サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

羽ばたけ甲州人

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 柳沢吉保公略歴

 柳沢吉保(やなぎさわよしやす)

1658(万治1)・12・8−1714(正徳4)・11.2。
江戸幕府の老中、5代将軍徳川網吉の則近として活躍、甲府藩主。通称は十三郎、のち主税、弥太郎。実名は房安、佳忠、信元、保明。1701(元禄14)年11月将軍の片諱(いみな)と松平姓をもらい、松平吉保と称す。上野国館林藩主徳川綱吉の臣柳沢安忠の5男として江戸に生まれ、幼時から綱岩の小姓として仕え、1680(延宝8)年、網吉が将軍となると従って江戸域にはいり、小納戸役となる。柳沢氏は、甲斐源氏一条氏の支流で武川衆の一員。武川衆の祖一条源八時信の6男時光は青木村(韮崎市清哲町)に住して青木氏を称し、その6世尾張守安遠の2男信興の5男信俊(青木源七郎と称し柳沢信兼の遺跡を継ぐ)は、武田信玄・勝頼に仕え、武田氏滅後は武川衆の一員として徳川家康に従い各地に武功をあげた。信俊の2男安忠は初め徳川忠長に仕え、のち館林宰相綱吉の神田館に仕え勘定頭となり、高160石、扶持米370俵を禄した。吉保の父である。吉保は綱吉より12歳年少で、幼時から小姓として仕え、また網吉の儒学の弟子として聡明で落ちついた性格であったので、その愛顧をうけること著しく異例の出世をとげた。1681(天和1)年加増されて830石を領したのをはじめとして、1683年
には1030石、1685(貞享5)年12月、従5位下出羽守に叙仕、1588(元手豪1)年11月、南部直政とともに、則(そば)用人となり、1万石加増。1690〈元禄3)年、さらに2万石加増、従四位下に進む。翌年3月、網吉は神田橋内の吉保の邸に臨み、以後将軍の来臨はひんばんとなり計58回に及んだという。1692年2万石、1694年1万石加増され計72030石、武蔵川越城主となり、侍従に任ぜられ、老中格に昇進。1694(元禄11)年には左近衛権少将に昇り「座班老中の上にあるべし」と命ぜられ、大老格となり幕臣としては最高位に進む。1704(宝永1)年、甲府中納言徳川綱豊が将軍網吉の嗣子となるや甲駿2国に移封、翌年3月駿河の封地を甲斐に移され、甲斐15万石、申府城主となる。将軍家一門並みの破格な待遇であった。1709(宝永6)年網吉の死とともに退官、除髪して傑山と号し、江戸の別邸六義園(東京・巣鴨)に隠居、57歳で没す。この間、将軍網吉の則近として活躍、儒学者荻生徂徠、細井広沢らを保護して文治政策を推進、元禄の政治の中心となる。一方、領国甲斐においては、甲府城の修築、城下町甲府の整備などを行ない甲府の最盛期といわれ、また通用を禁止されていた甲州金を復活し、幕末までの甲斐の流通貨幣の基礎をつくるなど、多くの実をあげた。柳沢氏領有時代の甲斐は、商品生産の向上、広範な小農民の自立がみられ、養蚕(東都、郡内地方)ブドウ(勝沼地方)、タバコ(甲府盆地山間部)、木綿(西郡地方〉、和紙(市川、西島〉などの生産が急激に高まった時期であった。吉保の墓は、初め竜華山永慶寺(黄檗宗、甲府市岩窪町)に営まれたが、のち恵林寺に移され、永慶寺は大和郡山に移された。
<「山梨百科事典」山梨日日新聞 S62 斎藤典男氏著>

柳沢吉保公
http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv3-ybb&p=%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E5%90%89%E4%BF%9D&ei=UTF-8

六義園
http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv3-ybb&p=%E5%85%AD%E5%84%80%E5%9C%92&ei=UTF-8

大和郡山柳沢家
http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv3-ybb&p=%E5%A4%A7%E5%92%8C%E9%83%A1%E5%B1%B1%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E5%AE%B6&ei=UTF-8

中央で活躍した甲州人

○「甲州財閥」の伝統(東都山梨新聞主幹 古屋権一氏著「ザ山梨 武田信玄と甲斐路」読売新聞社刊S62所収記事)

 甲州出身の財界人を「甲州財閥」という。しかし、甲州財閥という財閥があるかといえば、どこを見まわしても財閥などない。ただその結束力の強さが外から見れば、一個の財閥のように見えたということであろう。この「甲州財閥」の伝統は、幕末の横浜開港にまでさかのぼる。その代表が著尾逸平である。彼は開港直後の横浜に出て、生糸や水晶の取引きで巨利を得た。次いで、現在の中央線の基礎を築いた「天下の雨敬」こと雨宮敬次郎。彼は鉄道の権利を国に売却するにあたり、鉄道を自分の家の前を通すことと条件をつけたから、中央線は笹子トンネルを出ると大きく右に曲がって塩山市の彼の実家の前を通って甲府に出ることになった。
 つぎの世代は、東武鉄道、富国生命、日清製粉など二百数十社を興した根津嘉一郎、今の身延線、富士身延鉄道をつくった小野金六、堀内良平、松屋デパートの古屋徳兵衛、東京の地下鉄をつくった早川徳次らがいる。
 少し世代が下ると、阪急、東宝などを創ったアイディアマン小林一三がいる。
 そして、その伝統は今日まで続いていて、これから後を素描しようとするのが本稿の目的である。

義理人情に厚かった小佐野賢治「甲州財閥」の伝統
(東都山梨新聞主幹 古屋権一氏著「ザ山梨 武田信玄と甲斐路」読売新聞社刊S62所収記事)

 財界から始めよう。一番強烈な印象と知遇を得たのは故・小佐野賢治氏である。小佐野氏との交際を簡単に書いただけでも決められた枚数で述べることはとても至難のわざである。特に親しくなったのは三十五年の山交事件の時からだ。
 この事件は、小佐野氏が北巨摩の郵便局長小佐野賢治氏のすすめで山梨交通の株を買い、どうせならと一割の株を取得したことから始まる。当時の山梨交通社長の河西皇太郎氏が「すわ、乗っ取りだ。」と西武鉄道の塊康次郎氏をパトロンに株の買い占めにかかった。小佐野氏も「そっちがその気なら負けておられるか」と株主名簿をもとに県下をかけめぐって、買いまくったので、あれよあれよという間にポロ株が千数百円の高値になってしまって、最後は裁判沙汰にまで発展した事件だ。私はこめ時、頼まれて勝沼町の小佐野氏の実家に泊り込み、お手伝いしたことから、事件の解決後も一週間に一回は顔を出し、どんなに忙しくとも三十分か一時間、世間話をするようになった。義理人情に厚く、頼まれれば「いや」と言えない人で、喜んで面倒をみてくれた。甲府市長の故・鹿野啓次郎氏、小松遊覧農場の故・小松安則氏、平塚富士見レイクウッドの大森正男氏など三十年代に小佐野氏に私自身が紹介し、それぞれの陳情を気持ちよく果たしでくれた想い出がある。
 武蔵野映画の河野義一氏は諏訪自動車の大株主だった。「社長は興業界のボスだが、運輸業は素人。専門家の小佐野氏に株を譲ったら……」と口説いて小佐野氏と一諸に新宿の同社に表敬に訪れたことがあった。それにより、小佐野氏は山梨交通−諏訪自動車−松本電鉄を傘下におさめ山梨−長野ラインの交通機関のオーナーになったことも記憶に新しい。
 河野氏は私の新聞社に金が足りないと言うと二つ返事で無利息で貸してくれた親分肌の人であった。晩年には、朝五時すぎになると「まだ、早いかね」と電話がしばしばかかってきたものである。
 早いと言えば、小佐野氏も夜入時すぎには床に入り、朝は明るくなると起きて、京橋の会社には七時には出社していた。ゴルフが大好きで、休日にはほとんどプレイをしていたが、ウイークディはどんなことがあってもやらなかった。あれだけになって、誰にでもまねのできることではない。甲州クラブというゴルフの県人合をつくり、自ら理事長となって県人相互の親睦と援助に尽力したことも忘れられないことの一つである。
 また、小佐野氏は日本航空の大株主で役員をしていた。当時の会長は、やはり山梨県出身の財界の巨頭小林中氏であったが「古屋君、今日、役員会で小林会長に会ったが帰りのエレベーターのなかで『君はまだセックスは現役だろう。どんどんやりたまえ』と大きな声でいわれ赤面したよ」と小佐野氏が笑って話したことがある。

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