し、それ以後一度減少し、再びじょじょに増加して5月26日に第二のピークを示し、それ以後急速に減少していることがわかる。第二のピークはおそらく地球を一周してきたもので、薄れながらも、塊りになって地球の周りを二回はまわっていたことが推測される。
 気象研究所の青山道夫ら(1997)の調査によると、1987年5月の一ヶ月のセシウム137の蓄積量は一平方メートル当たり129・8ベクレルで、これは大気中の核実験がもっとも頻繁に行われた1963年五月の値とほぼ匹敵するものであった。事故直後には日本にまでかなり高濃度の放射性物質が流れてきたことがうかがえる。ただし、日本でのチェルノブイリの事放によるセシウム137の蓄積量は、1960年から82年までの核実験による蓄積量の1・6〜4・3パーセントで、なんといっても長期的にみると、核実験による放射能汚染の彭響か大きいことがわかる。
 気象研究所の木村富士男・吉川友章は、チェルノブイリ原発の事放による放射性物質がどのように地球規模にまで拡散していったかを、数値シミュレーションの方法で調べた(『気象集結』六六巻第三号、1988年、499ページ)。
彼らは気象庁が日常使っている予報モデルを用いてまず風の場を予報し、次いでこの風の場を使って、放射性物質がどのようにして広がっていったかを求めたのである。ただし、二週間もの先が予報できるほど、今の予報モデルの精度は良くないので、二日ごとに実測の風の場におき直して、予報する方法を採用した。この種の問題では、どれだけの放射性物質が放出されたか、放射性核種は何で、全体の減衰率はいくらかなどを正確に知る必要がある。しかし、これは不可能に近いので、一個の粒子は五〇〇〇キュリーの放射能を帯びていると仮定し、図37(略)の放出放射能を与える数の粒子を追跡した。ただし、二週間くらいの間は放射能の減衰はないと仮定した。このような仮定をすると追跡する粒子の数はおよそ1万個になった。この粒子が図37(略)の放出量に比例して原発から放出され、その粒子は高度500メートルから1000メートルの間に一様に分布するものと仮定した。
 図39(略)はこのような仮定のもとで追跡した粒子を地表面に投影したときの分布図である。事故から約1日後の27日の0時(グリニッチ時)には、放射能を帯びた雲は北北西に移動している。これは26日には地表付近の風が南南西から吹いていたためである。次の日にはバルト海を越えてフィンランドとスウェーデンに達した。ソ連が事故を発表する以前にスウェーデンが、ソ道の原発事故を発表したのは、スウェーデンでこの放射能雲を観測したからである。 
29日にはフィンランドの上の放射能雲の一部は強い偏西風に流されて束の方に移動している。一方、原発の南南西にも放射能書が広がりはしめた。これは28日に風の方向が変わったからで、主として28日に放出された放射性物質が南南西に流されたからである。
 翌30日になると、北の部分はさらに東に流され、5月1日○時にはバイカル湖の上を通過した。一方、南の部分も早い速度で移動を開始し、これもまたシベリアを越えて東に向かった。これら放射能書を東に移動させた強い偏西風は、26日から28日にかけてシベリアの北西部にあった強い低気圧にともなうものであった。この低気圧はその後シベリアの北を通って東に移動し、5月1日にはシベリア東部で南東に方向を変え、サハリンと北海道付近を通過して5月3日には太平洋に達した。この低気圧の西の部分の北西の風で、放射能書は南に流され、5月2日に朝鮮半島に、5月3日には日本に達した。これが図38で示した5月3日に日本ではじめて放射能が観測されたものである。しかし、東に移動した放射能書は少量で、大部分は長期間ヨーロッパを覆い、ヨーロッパ中を汚染した。
 チェルノブイリ原発事放でとくに深刻だったのは放射能による食物汚染であった。野菜が汚染されただけでなく、牛乳が汚染され、赤ん坊をもった母親はパニックにおちいった。ソ連各地で牛乳中に含まれたョード131を調べたところ、ウクライナや白ロシアなどでは、ソ連政府の定めた規制値より100倍も高い放射能が含まれていた。政府はすべての子供の施設にヨード剤を配り、汚染した牛乳の摂取制限をした。ラプランド地方ではトナカイが食べる苔が汚染されたため、トナカイの肉が汚染され大問題になった。ギリシャではパニック状態が発生し、2500余人の妊婦が人口中絶をしていたとさえいわれている(野口邦和「出生数に見るチェルノブイリ原発事故の影響」『日本の科学者』 一九八八年四月号、三六ページ)。

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