サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

山梨県森林事情

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名取礼二氏(「白州町誌」昭和61年)東京慈恵会医科大学名誉学長 学位論文「筋収縮機構に就いて」
 
明治四十五年一月二日、白須六、七六一番地(前沢)、名取甚作・志やうの次男として生まる。
現住所、東京都杉並区高円寺二丁目三七八番地
 
主な経歴は次のとおりである。
昭和十一年(一九三六年)四月、東京慈恵医科大学卒業、
昭和二十一年より昭和五十六年まで同大学教授第一生理学教授主任。
昭和四十三年より昭和五十四年まで目本体力医学会理事長。
昭和五十年九月より五十七年十二月まで慈恵医大学長。
昭和五十年より同大学理事長として現在に至る。
昭和五十一年四月より現在まで杜団法人束京慈恵会々長。
昭和五十四年十二月より現在まで、教科用図書検定調査審議会々長。
昭和五十八年四月より理在まで、保健体育審議会々長。
昭和五十八年五月より現在まで財団法人日本私立医科大学協会々長。
 
主な受賞は次のとおりである。
昭和四十八年十一月紫綬褒章。
昭和五十二年一月、
昭和五十一年度朝日賞受賞。
昭和年四月東京慈恵医大名誉教授。
昭和五十六年六月、日本学士院賞受賞。
昭和五十六年十一月四日、文化功労老顕彰。
昭和五十七年三月、日本生理学会特別会員。
昭和五十七年四月、日本体力医学会名誉会員。
昭和五十七年十月、日本宇宙航空環境医学会名誉会員。
昭和五十七年十二月、東京慈恵会医科大学名誉学長
学位論文「筋収縮機構に就いて」。
著書 
「筋生理学」、同二十二年丸善。
「現代スポーツ生理学」、同四十三年日本体育杜。
「最近体力測定法」、昭和四十五年同文書院。
名取高三郎氏(「白州町誌」昭和61年)北海道で大活躍(名取高三郎商店)、郷土への貢献も大 
 
安政五年(一八五八)十月二日、旧鳳来村字山口名取員保・まるの長男として生まれた。
少年時代より学を好み六歳より山口番所二宮為信氏の手習弟子として十二歳まで教を受ける。
明治八年十八歳の時叔父今井喜七外五名と開発中の北海道へ金物農具等の行商に行く。
明治十年小樽に金物店を開業、二十年ころから小樽港改良工事等にて拓殖移民が続々入道して景気上昇し、家業も大いに繁昌した。
明治二十三年、店を番頭に任せ、郷里山口に帰省、釜無川堤防工事の村受人を知事より任命される。
明治二十四年上教来石区長、鳳来村々会議員に選出され就任する。
明治二十七年再度渡道し独立店㊤を商標と定め車業の拡大に努力し金物類のほか砂金等を東京安田銀行と契約して売捌く。その為、事業益々発展し巨万の富を集め全道届指の財閥となる。
明治三十五年小樽商業会議所議員に当選。
また小榑区(市会)議員二級より立候し当選。地域発展向上に尽力信望誠に篤かつた。
大正二年小樽集鱗会祉取締役・北海道銀行監査役・北漉道製油会杜取締役等を歴任し、
昭和三年小樽市功労者として功労章を受けた。
郷里の人々の信頼も篤く、常に遠くにあっても愛郷の念深く、昭和三年旧鳳来小学校増築に際しては金壱万円の巨額の寄付をされた。
ほかにも児童の教材購入のため止数回多額の寄付をされた。
昭和四年紺綬褒章の栄を受ける。
昭和二十四年二月九十二歳で硬せられた。
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E3%80%80%E5%90%8D%E5%8F%96%E9%AB%98%E4%B8%89%E9%83%8E&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt
国有林行政の体質(『水と森と土』「伝統捨てた社会の行方」富山和子氏著 中央新書 一部加筆)
大面積皆伐は、大規模林道の建設と大規模一斉造林、245T(ペトナムの柿葉作戦に用いられた薬剤)の散布などとともに世論の批判を浴び、林野庁はついにその事業の一部を縮小させ始めた。しかしそれに代って新たな破壊が始まろうとしている。人員整理や営林署の統廃合という動きである。独立採算制という根本原因に手を触れることなく事業を縮小すれば、必然的に山林労働者を手離し、山の守りをも手薄にさせざるをえない。国が山林労働者を数多くかかえていることは、旧民にとってむしろ喜ぶべきことのはずである。問題は事業の内容であり、伐る仕事にまわるか、守る作業にまわるかなのである。日本の林業が誇る吉野の杉林では、山守が子供をつれて山を巡り、どの沢どの木はいつどういう被害にあっているかまでよく知って撫育し、それを父子相伝えた。それによってあの見事な森林が保護されてきたという(槙重博「林業の企業性」)。まして国有林の場合は深い山岳地帯をかかえている。人手は余るどころか足りなくて仕方ないはずであり、今日の破壊は伐採にせよ造林にせよ、人手を惜しんだがための破壊でもあったはずである。
たとえば下草刈りを例にとっても、10年前までは1ヘクタール、10人から15人で行っていたものが、以前ではせいぜい二、三人。視察の対象となるところだけを行なう「視察刈り」とか、山頂からひとあたり見廻すだけで終りとする「目刈り」といった言葉が現場に生きているほどである。「省力技術」の名のもとに行なわれるこのような低コスト造林によって、あのベトナム戦争まがいの枯葉戦が各所で行なわれてきたのでもあった。現に付知川の裏側に当る岐阜県益田郡小坂町でも、下草刈りの人手を省くため散布したクマザサ退治用の除革剤、塩素酸ソーダが、植林して6、7年経ち高さ数10センチに育った桧の山を全減させ、樹齢100〜200年のサワラやヒバなどまで立ち枯れさせてしまうといった事態が引き起こされている。山を荒らしておいて木がなくなれば人員を引き上げるなどは、もはや盗人の論理であり、被害者の医療費さえ出し渋る公害企業の論理同然だといわねばなるまい。付知町民が国の事業をあたかも公害企業と同じ感覚で迎えるようになった理由も、もとはといえばこうした国の林野政策の体質にある。
こ の一連の国の政策を眺めるとき、私はそこに貰かれてきた森林観というものが、森林を鉱物資源としてしか考えない思想であったと、断じざるをえない。資本財まで食いつぶしてしまう非林業的経営ぶりも、掠奪してののち山から引き上げる仕事の収めかたも、治山小業に対するあまりの軽視ぶりも、露天掘りを掘りつくして穴も埋めない鉱山事業のようなものであった。
国有林の歴史は明治維新の際、明治政府が旧藩領や、主として幕府方についた旧藩量や寺礼領を統合したことに始まっている。明治政府はその豊富な森林資源を政府の支配下下に掌握することにより、国の一大財源にしようとして事業を開始するのであるが、その過程で地元農民の入会権などの諸権利を強引に奪ったことは、今日までつづけられてきた国有林開放運動の一囚にもなっている。しかし一方、国有林が胴の管理下に置かれていたからこそ、戦後の閉発ブームにも耐えてきたという功績も見逃せない。今日、大都市周辺に孤立して残されている森林の多くは国有林であり、あらためてその果たしてきた役割の大きさを知らされるのである。特に戦後、それまで皇室の財産であった優良な森林、御料林が包括されて、国有林は名実ともに国民の財産として期待されてきたはずであった。日本の森林面積の三分の一を占めるその国有林への期待がかいよいよ高まってきている時代に、国の事業が鉱業的なそれへと転落していかねばならなくなったことの意味は重大である。
独立採算性は絆済性を根本にすえた制度であり、外部の経済諸条件によって事業が左右される。この制度の利点は、行政権によって事業が干渉されず資木維持の原則が守れるということにあり、国有林野事業もその点が重視されて独立採算制が採用されたといわれている。たしかに木材の価格が高い場合にはその利点は発揮され、事実、国有林からの収益は国の財源をうるおしてもきた。だが木材の価格が低められたとき、利点は逆にマイナスに作用して資木財まで食いつぶす結果にならざるをえない。国有林では皆伐方式をとったばかりでなく、伐齢期をしだいに下げ、生長するのはこれからという森林まで皆伐してきたのが実状であった。
上智大学の槇重博氏は、同一の木でも樹齢によって成長の早い時期と遅い時期のあることを指摘し、こんな例をあげている。「北海逝の十勝岳に安政四年の爆発による泥流跡地にできた樹齢100年余りの林がある。エゾ松、トド松などの松林だが、昭和二十四年夏にはヘクタール当り180立方メートル前後であった、が、昭和四十四年二月に行ってみると平均400立方メートルほどになっている。つまり80年生で180立方メートル前後だった小松林が、その後の20年間に200立方メートル以上を上積みしてくれたわけである。わが国では伐齢期を下げることが有利であるとし、しかも一斉に皆伐することが林業の経営方式のように考えているが、それがいかに愚かなことであるかを、この実例が物語っている」(『林業の企業性』)
簡単にいえば、小さな木が一年間にふとる量と大きな木がふとる良とでは絶対量では大きな差があるということである。優良林を持つ大山林地主が、決して伐りあせらないゆえんである。
しかも、国有林のこのような経営方式を正当化してきたのは、統計による数字の魔術であった。森林が資本財であるなら、伐採良は木来、利子である実際の生長量を越えてはならないはずである。たが槇氏は、大面積皆伐を始めるに当たって国有林の、「いま植えた苗木が将来理想的に成熟した場合に達成できるであろうと仮定した架空の生長を水準にして伐採計画を立てていったことを指摘している。その架空の生長量とは、実際の生長量の2倍に近い数字である。つまり将来貰えるか貰えぬかわからない利子を見越して、その分を元金から下ろしてきたということになる。財政上から見た国有林の赤字経営のもっとも大きな理由は、むしろこうした不不健全経営にあったと、氏は結論している。現在、国有林が「はげ山」であることは誰の目にも明らかであるのに、国有林の賃貸対照表の上では、森林蓄積量戦後ほとんど変わっていないことは、右のような苗木の生長量を見越した、数字の魔術の結果であろう。
 
木曽桧と木曽の住民(『水と森と土』「伝統捨てた社会の行方」富山和子氏著 中央新書 一部加筆)
木曽桧の本場、裏木曽の国有林地帯を訪れたときの背肋の寒くなるような思いを、私は忘れることができない。奥秩父や大台ヶ原など、日本に残り少なくなっている原生林までが裸にされていく様子はマスコミでも再三報じられていたので、かなりの覚悟をLてこの調査にのぞんだものであったが、現に目にした情景は、私の予想をはるかに上まわっていた。
木曽川の支流、付知川最上流に位置する付知町周辺の里山には、三寸角の柱材にもまだ達していない樹齢20〜30年の人工林にせよ、ともかくも桧の林が山肌を覆っていた。
それにひきかえ、国有林地に入り林道を進むほどにはげ山はつぎつぎに展閉し、ついに飛騨、美濃、信濃の三国界である稜線が閉けたとき、視界は一面のはげ山であった。すでに至るところ崩壊が発生し、その数は約7000ヘクタールの付知営林署館内面積中、1200ヵ所にのぼっていた。
木曽ヒノキは秋田の杉、青森のヒバと並ぶ目本三大美林の一つであり、この一帯は尾張藩の時代、「木一本首一つ」といわれた厳重な、取り締りのなかで、先祖たちが命がけで守ってきた森林であった。その一角には伊勢神宮、皇居新築などの特殊用材のための森林、旧神宮御林もあって、そこだけは手がつけられていず、さきの神宮改築にも、「御神木」が厳重に吟味されて選ばれ、人手をかけて丁重に伐り出されている。端財は、仏像や建築材に重用されてきた日本古来の代表的資材であり、現在でも最も高価な木材である。しかも天然の桧は、除草剤や化学肥料によってブロイラーのように育てられた里山の人工林とはくらべようもない良質のものであり、その外生長の遅さ、すなわち木目細かさは、ときには肉眼では判別できないほどである。樹齢300年を越えるそうした天然の桧がほとんど絶壁に近い急な川の斜面に、それも触れば崩れそうな風化した花崗岩の上に、岩石をその根にしっかりと抱きかかえて幹だけを天に向って屹立させているというのが、この桧林の特微であった。
林道から下の沢までだけでも200メートルの絶壁である。山の深さと頭上に辿る岩石壁のもろさとは、伐採が行なわれていなくとも訪れる人を緊脹させたにちがいない。畳二畳ほどもある巨木の根は、伐採されて万年ほどすると腐り、抱きかかえた岩石もろとも沢筋にころげ落ちる。破壊が急速に進行するのはそのあとである。皆伐後植林をしても、もはや環境は変えられているし、樹齢300の天然林が守ってきた急斜面のバラソスを、五、六年の苗木で直ちに代行できるはずもなかった。そればかりか造林が皆伐後の一斉植林である場合には、森林があっても山崩れの危険があることば常識になっている。伐った木の根が腐りはじめて侵食防止の機能が減退していく一方、植林した稚樹の根がまだ十分その機能を発揮するまでには育っていない状態のとき、森林によって差はあるが植林後五年から十数年の頃が、般も水に弱い時期なのである。
地元、岐阜県恵那郡付知町の人々は、もはや山の木材資源に期待してはいなかった。それどころか、これ以上伐るなと訴えていた。これは重要なことである。この町は木曽檜とともに栄え、木曽桧に誇りをもって長い歴史を生きてきた町であった。「伐るな」ということは、その町の人人が林業による収入を放棄することだからである。
一般には、木材産出の地元ではその経済を維持させるために、自然保護の世論に逆らって依然として伐採を望んでいると考えられがちである。しかしここでは、そのような段階をとうに通り越していた。一つには、国有林で産出する木材が大手業者に買い受けられて大都市へ直送され、地元の零細な製材所にはラワソ材が積まれて、地元民が木曽ヒノキ手に入れるには大阪、名古屋方面へ買いに出かけねばならないといった状態が、ここでも現出していたからである。一般競争による売払いの方法が取られず、指名競争と随意契約の売払いが行なわれていることの弊害でもあり、また択伐による少最生産の場合には地元にも木材がうるおうが、大面積伐採による大量生産、大量搬出となれば、一括して大消費地へ輸送してしまうということでもあった。しかしそれ以上に町民たちは、四、五年のうちにもう伐る木が尺きてしまうことを、知っていたのである。
約一週間この地に滞在して予備調査をした段階では、私は何人かの町民から起こされている自然保護の運動が、行政当局の考えているように一部の者のはね上りなのか、それとも地元民の世論に近いものなのか、はかりかねていた。しかし1800戸の全戸を対象にした調査のふたを閑明けてみたとき、日ごろものいわぬ町民たちの不安と怒りと歎きとが、数字となって如実にあらわれているのに驚かされた。町比の83パーセソトが、山の木が尺きてしまうことに不安を感じていた。そしてその85パーセソトが、不安の理由を「災害」だと答えていた。伐採作業など山での仕事がなくなるとか、木工の原料が不足するといった経済上の理由は、はるか後方へ押しやられていた。この町ではまだ災害を体験してはいず、町を貫いて流れる付知川は、「付知峡」と呼ばれて観光客の殺到する深い谷であったけれども、その河床が最近徐々に上がり流量も減って、水の出足が早くなり土砂で濁るようになったことを、町民たちは指摘していた。
1200ヵ所といわれる山地崩壊、そして拡大する侵食にひきかえ、治山事業費は年間わずか7000万円(昭和四十七年度)、1・2ヵ所の事業にも足りぬ予算だった。町民たちは治山や造林の強化を望み、しかし何よりもまず木を伐らないことが先決だと答え、治山や造林に当てっては、それを地元民の職場としてほしいと望む点、ほとんど全員が一致していた。林業に依存する町でありながら、今後も同じように伐りつづけることを望むものは、わずか5パーセソトに過ぎなかった。
町民の多くは、付知の山は自分たちでしか守れぬとの強い自負のもとに、国有林が地元自治体の手で管理され、あるいは町民たちの意見を十分ききながら経営がか行なわれていたなら、このよう事態にはならなかっただろうと憤りをこめて書き綴っていた。そしてさらに、このような事態になった背後にある、木を伐って売らねば山を支えられないような、林野特別会計制度の矛盾をも鋭く指摘した人も少なくなかった。「建設省も厚生省も旧の行政はすべて国税で行なわれているのに、なぜ林野庁だけが独立採算制でなければならないのか」と。
国有林の破壌を問題にするマスコミでも、林野庁への追及は行なってもその背後にあるこの制度にまで言及することは稀である。山深い山村の農民たちがそれを指摘し、特にこの点について質問したわけでもないのに、多くの人がすすんで各山の見解を調査票の余白に記入していたということじたい、危機感の深刻さを語ってあまりあった。この種の調査をつづけてきた私にとっても、これほど住民の意見が一致し、これほど熱っぽい成果を得たところはかってなかった。
失われゆく森林資源
大面積皆伐(『水と森と土』「伝統捨てた社会の行方」富山和子氏著 中央新書 一部加筆)
これまで私は山というものは、奥地へ行くほど鬱蒼と森林が茂り、自然かその法則に従って岩肌を見せるまでは、破壊を免れた植物たちがしだいに原始の色を深くして迫ってくるものと考えていた。
しかしいま日本の森林は、人の口にふれない奥地ほど惨たんたる姿に変わっている。樹齢何百年という巨木の生い茂っていた山ほど丸坊士にされて、無気味なはげ山の連山と化している。それは都市に代行して国が手を下した木材資源開発の跡であり、国民の財産掠奪の大事業の証しでもあった。「はげ山を見たら国有林と思え」といいたいほどに国有林の荒廃はすさまじい。
林野庁が、大面積皆伐を主軸とする国有林の経営を強行しはじめたのは、昭和三十年以降である。その背後には増大する木材需要に加えて、林業のにない手であった山村からの人手の流出と林業への意欲の減退があり、また里山を占めていた民有林での木材資源の枯渇があった。
日木の森林面積の三分の二は民有林である。しかしその実態はといえば、林業者の90バーセソト以上が農業の傍ら裏山の木を伐るといった零細林業で占められ、残る数パーセソトが優良林を持つ大山林地主である。特に石油が薪炭を駆逐してからの林業の凋落は著しく、そのうえ規格化された外材が輸入されるようになってからは、もはやはとんど自立できる状態ではなかった。林業には米のような価格も支持もない。いわば零細な林業者たちは、高度経済成長政策、最も早くから犠牲者として、都市へかり出されたのである。
現在でも、山村にとどまって林業を守る人たちに「あなたの職業は」とたずね、兼業しているものすべてをあげるように頼んでも、農業とか土木事業などの季節労務はあげえても林業をあげる者は非常に少ない。明らかにに林業にたずさわっていてである。林業地帯での意識調査の途上私はその現実に気づき、改めて林業の置かれた状況のきびしさを思い知らされた。世界に誇ってきたこの森林国は、いつのまにか林業を見捨ててしまったといえる。
こうした状況の中で国有林だけは、外部経済に左右されることない維全な経営によって、国土の守りとして残されるべき国民の財産のはずであった。
しかし国有林野事業は、林野特別会計による独立採算制のもとに置かれていたのである。林野庁はその財源をまかなうためには木を伐って売らねばならず、木を伐って売ることが国有林経営の大前提であり、目的でもあった。
一方里山での資源が尽き、大山林地主は木材を売り惜しむといった状況のなかで、木材需要は増大する一方であった。木材の価格は木の搬出費に左右される。搬出に困難な木材こそは、消費地近くの里山で生産されればこれほど望ましいことはなく、その意味では水と同じだといえる。奥山へ資源を求めればそれだけ価格は高くなり、それは紙パルプ資本や大手木材業者の望むところではない。資木の要請に応えるためには、伐採、が奥地へ進むほど合理化は必至であった。
こうして徹底した介理化が始まった。木馬道に頼り、あるいは伐った木を谷に落として筏に組んで流送した千仕事の時代には、木材の大量生産が物理的に阻まれたばかりでたく、伐るべき木も一本一本慎重に選別され、周囲の樹木を痛めぬよう人手と時間をかける自然への配慮も怠られることはなかった。が、もはやそうしたゆとりは許されず、明治以来最も効率的な搬出手段であった森林欽道さえ非効率的とされた。大規模林道が建設され、その林道の行くところ手当たり次第森林はなぎ倒され、山の木を総ざらいすることになったのである。伐採にはチェーソソー(ガソリソエソジソを利用した携帯用自動鋸。これによって山林労働者の間に「{白ろう病」という職業病が発生して問題化した)が採用され、トラクターでの伐採さえも行なわれた。伐った木を林道へ集めるにはエソジンをかけたワイヤーロープが活用された。木材搬出の技術は、急峻な山河地帯に営まれてきた日本の林業の、誇るべき遺産だった。そしてワイヤーローブの方式も、そうした伝統的土壌の中から生まれたものであった。ひとつには川が変えられ、流送がきかなくなってしまったことにもよる。ダムが建設されては、林業は川に頼るすべを失った。山と川との有機的関係は断たれ、林業は山の中だけで搬出を処理しなければならなくなった。
ワィヤーロープの方式も大規模林道による自動車での搬送も、それ自体大面積皆伐を指向する。民有林で用いられているワイヤーローブは、山が小さいこともあってロープも短く、動力を用いずに高度差だけを利用するものがほとんどであるが、国有林で用いられているものは約㎜H400メートル、長いものでは1500メートルほどもあり、しかも動力を使う。せっかく苦心して取りつけたローブに択伐(伐る木を選んで“疎らに伐る方式〕などでは機械化の意味がなくなってしまう。こうした搬出の技術からの指向もまた皆伐に拍車をかけた。皆伐はワィヤーロープや林道の高度利用であるばかりでなく、伐採作茉が他の樹木への配慮を不要とする点でも効率的であった。
けれども皆伐は、林業の資本維持の原則さえ放棄して資本を食いつぶすことにほかならなかった。もともと森林は、わずかでも伐採されると自然環境の調和が破られ、付近の成木と稚樹を損傷し、一時的に生産最が低下する。その回復は伐採で生じる空間の広いほど遅れ、皮焼が生じたり風倒木ができたりする。まして皆伐は森林にとって決定的な環境破壊であり、日本のように急峻な山岳林では土壌そのものまで失うことを覚悟せねばならない。
国際水文学協会会長、HG・ウイルムによれば、「人為の加わらない森林植生は生育するにしたがって、浸透性土壌ができやすいように環境を作るようになる。有機的落葉層は地表に貯えられ、それが分解し始めると、有機的分解物質はA₀層(著者注・有機物質の体積した土壌の最上層)に入り、バクテリヤや植物、動物が土壌形成に着手する好条件を与える。またこれを育成する根系は最表層を通して浸透し、これが死にかつ腐るにしたがって無数の通路を地下に作り、機械的安定性ができるようになる。したがって一定の期間が過ぎると、森林植生は水の浸透、貯溜に最適の条件を築きあげる。森林を伐採すると庇蔭の役目を果たす林冠がなくたるため、落葉枝葉や腐植は酸化が強くなり、雨の衝撃に会い、風によって失われるようになる。微生物や植物は急激になくなり、根はなくなって代るものがなく、雨で打たれるとA₀層は固くなり、ついに荒廃は危険な段階に達し、地表流水が始まる。もしもそのとき植生の回復が未了であれば、その後の荒廃は急激に進展する。このような流域の荒廃は、木馬道の伐開、道路の建設、九太の輪送、重い伐木造材機械の圧力等による機械的な土固めや、使役、放牧中の動物の踏みつけなどのためにますますひどくなる。(中略)乱伐は大きな危険を起こす。乾燥地帯にあっては土地のはなはだしい退化、洪水の発生、夏季の水不足となり、湿潤地では侵食の増大と土地の生産力の低下となる」(「森林と流域」、FAO編・松尾兎洋訳『森林の公益的効用」所収)
ドイツをはじめヨーロッパ諸国では、すでに18世紀から19世紀にかけて乱伐で苦い体験をし、スイスでは道路がしばしば洪水の原因となっている。このため乱伐を慎むことは諸外国では初歩的な常識であり、日本でも古くから厳に戒められてきたことであった。
外国での失敗を熟知して100年後、日本は大面積皆伐を閉始したのである。それは単に林業面から見る資木財食いつぶしであるばかりでなく、災害原因の新たな量産であった。
 

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