サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

富士山資料室

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<諏訪ノ森・草山三里・木山三里>ほか
<富士山(『山梨県の地名』「日本歴史地名大系」19)>

吉田宿の南限に「諏訪の森」があり、そこに浅間明神(現北口本宮冨士浅間神社)が祀られる。登山道はここを基点として富士山頂へ延びる。ここから騮(リュウ)ヶ馬場・馬返までが「草山三里」と俗称され、そこから先は灌木帯になるが、森林限界にあたる天地界までの林の中の道を「木山三里」という。

<オハマ(御浜)・焼山三里>
天地界は別称を「オハマ(御浜)」ともいい、海岸の浜に見たてられている。その先の頂上までの樹木のない焼石の道を「焼山三里」という。
<鈴原大日・中宮大日・浅問大菩薩・大日如来>
草山と木山の境に鈴原大日が、近接する御室に御室浅間神社が祭祀される。木山と焼山の境界天地界に中宮社・中宮大日が祀られ、そこに浅問大菩薩と、その本地仏の大日如来が奉納された。

<富士山本宮浅問神社(現富士宮市)の神域>
須走口と合する大行合はのちの八合目である。そこより上位は富士山本宮浅問神社(現富士宮市)の神域とされ、昔から信仰上の大きな境界とみなされていた。
<富士山は、本地垂迩の山>
吉田口を中心としてみた富士山は、本地垂迩の山として、信仰上の各境界ことに大日如来とその神変浅問大菩薩が祀られる空問を構成していた。

<道者の登山>
道者の登山は御山を汚さないように、垂直的に区切られた信仰空問を、素早く登って禅定を遂げ、そのまま下山する形態をとっていた。
<近世の登山>
近世になると、信仰を横に展開する「富士行者」の修験行(富士行)をとりこみながら、整えられていった。一ヵ所に滞留しながら修行を重ねたり、御中道巡りに象徴される荒山を踏む回峰行が行われるようになる。また登山の大衆化とともに、登拝の目安とし旧来の信仰地を基礎として合目が設定されていく。


<写真>

こうした樹木が昔は林立していた。いつの時代か伐られて現在のモミやカラマツが植林された。こうした天然樹木は静岡側には多く残されている。 

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<御師>
<富士山(『山梨県の地名』「日本歴史地名大系」19)>
御師は北口の浅問明神(現富士吉田)まで道者を案内し、そこからは強力がついて荷物を担ぎ道案内を行った。吉田御師の各宿坊に宿泊した道者は翌日に山頂を目指して登山した。
近世初期頃の記録「印むすび」(筒屋文書)によれば登拝は以下のようになされた。
1)道者は登山に先立って水垢離を取り、着衣する。
2)浅問明神に向かい、仁王に参拝、大鳥居をくぐり、随神に詣でる。
3)鰐口を鳴らし、狛犬を拝八で社の石段を登り、
4)扉の鍵を開け、扉を開く。
5)奉幣して神楽を執行する。
6)道者は登山道に踏出し、御師は登山門で見送る。
7)下向の手始めに鐘を撞き、社の扉を閉じて神霊にいとまごいをする。
8)その後下向の道順に従って、随身・大鳥居・仁王門を拝して自坊に帰り着く。
このようにして御師は道者を送り出した。祈祷の随所で印を結び、真言を唱えている。
延宝8年(1680)「八葉九尊図」(正福寺蔵)に表現された浅問神社付近の施設に対応し、この時代までこのような形で登拝が行われた。

<関連サイト>
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%C9%D9%BB%CE%BB%B3%B8%E6%BB%D5&ei=euc-jp&fr=usf&x=52&y=10

<もっとも親しい人のサイト>
http://sky.geocities.jp/denntukujp/index.html
http://blogs.yahoo.co.jp/asamaookami/1745633.html
http://blogs.yahoo.co.jp/hujisyoki/1656124.html

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〔富士山禅定〕
<富士山(『山梨県の地名』「日本歴史地名大系」19)>

富士山などの霊山に信仰登山することを禅定といい、それを中心的に行うのは修験者たちであった。また登拝の最終的な到達点である頂上のことを禅定と称する場合もある。
室町時代には、先達に引率されて一般の人々も盛んに登山するようになる。そのような登山者を道者・導者という。
「勝山記」によれば明応9年(1500)6月には
「富士へ道者参ル事無限」
であったが、関東の戦乱のために本来北ロヘ到着するはずの道者がみな「須走」へ着いて、そこから登山したとある。
<庚申登山の初見>
なおこの年は庚申年で富士山の縁年にあたる。縁年は富士山の全容が出現したのが、孝安天皇92年の庚申の年だとする縁起に由来し、この明応9年(1500)が庚申登山の初見である。
<熊が道者を三人食殺す>
同書永正5年条には、6月1日の夏山開きの初日の出来事として、富士山禅定(頂上か)に大嵐が吹荒れて道者一人がたちまちに死に、そのうちに内院噴火口かから大きな熊が出てきて道者を三人食殺したという記事がある。
夏山期には吉田・川口(河口)の御師宿坊は富士禅定を遂げようとする道者で賑わった。川口御師の宿坊は道者坊ともよばれ、おもに西関東から中部高地に檀那所を所持した。吉田御師は古くは東関東をおもな檀那所としていた。

<私のサイト>
http://sky.geocities.jp/denntukujp/index.html

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〔文学に現れた富士山〕
<富士山(『山梨県の地名』「日本歴史地名大系」19)>

富士山は詩歌・物語・紀行文などの文学にしばしば登場する。古くは一般に「駿河なる富士」と認識されており、駿河側から記したものがほとんどである。
奈良時代には前述のように福慈岳、「不尽の高嶺」などと記された。
平安時代初期には都良香の「富士山記(本朝文粋)」が生れた。同書は都にあって記され、都人の富士山の認識を示すものであるが、実際に見分した者に取材して記されたようで、頂上の噴火口の記述などは具体性をもつ。
この頃には「聖徳太子」や「役行者」が富士山へ登ったという伝説はよく知られていだ。

<役行者の富士登山・登頂の最初の人物>
役行者の富士登山については「日本霊異記」以降諸書に記されるが、伝説の域を出ない。実際に登頂したことが確実なのは、おそらく久安5年(1149)の富士上人末代が最初であろう。

<「竹取物語」>
「本朝世紀」(久安5年(1149)年4月16日条)。「竹取物語」は、不死の薬を捨てた山として「その山をふじの山とは名づけける」という山名の語源を説き、

<伊勢物語>
「伊勢物語」第九段東下りでは五月末に雪を冠した富士山を見て「時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪のふるらん」の歌が詠まれた。

<更級日記>
「更級日記」には寛仁4年(1020)上総国から帰京の途次、駿河国を通過する場面に
「富士の山はこの国也」
として、
「雪の消りる世もなく積りたれば、色濃き衣に、白きあこめ着たらむやうに見えて、山の頂の少し平ぎたるより煙は立ちのぼる。夕暮れは火の燃え立も見り」
と記している。その後も「海道記」や「東関紀行」などの作者が、東海道を下る途中で富士山を見て歌を詠んだ。

<時宗二世他阿真教>
また時宗二世也阿真教も御坂峠を越えて河口から富士山麓を通過した。(一遍上人絵詞伝)。也阿は御坂峠付近の山路で
「雲よりもたかく出たるふしのねの月にへたゞるかけやなからん」
と詠んだ。これは甲斐側から富士を見た数少ない作品の一つである。
なお「富士晴嵐」は甲斐八景の一。

<関連サイト>

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%C9%D9%BB%CE%BB%B3%A4%C8%CA%B8%B3%D8&ei=euc-jp&fr=usf&x=23&y=6


http://www.geocities.jp/komagatake1943/
http://book.geocities.jp/hujiyamabunka/index.html

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〔北面の修験拠点としての御室〕
<富士山(『山梨県の地名』「日本歴史地名大系」19)>

『梁塵秘抄』「巻二霊験所歌」には、
「四方の霊験所は、伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の富士の山、伯書の大山、丹後の成相とか。土佐の室生門、讃岐の志度の道場とこそ聞け」
の歌があり、霊験著しい寺杜、修験の道場の一として、伊豆山権現(現静岡県熱海市)とともに富士山があげられている。
平安末期には浅問神の信仰に修験道が習合して、富士山が霊験所の一として広く知られていたことを示す。

富士修験の信仰拠点は南口の駿河の村山であるが、北面の二合目、御室浅問神社が鎮座する、御室の地も山内の信仰拠点として整備されたようである。
1)文治5年(1189)7月28日、日本武尊(ヤマトタケル)像が造られ、この地に納められた。背面の刻銘(甲斐国志)には
「奉造立勧進走湯山住金剛仏子覚実覚台坊二十度仏子興福寺運珍円浄作」
とある。高さ3尺2寸5分、髪は左に垂れて左腋に入り、右手は欠損していて、容貌は不動尊に似ていた。
2)建久3年(1192)4月9日には女体合掌の神像が造られ、その背面刻銘(甲斐国志)には、
「奉造立勧進走湯山住金剛仏子覚実覚台坊廿五度仏師興福寺庄定海宝月坊作」
とある。両像ともに現在所在不明。
銘文の真贋を見極めるのは難しいが、両像の勧進者覚実坊・覚台坊は伊豆山(走湯山)に住する人物で、伊豆山権現と富士の修験との交流が示されている。

御室には近世初期頃までに現御室浅問神杜の西側に「役行者」を祀る役行者堂が
建てられていた(「勝山記」天文24年条)。
「甲斐国志」にも、二合目の役行者堂は右左口(現中道町)の円楽寺の兼帯する堂で、同寺はもと山伏の住山だったので、像をこの地に祀ったのだろうとしている。
 円楽寺は近世を通じて富士修験者の拠点としての地位を保った。現在本堂の左脇
に祀られている役行者自刻と伝える役行者および前鬼・後鬼像、伝役行者老母像は、昭和36年(1961)の大風で倒壊した役行者堂に安置されていたものである。
役行者像の胎内には延慶2年(1309)5月修理の墨書銘があり、12世紀末から13世紀初頭の特色を示すという。
円楽寺は平安時代後期頃には、すでに富士修験の拠点として栄え、2合目御室の役行者堂は同寺の富士山における信仰施設であった。御室に富士山中最古の社として浅問神社が鎮座するのは、修験道と結合して成立した垂述の神である浅間大菩薩を祀る場として整備されたからにほかならない。

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