サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

富士山資料室

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延喜7年 907
5月2日   
▽浅間大神を従二位に進める。
承平2年 932
10月13日    
・朱雀天皇壬辰年十月十三日、富士山峰より八方に噴火し、溶岩・焼石・大雷にて雨の如く降る。大宮神社焼失する。  
承平7年 937 十一月某日
甲斐国言。駿河国富士山神火埋 水海 。

承平七年の噴火
朱雀天皇、講名、実明天皇登言。
承平七年十月十三日、富士山峰与利八方仁噴火致志、熱湯岩石大電仁而、雨降留如志。此時飛火仁而、大宮浅問焼留也。<『探求幻の富士山古文献』>
天暦6年 952 2月   
富士山峰より北東に噴火。
安和2年 969 七月、源頼光主従来而、小室大社之平城天皇之勅額仁、渡部綱道、書副尾致須也(渡部綱道、世上は渡辺綱という)。<『探求幻の富士山古文献』>
正暦4年 993 一条天皇、八月、富士山北東三昼夜鳴動して噴火。
正暦四年の噴火
一條天皇、諱名、懐仁天皇登言。正暦四年八月、富士山北東、三旦二夜鳴利非引気、噴火致須也。
<『探求幻の富士山古文献』>

貞観6年 864 ▼五月一日乃至三日暴風雨大雷電、黒煙劇噴、五日の朝一大激震と共に富士山西の峰に熾火現る(中略)六月九日乃至十三日朝 復び湯溶岩熱泥押し流し、御舟湖つひに一町に八十間を余し埋没。なは御舟山を包囲して押流る。

5月25日   
・青木原丸尾溶岩流。甲斐方面、「セの海」を分断し西湖、精進湖が出現する。人畜に大被害。
▼駿河国正三位浅間大神大山(富士山)噴火しその勢い甚だしく、十二里四方の山を焼く。その火炎の高さ二十丈(60m位)雷あり、地震三度、十余日を経ても火勢衰えず、岩石を焦がし、嶺を崩し、火山灰雨の如し、煙雲深くして人の近寄るを得ず。富士山の西北本栖湖に溶岩流入す。溶岩の長さ、三十里、幅三,四里、高さ二十二丈ばかり、火炎ついに甲斐の国境に達すと。
7月
▽甲斐国司解文、溶岩が本栖湖・セの湖を埋め、人家を没し火焔は東の河口にの海に向かう。

8月5日
▽甲斐国下知して云う。駿河国富士山に火ありて、彼の国言上す。之を著亀に決するに云わく、浅間明神の禰宜・祝等、斎敬を勤めざるの致す所のなりと。仍りて鎮謝すべきの状国に告げ知らせ訖わりぬ。宜しく亦奉幣解謝すびしと。

▼貞観六年の噴火
清和天皇、諱名惟仁天皇、登言旨。
・貞観六年(八六四)五月与利之噴火仁和、仁王坂足基之要害之地之小屋場仁而、祈願尾致志居、富士山鎮火致仁依而、
・八月八日、勅使、元社小室之小屋場之拝所仁付給。
・明九日、尾咲山峰之幸燈天神之社仁於而、諾々之山谷尾、検察致須所、北方、御船湖、熟湯岩石登成利、少之小池残利、御船山和、岩石之中登成利、此之正中之頂仁、現宮殿尾給。宮尾造利、垣仁有四隅・依而、丹青石立四面、右之高佐一丈八尺計里、庫佐一尺余里、石門立相去留。内仁一重之石之高閤阿利。此石尾構造営、彩色美麗不可勝言。此和、富土山之諾々之神方造羅瀬給所成利登、頭御下而、遥拝致志、西之方尾見渡場、三津峠沢之湖和、三津峠山、中尾咲山陰迄、熱湯押込、少茂不見恵。
・背之湖和、大田山陰迄、熱湯押込、少茂不分羅、平地和、広佐百四五十町、西之方仁、数千町計利、皆岩石登成利、三津峠山南尾咲与利、同中尾咲、同岬尾咲、御古山、大田山、背山、皆保熱仁而焼、真加登成留。此之有佐問尾見留而、勅使和、
・明十日京都仁帰留也。
・其後、
・ 貞観六年(八六四)九月九日、御船山山頂之峰仁現給宮殿和、蔵匿志給也。依而、富士大神之大祭日和、九月九日登定留也。
<『探求幻の富士山古文献』>  
<私註>
貞観6年(864)
駿河国正三位浅間大神大山、噴火しその勢いは甚だしく、12里四方の山を焼く、その火炎の高さ20丈ばかり、雷あり、地震3度、十余日を経ても火勢衰えず、岩石を焦がし、峰を崩し、火山灰雨の如し、煙雲深くして、人の近寄るを得ず。富士山の西北の本栖湖に溶岩が流入す。溶岩の長さ30里、幅3,4里、高さ23丈ばかり、火炎ついに甲斐の国境に達す。…『三代実録』
富士山大火を吹き、山を焼き、草木を焦がす、土、礫、石流れ、八代郡本栖、セノウミ両湖埋まる。湖水の水は熱湯と化し、魚、亀、等皆死す。百姓の家屋は埋没し、又埋没せずとも人なし。その数かぞえ難し。…『三代実録』「甲斐国解文」
 津屋氏の研究によれば、この時の本栖湖・セノウミ(今の精進湖と西湖の前身の湖)の達した溶岩は、現在の青木ケ原樹海を造る溶岩で、富士山西麓の寄生火山、長尾山より噴出したものである。長尾山は火砕物がストロンボリ式噴火で積もってできた小さな砕屑丘だが、その最終期に、多量の流れやすい玄武岩質溶岩が流出してセノウミを二分する。他にも北山腹2900mの割れ目火口から噴出し、北麓富士吉田市を流れた剣丸尾溶岩流の下底と思われる土層から古銭が出土した。(河口湖博物館)

延暦・貞観の噴火
 古文書に残された富士山の噴火記録は、天応一年(七八一年)を皮切りに十三回以上もある。その中で八00年の延暦一九年と八六四年(貞観六年)の噴火は宝永の噴火に比肩する規模のもので、多量の溶岩が流出して山麓の地形を一変させた大活動であった。 三代実録

<関連サイト>
http://blogs.yahoo.co.jp/hujiyamabunka/11340595.html

延暦20年 801
 延暦二十巳年六月朔日、従四位上征夷大将軍坂上田村麻呂ヲ大使ト致シ、正五位上百済俊哲、従四位下多治比浜成等ヲ副司トシ、福地山噴火跡ノ検察ノ勅使ヲ命ゼラレ、最澄上人二福地山ニ十里四方ノ諸々ノ人々ヲ始メ、諸々ノ鳥獣草木二至ル迄ノ焼死ニノ供養ヲ、勅命ヲ以テ申シ付カリ、宮司、副宮司ヲ始メ、宮守、社家、眷春族ヲ始メ、三百余人ヲ案内人ト致シ、同月十五日、福地山中央高天原、小室二来タリ、不二山行満寺ノ焼跡二焼木ヲ集メ、一宇ノ堂ヲ創立シ、「聖徳太子ノ自画像」ト、「秦国ノ徐福ノ持チ来タル薬師如来ノ像」ヲ、案蔵ヨリ出シ、最澄上人、天皇ヨリ賜リシ「雲切如来」ト「聖徳太子ノ像」ノ掛物ヲ、薬師如来ノ両脇二掛ケ、焼死シタル諸々ノ人々ヲ始メ、鳥獣魚類二至ル迄、皆供養致シ、コレヲ不二山延暦寺ト申スナリ。コレハ則チ、行満寺ヲ再興ノ為、焼跡二建テル寺ナリ。
・都留島ノ救願寺ニテ、同ジク供養ヲ致シ、寺号ヲ改メ、本郷山宝正寺ト号ス。
<註>
都留島の本郷山宝正寺は、現在の上野原町鶴島にあり、『甲斐国志」に記載の富土山法性寺の前身である。
<『探求幻の富士山古文献』>

延暦21年 802  1月1日  
▼駿河・相模方面に砂礫が霰のように降る。    ◎噴火は延暦20年(801) 日本紀略
延暦21年 802 
5月
▼相模国足柄路が塞がる。小富士の出現か。
5月19日  
▼富士山噴火の為に相模足柄路を廃し箱根路を開く  
▼相模国10国らの負税を免除する。
▽延暦廿一年五月甲戌、相模国足柄の路を廃して、筥荷の途を開く。富士の焼け砕きたる石、道を塞ぐを以てなり。 日本紀略
延暦22年 803 5月  8日  
▽延暦廿二年五月丁巳。相模国筥荷の略を廃して、足柄の旧路を復す。  
☆『富士山の記』都良香(839〜879)漢詩人。
(前文略)山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり。浅間大神と名づく。此の山の高きこと、雲表を極めて、幾丈といふことを知らず。頂上に平地あり、広さ一里許其の頂の中央は窪み下りて体炊甑の如し。甑の底にあやしき池あり。常に気有りて、蒸し出づ。(中略)大き成る泉あり。腹の下より出づ。大河なせり。山の東に脚の下に小山あり。土俗これを新山と謂ふ。本は平地なりき。延暦二十一年三月に雲霧晦冥、十日にして後に山を成せりと。云々 日本紀略


『富士山の記』
大同元年 806 ・六月中、坂上田村麻呂、勅命仁而来利、甲斐国之国司仁申付、八代郡大領太田安貞仁案内致佐世、仙泉山尾、山越志仁行木、阿曽谷小室沢之四杜尾、再興致佐世、相模国、寒川神社之神官登、甲斐国、神部山神官登、鶴島宝正寺等仁、宮守尾申付、平城天皇之三国第一山之、賜勅額尾。
・年々六月一日与利、小室大社仁登利、小屋場仁居利、
八月十五日仁和、神部山神官和、神部山仁帰里、鶴島宝正寺和、宝正寺仁帰利、寒川神社之神官和、寒川仁帰留事登相定目候者也。勅使和、京都仁帰留者也。
・八代郡和、孝徳天皇与利、文武天皇、大宝元年迄和、山背郡、登也。
<『探求幻の富士山古文献』>
大同2年 807 ・九月九日之夜、兄弟共仁夢之津毛仁依而、兄、元宮麻呂和、中山之北東之山仁、
・同十一月、祠尾創立志而、浅問明神登祭留。此之山尾、神部山、登申也。
・弟、大宮麻呂和、富士郡上野御原仁、同祠尾立而、浅間明神尾祭留也。此野所尾、新山宮村、登申也。

・考昭天皇之遠孫、和遜部豊麻呂、延暦拾四年(七九五)富士郡之大領登成、同二拾年、其之女仁養子登也。此之所仁、浅間明神之宮尾立而、大宮麻呂、宮守尾致
志居留也。
<『探求幻の富士山古文献』>
大同3年 808 ・坂上田村麻呂、勅命仁而来利、福地神社之社地仁引移志、大宮麻呂尾、大宮司登定給也。
・都留郡和、熱湯駒沢村迄、押下里、岩石登成利、人家太伊而、熱湯之谷登成里。
・富士郡和、三原、世古津迄、熱湯押下里、岩石登成留。
・駿東郡和、而和、合高山仁押加武利、南和、佐野原迄、押下留。東和、竹之本迄押下里、人家皆太伊而、熱湯之岩石登成留也。
・都留郡和、仙泉山峰(三つ峠)与利、相模河原(鹿留川)尾具渡志、其与利上、南西和、八代郡仁而支配須。
・相模河原与利下和、延暦十九年(八○〇)押出太留、熱湯満流尾東和、相模国津久伊郡仁而支配須。
・仙泉山与利北東和、熱湯満流尾下和、古国川(桂川)尾隈里、西和、山梨郡仁而支配須(東桂字山梨丸尾の地名今日に残る)。<『探求幻の富士山古文献』>
天長2年 825 5月  
★白根山大崩壊し、かつ洪水氾濫し国中一大湖水となる。水没せる人命・田畑限りなし。飢餓者出る。(こと時勅使を向かはしめ水神を祀り、一の宮・二の宮・三の宮三社に命じ、龍王赤坂山下に水防祭を行なう 山梨県気象災害史

延暦19年 800 6月6日   
主に駿河方面に灰が雨の様に降り、山も川も皆紅色となる。   
▽六月乙丑。是日。勅。駿河相模国言。駿河国富士山。晝夜炬燎。砂礫如 霞霰者。求之卜筮。占曰。于疫。宣令両国加鎮謝。乃讀經以攘。

・延暦十九辰年(800)三月三日、福地山高天原、中室、小室ヲ始メ、宇宙野、大室中、三十六神戸ノ宮司、副司、宮守、社家ノ眷族(ケンゾク)、皆相談ノ上、家族、眷族ヲ合セ、合計三百余人、伊勢太神二参詣二出掛、伊勢ノニ見箇浦二廻リ、福地山ヲ遥拝致シ、其ヨリ天照太神、豊受太神ノ両社二参詣致シ、其ヨリマタ、新都ノ山城国平安城二行キ、諸々ヲ見物致シ居ルトコロニ、甲斐、駿河、相模ノ三国ノ国司ヨリ早馬ニテ、福地山(富士山)ハ鳴リ、大地震、大強暴風、百雷、一時二来タリテ鳴リ響ク。六日目夜、七日七夜。福地山一円何箇所トナク噴火致シ、八方ノ沢々二熱湯押出シ、福地山二十里四方ノ人家、人馬、牛、鹿ヲ始メ、諸々ノ烏獣、草木迄、皆焼失死シ、福地山ニ十里四方ノ沢々谷々迄、人家絶伊而、岩石ノ満流尾ト成リ、山々谷々ハ皆真赤ノ山々谷々ト成リ、沢々ノ川々ノ水モ皆真赤ト成リ、南海ノ大海モ三、四里沖迄ハ真赤ノ大海ト成リ、マタ、山ノ谷、沢々ノ場所ノ良キ所二住居シタル人々ハ、甲斐、上毛、下毛、武蔵、上総、下総、常陸、東相模、伊豆、西駿河、遠江、三河、信濃、等二逃ゲノガレル住人モ多人数アリ、
・高天原(富士北麓)ハ一面ノ熱湯満流尾トナリタル次第ヲ、三国ノ国司ヨリ追々京都二使者来タリテ、天皇陛下ニ口上致スニ依テ、天皇大イニ驚キ給、此の次第ヲ聞々三百余人ノ人々嘆キ悲シミ居ルヲ、天皇ヲ始メ、諸々ノ高官、高位ノ人々、最澄上人、京洛中ノ人々モ哀シミ給イテ、福地山高天原ヨリ来タリ居ル三百余人ノ保護方ヲ、京洛中、洛外ノ人々□□□□ニ至ルマデ伝工下サレ給。
<『探求幻の富士山古文献』>
△富士山の名称が替わる
福地山(富士山)
延暦十九年(800)の富十山大噴火前までは、人皇十代崇神大皇時代から、人皇五十代桓武天皇時代まで、福地山と表記した。しかし、大噴火は福地山に祭られる神々への信仰を疎かにした、として、福地山を富士山と改称の事、七社の大神の宮を再創立致す事とし、位階正二位とする事など、ときの朝廷は大同元年(八〇六)六月三日大政官牒状をもって、元宮七社太神官、宮司官下記太夫仁元に命じ、これより富士山という文字を用いた。
<『探求幻の富士山古文献』>
延暦十九年の噴火
桓武天皇、諱名、日本根子皇統弥照天皇登言。延暦十九年之四月中、福地山七拾二箇所与利噴火致志、人馬仁不限羅、草木迄、皆死志多利。
最も場所之与記所之人々和、甲斐、上毛、武蔵、東相模、伊豆、西駿河之国仁野加礼、住人茂多人数成利。
・南湖(宇宙湖)熱湯押込、二湖登成利、寒川之谷川和高久也。
・高座山尾崎和、熱湯尾加武利、小室沢和、湖登成利、背之湖和半分登也。
・大田川和、津武礼而、西田原仁、二里仁一里余之湖出留也(河口湖の出現)。
・村、二十二箇村。阿曽見、東吉田、中吉田、西吉田、日向、川久保、河口駅、山宮、大山、大原、上手、中手、下手、元住、浅川、広里、天神、神原、上山、水市駅、宇宙野、長生。
阿曽見和、家基都駅登茂申也。
是与利下、六箇村。
座見、相模、宮原、田原、田之座、駒沢也。
計、甲斐国分(但し富士北麓)
人戸、一千八百六十余戸。
人数、六千六百余人也。
・山宮村和、岩石土砂四十丈余焼埋太留仁依而、山宮村之宮司、兄弟和、兄、元宮麻呂和、甲斐国八代郡之東、山梨郡登合之中山仁野加礼居留。弟、大宮麻呂和、駿河国富士郡岩本沢仁、野加礼居利。
<『探求幻の富士山古文献』>
<私註>
延暦19年6月6日 800
富士山が3月14日から4月18日まで噴火し、昼間は煙で暗く、夜はその光が天を照らす。雷は響き灰は雨の降るように降下して山河を紅くした。…『日本紀略』
砂礫が霰のように降った…『日本紀略』
富士山の東の麓に小山があるが、元は平らであった。延暦21年3月雲霧晦冥、10日にして山になった。…『富士山記』
富士山が噴火して砕石が道(東海道)を塞いだので足柄路を廃して箱根路を開く。…『日本紀略』
 以上のようにこの噴火によりテフラが噴出して東方の地域へ降下・堆積したことは事実である。おびただしいテフラが足柄路を埋めたので、降灰の影響がなかった箱根路を新たに開くが、翌年足柄路も再開されるが、東海道の本道に復帰することはなかった。

天応1年 781 7月6日   
主に駿河方面に灰が雨の様に降り、木の葉が萎ん  
▽七月六日。駿河国言す。富士山の下に灰を雨(フ)らす。灰の及ぶ所は木葉彫萎すと。 続日本紀


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