サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

富士山資料室

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さて、その富士の名称であるが、何時頃から、その名称が起原されだというのに、万葉の詩人これを表して、
  ……駿河なる富士のたかね……と歌われ、東歌の中にも夙く数甘の駿河国の人の作れる短歌があり、日本に於いても古きその名であるが、バッチェラア氏の説によるとこれ、火を意味するアイヌ語であるということである。星野博士も、かつて、フジは、東洋諸国に於いて、火の意味に用いられたことを言っている。即ち、
 「東国典地覧」中、漢城府の下に
   三角山、在揚州之境、一名筆山一新羅称貝児山、云云」
 とあり、
 宋の陶穀が「清異録」には、
   呉越経総監承祐、富傾覇朝、用千金市得石緑一塊、
   天資嵯峨如山、今匠治為博山香爐、峰尖上作一暗□
   出烟則聚而且直、一穂凌空実美観視、親傚朋之呼不二山、云云」
   富士の研究「富士の歴史」
 ホクジの転化フクジの略で、高く綺麗なる義。
 フジナの略で、火山の略。
 フシロの略で、頂上常に雪を載けり義。
 フセの転訛で、物を覆せたる義。
 アイヌ語で、フンチまたはウンチヌブリで、火山または女神の山の義。

   諸書に見える「ふじ」

  常陸風土記  福慈
  万葉集     布時・布土・不尽・布仕・不死
  日本霊異記  富岻・浮土・輔時・附神・不死
  続日本記    はじめて「富士」の名を最初に記す。延暦16年(797)
  日本後記   「富士」 承和8年(841)
  文徳実録    「富士」 元慶3年(879)
  三代実録    「富士」 寛平4年(892)
  
  富士山異名考

  和らかな国にむっくり芙蓉峯
  近江から一夜に咲いた芙蓉峯

  伊勢物語
 
  二十山・時知らぬ山・塩尻の山
  時知らぬ山は富士の峯いつとてかまだらに雪の降るらん
 
 「常陸風土記」には、副慈神に関する伝説が伝えられる。
 むかし、祖神尊(みおやのみこと)諸神の宮処を巡行なされて、駿河国の副慈岳(即ち富士山)に到った時にはもう日も暮れ方であったので、一夜の宿を請われた。
 時に、副慈神の答えのたまわく、「今夜は、新嘗祭で、家内中物忌していますから、おとめ申すわけにはまいりませぬ。」と。
 それで、祖神尊、恨み告げたまわく、
 汝(いまし)が親に、何故宿を借さないのか。さればよし、汝がいるところの山は、生涯夏でも雪霜に襲われて、人も登らず、飲食物を献るものも無からしめ富士を望んとおおせられて、祖神尊は、更に、筑波岳までまいられて、一夜の宿を誘われた。筑波 の神は、今夜は新甘祭でありますけれども、敢てお言葉に従いましようといって、直に飲食を設けて敬い仕え奉った。
 そこで、祖神尊は、歓然として謡いたまうよう
 「愛しきかも我が胤、巍きかも神つ宮、天地を竝斉しく日月と共同じく、人民集い賀び、飲食富豊に、代々絶ゆることなく、日々に弥栄えて、千秋万歳、遊楽窮らし。」
 と謡いたまわれた。それで、副慈岳は、常に雪ふりてりで登ることを得ず、筑波岳は、往集い、歌い、舞い、飲み、喫いすること、今に至るまで絶えないのだということである。
     
   
  十種異名 (「富士山」史話と伝説 遠藤秀男氏著より。) 

  養老山
 ここより参詣でする者は、不老長生を約束される。
  花角山
 木花咲耶姫が鎮座することによって、花が千秋に咲き乱れる様を言う。
  行向山
 赤心をもって参詣する者には、心が行向して迎え、これを加護してくれる。
  来集山
 全国の神仏が参集してくる。
  妙光山
 白雪の輝き、頂上の剣が峰や火口の池を鏡に例え、そこから発する光をいう。
  仙人山
 不老長寿の薬草があり、これを食すると長生きが出来る。
  穀聚山(こくじゅ)
 米穀を集め積み上げた形に似ている。
  天地和合山
 天地を繋ぐ山の意味で、天神地祇がここに鎮座する。
  盤石山
 その形から言う。四方に溶岩や盤石を流したところから言う。
  富士山
 このはなさくや姫が請願された言葉による。

  十五種異名
  不尽山  常に雪の尽きない為にいう。
  理智山  金剛界と胎蔵界の理智を集めた所。
  蹲虎山  (そんこ)頂上に内院に虎の蹲った形をした岩がある。
  行向山  聖徳太子が登山したとき、諸神仏が向かえに出た。
  四八山  頂上の八葉などのほかに、32相仏相を表す。
  四方山  四方均等であるため。
  富士山  いっさい天地の富をつかさどる為に用いる。
  来集山
  仙人山
  穀聚山
  般若山
  養老山
  天童山
  七宝山
  妙香山

   九種異名
  竹取山
  羽衣山
  東山
  未通女子山(おとめこ)
  四季なか山
  国の深山
  神楽山
  鳥の小山
  波の深山

   十種異名
  神路山
  三重山
  見出山(みたで)
  二十山(はたち)
  三上山」
  新山
  塵山
  常盤山
  鳴沢の高嶺
  藤岳

   都良香
  語源を、ふもとの富士郡から出たものとする。

寛永4年
1627
11月23日、 富士山噴火、江戸に四日間黒色の灰が降る。   
日本災異記

寛永10年
1633
秋元泰朝、郡内領主となる。


正保元年
1644
富士山噴火。  
日本災異記

正保3年
1646
富士講の基礎をつくった長谷川角行が106歳で人穴(富士宮市)において死去と伝えられる。


正保4年
1647
富士山噴火。   
日本災異記

慶安元年
1651
富士山噴火。   
日本災異記

元禄10年
1697
河口浅間神社の鳥居が再建され、現在に伝わる。


元禄13年
1700
富士山噴火。   
日本災異記

宝永3年
1706
富士山噴火。   日本災異記


宝永4年
1707
富士山噴火。宝永3年十一月二十二日ら二十三日にかけて駿河・甲斐の富士山麓一帯に地震、二十三日大爆烈する。被害は江戸・戸塚・江ノ島にまで及ぶ。(別記)


宝永5年
1708
1月7日、富士宝永山噴火。降灰、武州(埼玉)に及ぶ。

2月24日、富士山噴火。


宝永6年
1709
1月16日、富士山噴火。   
日本災異記

享保18年
1733
<七合五勺・富士行者身禄・富士行者「身禄」>

七合五勺より上に、小屋三字あり。東方の巖を「亀岩」と云う。」その形の似たればなり。

稍々上れば、「鳥帽子岩」と云うあり。

享保十八年六月十三目「富士行者身禄」が入定の地なり。

小屋あり、身禄の木像を安置する。その流れを汲む者、年々ここに登拝する。

田辺十郎右衛門これを進退す。これより道益々嶮しくして、足進みがたし。不毛の砂中定まれる道もなし。一歩進めば半歩退き、雲霧脚下より起り、忽ち勝れ忽ち曇り、須曳の間明晦不レ定。


安永7年
1778
7月、 富士宝永山の下で噴火(側噴火)印野溶岩流か。   
日本災異記

寛政4年
1792
6月9日、▽富士山で岩石が飛び、死者二十人をだす。(水蒸気爆発か)
噴火年表

文化6年
1809
10月3日、▽富士山崩壊。富士山小噴火。
噴火年表

文政8年
1825
7月26日、▽富士山鳴動。
噴火年表

天保5年
1834
5月16日、▽山津波。
噴火年表

天保6年
1835
2月8日、▽富士山振動して石魁飛散する。   噴火年表
噴火年表

安政元年
1854
1月4日、▽富士山鳴動して岩石が崩壊する。   噴火年表
噴火年表

明治23年
1890
4月17日、▽富士山振動して石魁飛散する。   噴火年表
噴火年表

昭和14年
1939
10月、▽地震群発。

建久4年 1193 ★富士山噴煙。
・五月八日鎌倉幕府、富士裾野にて巻狩を実施、征夷大将軍源頼朝公、富士山藍沢夏狩之為、人々駿河国駿東郡仁趣記給。藍沢仁入(小山町に入り)、加後坂与利(山中湖畔の篭坂より)宇都野仁狩込(忍野村の内野に狩り込み)加茂坂屋越(当時の忍野村忍草の一帯は湖水であったので、内野から札合の山裾を通って、鳥居地峠を越え)御祖代山の山中にて(今日は杓子山という、大明見のワサビ沢のうち、字名鹿見沢のところにて、源頼家、大鹿を見付、山越仁駆行き(山越しに忍野村の内野の山を駆けて行き)相模河原仁於而(つまり都留市の鹿留山の河原において)、弓仁而射止留仁依而、父、頼朝、大伊仁祝、与呂古非、御祉代山之山中仁於而、(通称ワサビ沢の不動尊を祭る不動湯、または硯水と言う場所)文尾認目、使者仁而、奥方政子御前仁送利届留也。
・五月十二日与利、十五日迄、頼朝公之御本陣和、三浦寺一場所、大明見日向山、後、福仙寺というが、西桂町小沼へ移転。福善寺の前身(頼家公之御本陣和、万蔵寺)小明見向原の万年寺の前身)也。
・五月十五日、富士山東北之御狩終而、小室尾立而、富士郡之御旅館仁移利給也。
此与利、富士山西北之御狩致志居内、
・五月二十八日之夜、曽我十郎祐成、同五郎時致和、征夷大将軍源頼朝公之御旅館、井出之館仁忍入、父、祐泰之敵、工藤祐経尾討多留仁依而、富士山之巻狩止留也。
富士山周辺を鎌倉幕府より賜わる。
・拾人の氏名。
建久四年八月、三浦源九郎、同庄九郎、同治九郎、同善九郎、柏木忠七郎、渡部庄太夫綱高、大森茂二郎、天野源太郎、武内平三郎、長田源二郎、都合拾名之者仁、保元、平治二度之合戦之父等之戦功仁依而、亦和、長田源二郎父和、石橋山之戦功仁依而、富士山、喝二十里四方尾一、鎌倉武運長久之祈祷尾申付留也。
・小室根元三社名神大杜仁和、社地、目八丁四方仁、神領、賜。五十五町尾。
・幸燈天神仁和、社内仁於而、賜自通四方尾、三浦寺仁和、一門諸士之供養領登志而、桂谷仁於而、賜五百町尾、小室三社之別当尾申付留也。
・建久四年同月、万蔵寺仁和、向山、賜二目通尾也。
・建久四年、都留郡一円、賜武田氏仁、依而、都留郡和、旧記仁復志、延暦之噴火前之通仁、境界尾定目給也。
<『探求幻の富士山古文献』>
<山梨の歴史暦>
11-28 越後守安田義資処刑(62歳)。
12-5 安田義定,子義資の事件に連座して遠江浅羽荘地頭職を収公される 

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長保1年 999 3月7日   
 富士山噴火。南側。駿河方面に被害。  ▽(前略)駿河国言上の解文に云わく、日頃不字の御山焼く由、何の祟りぞとへれば、即ち卜して云わく、若しくは、恠の所に兵革疾疫の事有るかてへり。此の間太宰府貢上の雨米一袋・湧出せる油一瓶等のことを奏聞す。即ち、上卿覧了り、弁官の文脈に下し給うこと巳に了りぬ。
  
長保5年 1003 富士山噴火。
長保6年 1004 2月10日
▽駿河方面に被害。噴火は長保5年(1003)
寛仁1年 1007 九月、北方三カ所より噴火。
10月21日
▽ 十月二十一日、御一条天皇より諸神に一代一度奉幣。
寛仁元年の噴火
・後一條天皇、諱名、敦成天皇登言。寛仁元年(1017)
・九月、北方三箇所噴火致須也。富士山度々之噴火仁依而、参詣致須者一人茂無之仁付、小室大社和衰微致須者也。
・同月二十三日、大奉幣御定口役和、東海道之使和、陰子藤原季忠也。
・同十二月二日、大宮大社仁、賜正一位尾。此之時、神宝武記、致須也。小室大社仁和、往復出来佐留仁依而、大宮大杜而使者和止留也。此与利大宮大社和、益々盛泰登成利、歴朝之崇教不浅加羅。
<『探求幻の富士山古文献』>
寛仁4年 1020
富士山噴火。
治安1年 1021 ▽富士山頂の活動を伝える。
長元4年 1031 6-16 源頼信,平忠常の首級を携えて入京。
長元5年 1032 12月16日〜長元6年1月25日富士山の南側噴火
2-8 源頼信・平忠常追討の賞により美濃守に転任。(山暦)
長元6年 1033
2月19日
起白峯。至山脚。
爆発溶岩流。
永承7年 1052 源頼義、勅命仁而、奥羽之国賊尾鎮目留太目、小室大社仁参詣致志、太刀一本奉納致須也。
<『探求幻の富士山古文献』>
康平2年 1059 ★富士山噴火。
延久元年 1069 現存する最古の富士山の絵とされる「聖徳太子絵伝」が製作される。<青空文庫>
承保3年 1076 3月28日
有富士山焼燃恠焉。
永保2年 1082 ★ 大洪水。
2月、富士山噴火
▽富士山焚く、二月より十月まで火焔をあげる。
永保 3年 1083 3-28 富士山噴火。(山暦)
7月
溶岩流、末端は西桂小沼付近、流出方面は不詳。
▽富士山の活動がやみ、煙も途絶えたて休む。小噴火ながら話題にのぼる。   
▽剣丸尾溶岩流(『都留郡の謎を解く』窪田薫氏著
▽白河天皇、七月…………。二月にも噴火か
・七月、富士山七箇所与利噴火致志、熱湯押流留也、富士山之噴火此之時止留也。
・富士山入流登和、延暦十九年之噴火与利、今度迄八度噴火致志、熱湯岩石押流留仁依而申須也。
此与利、富十山之噴火和、伊豆国大島仁引移留也。
鳥羽天皇、講名、宗仁天皇堂言。天永三年与利大島之噴火始留也。
<『探求幻の富士山古文献』> 


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