サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

里山森林の破壊と崩壊

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 私がこうした問題に固守するのは、私はそうした厳しい山作業や林業に携わってきたからで、それが山村文化であり、田舎の風情である面では掟でもあった。ある日大規模な森林整備(赤松皆伐採桧植林)地で、無残に転がり重機に破棄された石祠を見たときに、その配慮のなさに唖然とした。現在官民一体となって緩斜面や平坦地に近い場所に作業が集中する。これは機械作業ができる地域で仕事量も増す地域でもある。県有林や国有林は急斜面に位置していて、作業がはかどらない。出来高林業では誰もが平坦地を好む。しかしこれでは森つくりは中途半端であり不完全のものとなる。
 山梨県に今一番求められるは、針葉樹の場合は「売るために造林・育林」で」あり、ただ単に国指定の作業量確保のためのものであってはならない。しかしその作業地を見て感じることは、育っているという感じは生まれない。
 私が生きた幼少年時代には、山が生き生きしていて、働く人たちも良材を育てないとすぐに競争に負け生活も支えられない。だから山ノ神の神事など盛大に行われてきた。そのシンボルたる石祠などは里山の入り口や中間の林道沿いにあり、中には山の中には墓がある。石祠であってもそれは行き倒れの人の墓であったり、伝染病で亡くなった場合などその遺体処理も集落の仕事で場所を決めて焼いたそして埋葬して簡単な墓石や祠を建てた。いまでも木の葉に埋もれた祠が散見できる。またなかには集落や小単位集団の共同神もあり、多くの信者もいた。それは山仕事のような危険な仕事ほどその信仰心は強くなる。これは大切なことで今でも守るべきことなどである。機械作業でも手作業でも山に人が向かい時には当然の事でもある。しかし林政の手が里山にも及び、間伐や除伐も事業体と機械作業が中心になり、神も仏も関係ない人々や所轄官庁により、消失していく運命にある。単なる仕事場になってしまった。
 私は調査の過程で数多くの祠を立て直してきた。その数は多い、中には重くても難作業の場合もあった。これは続けて行きたい。しかし中には明野町に造成された企業森や教育の森の側道の傍らに麹などにより壊されそうになった信仰対象の石造物を安置してあり、ほっとした。こうした取組みこそが観光面でも地域郷土保持の基本でもある。
 林政講師と称する方々も少しはこうした過去の山仕事や信仰心を学べば、現在のような荒い事業は少なくなるとこ請け合いである。
 山野で祠の上に周辺事業の樹木根や農業資材の放置が現在の農水省の事業展開を象徴している。

 祖霊と鬼
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

 兵庫県の六甲山の麓には、年のはじめの祭に鬼の現われる寺々が多い。二八カ所のうち、四カ所の神社をのぞく大部分は寺である。神戸の長田神社も、もとは神宮寺であった薬師堂から出た鬼であった。
 これら播州地方にむらがっている鬼は、新年の豊作祈願の「修正会」の儀式に参加する。手に持つマサカリや棒や、タイマツをふりかざして暴れたり、餅割りをしたりする。またハナフリといって、山からとってきた榊の枝を千切って参詣人にまくところもある。修正会というのは、奈良時代に始まった大寺の正月の修法をいい、天平神護二年(七六七)正月に、畿内七道諸国に対し、「毎年正月には七日問、おのおの国分光明寺で、吉祥悔過の法を修し、天下泰平、五穀成熟を祈顕すべし」という勅が出された。護国仏教の思想からはじまったものである。
 この修正会は、いまも大分県の国東半島の岩屋寺・天然寺などをはじめ、各地で続けられている。東大寺二月堂の修二会は、二月の修法であるが、薬師寺の花会式は月おくれの四月に行なわれている。
 愛知県三河地方の山村に、「花祭」という鬼の沢山出る名高い祭がある。正月前後の頃、徴夜で行なわれる各種の芸能の面白さに、見物人が大勢おしかけている。この花祭には、山見鬼と榊鬼と朝鬼という三種の鬼が、時をちがえて祭場にあらわれる。この鬼の性格をみると、山見鬼には仙人・狩人・金掘りなどの山仕事に従事する人びとが信仰する<山の神>の性格をもっている。山廻りをする山の神や山姥などの仙人の観念と、山に水を仰ぐ農耕民の山への信仰が習合されていることに気付く。
 もっとも神聖なものとされている榊鬼は、山から榊の枝を根掘りにしたのを持ったり、榊の枝を腰にさして出て、反(へん)?閇(ぱい)という特殊な足ぶみをふんで悪魔払いをする。榊のもとは、花枝とよばれる香りのよい常盤木の樒(しきみ)の枝をさしたことが記録されている。この樒の枝は賢木=榊と美称されたもので、常緑の植物を聖のシンボルとしている。

 木曽の山林
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

 山また山の木曾路は、豊富な森林によって、古来重要視されてきた。ここは木曾村から南流する木曾川と、日本海へ向かう梓川を分ける高地にあたる。
 木曾の山を主とした大森林、即ち御嶽山を中心に四囲に広がる一帯と、木曾駒ケ嶽西麓一帯、表木曾・裏木曾の称のある信濃・飛騨・美濃の三国にわたる面積はおおよそ二〇万町歩といわれ、木曾川・飛騨川の水源地を擁している。江戸時代には木曾は尾張藩領で、代官山村氏にょって支配され、館が木曾福島に置かれ、幕府直轄の関所も設けられていた。代官はこの関所を守るかたわら林政も司っていたが、覚文元年(一六六一)、林政は尾張藩の直轄となり、材木奉行が任命されて、藩の山林政策が確立された。
 ヒノキ・サワラ・アスナロ・コウヤマキ・ネズコを木曾の五木といい、ヒノキ・サワラを主林木として、木曾美林は形づくられている。これらの五木は留山制度により地元住民には伐採が禁止され、もしこれを犯す者があれば直ちに斬罪に処せられた。一面住民の日常生活に必要な家具材、家屋の造作材、薪炭の類は割合自由に伐採が許されていたが、享保元年(一七一六)には、これら停止木のほかに新たにカツラ・カシ・ケヤキ等が停止木に加えられ、ますます厳重を極めたため、今日のこの栗林の基礎が固められたのである。

 木曽の運材法
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

 優秀な木曾材の伐出し事業に伴って、木曾独特の伐木運材法が工夫された。これは、河川の流れを利用した輸送法で、他地方にも見られるものであるが、弘化二年(一入四五)から嘉永七年(一入五三)に至る八年間に記録された『木曾式伐木運材図巻物』二巻が、長野営林局に保存されているので、ここに再録させて頂く。

 伐木事業一覧図
一、山植の図 山を趨とは仙人頭に材木山出しの巧者なるもの付添飯米、塩、醤油、鍋等を背負持、幾日にても行先の深山幽谷に宿り、桧、堪、黒桧など何木品にて何寸角程出来ると見積り、又谷出しは雇人夫何千人掛で大川迄幾日の間にて狩出すという大概を積るなり。
二、札小屋の図
(その一)水の手を第一の要として平日は谷水を寛(かけい)にてとり、或は汲揚て日用を足すといへども、
霧雨の節などの設に、清水を近辺に見立置く事なり。山崩れ、谷抜のおそれなき場所の材木可伐山内に補理(つくろい)、桁行は九間、梁間は二間半に限る。
(その二)四壁、屋根ともに萱、藁、唐桃(さわぐるみ)皮を以て仮初に囲い、中通り三尺は囲炉裏にして左右筵(むしろ)一枚を一人の席に定め、起居ともに他の迄にゆかず、臥時は囲炉裏の方を枕にし壁のかたへ枕するを不参枕と唱へ不快、怪我人の外はせず、また壁の方を銘々の納戸と称し他人を通さざるなり。飯米、塩、醤、持運には通例の一荷は道筋、嶮阻道にて運びがたく、米は中俵、塩、醤は七、八貫を限り人数の多少に随ひ背負持送るなり。仙人の頭を檀那といいて当日の材木の出来を平仙人より聴き質し看板にしるす。
三、祭山神の図
 仙人の小足掛調い山入最初に山神を祀り、常盤木をたて注連縄を張り、頭分のもの両三人にて御酒を奉り、材木元伐に懸れるより、かくの如く一ケ月に一度ずつ不怠(おこたらず)御酒を奉り日待と唱へ通夜するなり。
四、元伐の図
(其の一) 材木根伐せざる前に斧のみねにてきるべき木をうちて、鳥或は栗鼠(りす)など飛出ればその日その木は不伐といへり。倒るる時は発声三度あぐるなり。大木は鼎(かなえ)の足の如く三ツ足、五ツ足にも伐り残すなり。
 (其の二) −解説なし。
五、株焼の図
 槻(けやき・欅)を伐時は必彼の鼎のごとくしてその中にて火をたくなり。しかすれば生木の水気と大気とねばり合いて割る事なしとなり、他木は然するに及ばず。
六、墨打の囲
 綱打、墨を打をいふ、玉木元木を放したる丸太をいふ。綱地の山刀にて玉木の両方をいささか削り鬼皮を去る。其の木何寸角に成と見積り、綱打して猶又綱の曲りにてもなきやと綱を空に引張り、腰を極めて矯(ため)見るなり。星矯(ほしだめ)と云ふは己が背を打越し、綱打べき処の日当を見極め其の座に行て墨打つなり。上手な仙人ならではしがたき業なり。
七、文六厘の国
 文六厘といふは、如図立木をそのまま厘に用ふるをいふ。厘と云ふは材をけづる台を云ふ。
八、御山厘の図−解説なし。
九、株祭の図
 樹木伐倒し其の木の相を打て株にさしたて山神に奉り、その木の中間を山神より賜るという。古の木伐倒にて延書式大殿祭の祝詞に見え、又万葉集三ノ巻、十七ノ巻に鳥綱立(とぶさだて)とよめる、即この事なり。
十、釣木の図 
材木出来上り瞼阻の岩壁などより下す時、其の鐘狩落しては突割、胴打等の損木出来る故、苧綱を以て取木と唱へ、立木に材の大小に随ひ二巻、三巻にも巻てしめおろしするを惜みのはしと云ふ。木のおもりにて取木と網と摺合火燃え出るを水をかけ又は青柴をもって打消すなり。
十一、サデの図 
嶮巌の高山より伐出の節、谷筋計り出しがたき所に山の姿に随ひ丸木にて取建て、柴木を以て編み、材木引のすれば人力をかけずしておのづから走りくだる具なり。さりながら勾配強きは嶺をはづれて外へ走せ落る故土を入れて速に馳せゆかざるように構ふるなり。是を土サデといふ。また勾配弱くてはさらに不馳行(はせゆかず)、此の強弱より心得たる者ならでは造りがたき事なり。
十二、臼の図
 サデの曲尺(かねじゃく)の如くまかれる隅にその材を以て組建るを宇須(うす)と云ふ。題の片方の加伝木(かてぎ)を除きて義ひ、柴に材木突きあたれば勢にて首尾振りかわし尾の方前となり、おのづから立板の上にて廻り下サデへ移るように
は造れども多くは突留り、或は横さまに成りたるのみにて不動、からくして引下せば次の材を山上より繰出す。されは日一日かかりても数多くは不通なり。此造やうは殊に日雇人夫の上手ならでは組立てがたき業なり。
一三、算盤の図
 小坂山内根尾の滝上より材木、朽木伐出時は滝壷へ向ひ狩落しては疵(きず)痛みにて損木多分なる事なれば、丸木を両岸より掛渡し滝を除いて山方へ山の姿に随ひ道を造り狩出す、是を算盤といふ。其の形の似たるもって名つけたるべし。此の滝の高さ七十五尋と云 ふ。
一四、簗(やな)の図
 材木を以て魚簗のごとく組立て、いささかの谷水といへども一滴も漏らさず、塞(せ)上げサデのロへ仕掛れば材は濡れてよく走り、塞上の方は水湛て材を扱ふによろし。
一五、樋の図
 谷底より高き所へ材を運び上げる時、水谷を塞ぎ上げ材木を以て樋を組立て、継手には苔、芝、落葉などを詰込み、水一滴も不漏(もらさぬ)やうにして引揚るなり。
一六、修羅の図
 谷筋、岩高あるひは朽木、根返木などありて狩出しがたき所に材を組立て谷水を塞掛上げるを水修羅と云ひ、若し掛り難き所には下の谷底より汲取て背負のもれる。いささかの水気を得て自由に狩下すなり。
一七、伊勢大神宮へ神納木渡入の図
 仙人、山入斧初に材を伐り、吉日を選み大川に引入るを渡入と云ふ。旦竺組不残立寄、木造を謡ひ神納木を渡入するなり。男木一本、女木一本、長五尺五寸、四寸角。
十八、製材及判の図−解説なし。
十九、仙人具の図−解説なし。

 材木流送図
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

一、伊勢神宮の川狩無難守の図
 材木川狩にかからぬ前に伊勢へ代参をたて、御祓大麻をこひ得て青竹の先に結什、木尻に添ひ持運び川下げ無難の守とす。
二、小筏の図
 此の筏は木尻に添ひて両岸より鳶竿のとどき得ぬ川中の掛木を外し狩流すためとす。
三、管狩の図
 山元より美濃の下林生・湊までの川丈二十五、六里計りの問、急流難場にかかれる多牟波(たんば)、吹込木を外し狩下るを管狩といふ。多牟波とは川中に相対せる岩間に横さまに掛りたる材を云ふ。
四、鴨筏の図
 長二間材六、七寸角五、六本を藤葛を以て結合せ小筏におなじく木尻に添下りて木をはづし、又日雇人夫などの川越にも用ふ。
五、登り械の図
 登り械(かせ)、下り械(かせ)の二つあり。造り方は大かた同じ、川中の岩などの有所へ材木流れ入っては狩出がたく人夫も多くかかる事なれば、械をさして然る所へ入さるべく防ぐなり。
六、はね橋の図
 人夫通行のために材木を以て川中へかけ出して一本木を架渡す。いともいとも危ければ馴れたる者ならでは得わたらず。
七、切所狩下の図
(其の一)飛騨国益田郡中切村にて字釜といふ所川幅狭く中央に大岩立て高さ四、五問はかり。大滝あり、川筋第一の切所なり。材木ここに押掛れば川中の岩に横たへる数千の材木流通る事を得ざる故に両岸に苧綱事をさげ、筏を釣りて鳶竿を持って付添居り一本づつ繰り出し流すなり。此の釜といふ所、間遠からず二所ありて上釜、下釜といふ。ふたつながら同じさまにて
川岸に釜の形して中凹たる大岩あり。其の外奇岩幾個もあるなり。
八、切所狩下の図(其の二)解説なし。
九、留網の図
 親綱、浮木、クツ木、張網、矢巻綱、矢木、矢からみづな、あゆみ木、千鳥づな、尻あゆみ木、しっペい木、尻からみづな、なは何れも麻苧綱。留綱 詮木−浮木(うきぎ)・木覆木(ぶくり木)・執柄木(しっべい木〕・歩行木(あゆみ木)・タツ木(たつ木)・箭木(や木)・下駄木ハげた木)張綱−麻苧綱イチビ(糸宁)紆桧綱を用ふ・尻からみ綱・矢からみ綱・矢巻綱・胴からみ綱・千鳥綱 此の下駄木親綱の前の下にあり。
十、留綱張渡の図
 美濃の国の堺金山村より一里上、飛騨国中切村にて川中に大綱を張りわたし、材木、榑(くれ)木ことごとく此網に掛る。一本ずつ繰り出し惣数を改む、此所を下原の中網場と云ふ。網長七十余聞、シラクチ藤を以て周五尺余寸に打立て、張渡し材木流来るに随ひ綱重りのため網の上へ引上げ二重、三重にも敷並ぶるなり。
                          つまて
十一、角乗の図
 筏に乗りはなれなどせし時、流れ来る枛(つまて)に乗りて岸によすに人夫休足の節角の上にて諸芸をなす。鯱立、平臥一足立、角廻しなど水上急流をも畏れざる様など是を曲乗りといふ。
十二、切所掛り木の図
 益田川筋にて(美濃国では飛騨川という)美濃国加茂郡加知村のうち咽と云ふ所は、鴨筏、小筏にも乗通る事かなはず。岩石連りて掛り木多し故に持篭に人夫を入て釣りさげ、掛木に綱を付けさせ、シャチ、カグラサンにて巻上げ或は鳶竿にてはずさしむ、山元より美濃麻生湊迄のうち、彼の中切の釜と此所とはいづれも劣らぬ切所なりともいへり。
十三、筏士の図−解説なし。
十四、筏組立の図
 筏楫(かい)、ヒソ木、カリユツボ、装束木。
十五、筏乗下げの図
 美濃国下麻生湊にて下原中綱のごとく川中に綱を張り渡し筏に組立、筏一枚に三人づつ乗り、同国太田まで乗下げ、それより尾張国白鳥湊に着る也。
一六、白鳥湊着筏の図 尾張国犬山よりは筏のうへに筵にて囲ひたる支度所を構るなり、是を(かまぼこ)といふ。
 又筏一枚に舟一隻を添るを見送り舟といふ。
十七、尾州白鳥湊の図
 尾張国白鳥湊にて元船のかかれる所をぼたと云ひて木揚場に揚置たる材を此所まで筏にて
 運び積入るなり。此の「ぼた」と云所潮浅ければ、材を半分ばかり積入、夫より大芥といふ所まで漕出し積満るなり。
十八、揚木の図 解説なし。
十九、卸木の図
 船積の節卸木といひて揚木場に積置たる材を引きおろし、登掻(のぼせかき)と唱へて再筏に造り元船まで乗下るなり。
二十、大船の図
 千四古石入り元船。

 米と日本人
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

 日本には野性の稲はなく、稲作農業は南国から伝わってきたとされている。稲作の起源は弥生時代という従来の定説は、今日大きくゆれ出している。稲作の起源は、日本民族の根底に関する大問題の一つといわれてきた。昭和二十九年の暮れに、東京中野区江古田植物化石層から、イネの化石が発見され、日本に、むかし野生のイネが生えていたことが知られた。その後も、縄文遺跡から板種や焼米が一緒に出土したという報告はいくつもある。昭和四五年には、金沢市の泥炭層から稲の花粉が検出され、二千年以前の縄文時代のものと認められている。
 日本米は粘りけが強く九味を帯びているが、外米はさらっとしていて形もひょろ長い。日本米と外米は、又の名をヤポニカとインディカという。ヤポニカがもとから作られていたのは、日本列島と朝鮮半島だけらしい。準内地米という配給米は、たいてい明治以後、日本から渡っていったヤポニカで、いわば外国でできる日本米にあたる。日本の米つくりは西の方からはじまって、しだいに東に広まったものとみられるが、北海道で米がとれるようになったのは、だいたい明治以後になる。朝鮮半島も、南の端の方では古くからつくられていたが、北にまで及んだのはずっと後のことである。また赤米といわれる早稲は、インド渡来のインディカで、これは南九州に多い。このインディカも、古くから渡ってきて、自然に、あるいは人為的に交配
されているから、厳密にいえば、日本でできている米はみなヤポニカである。
 稲はどこから日本に渡ってきたかという説は、稲が熱帯性の植物であることに起因している。稲を作る人たちが、稲をたずさえて、どういう経路かで南の方から−黒潮に乗って? いや陸地伝いに? 伝わったという考えが支配している。
 稲は熱帯性の植物だから、日本に自生したはずはないというのは、大昔の日本が今日と同じような気候であったということを前提にしている。ところが、日本にも氷河のあともあれは、ナウマン象の化石も出ているので、大昔から今と同じような気候が続いていたわけでなく、非常に寒かったこともあれば、非常に暑かったこともあることがわかる。珊瑚やインド象の化石も出ているくらいだから、稲が生えていたことも不可能とはいえない。
 日本の国土の過去を考えるとき、温度と乾燥度による気候区分と、植物生長区分が大きなめどになる。日本の温暖帯の常緑広葉樹林は、ユーラシア大陸東部沿岸地域の特殊形態といわれ、同じ温暖帯の常緑広葉樹林である地中海地域の硬菓樹林とは区別されている。主となる樹木は、ブナ科の常緑樹で、東南アジアの山岳部あたりを本拠とするカシの類である。縄文時代には、日本列島の関東以南は、山岳部をのぞきカシ類におおわれていたことが考えられる。
 この時代の農耕文化を、専門家の方では五つの段階にわけている。第一段階は野生の植物を採集する段階、第二段階が半栽培の段階、それ以後は栽培の段階となり、第三段階が根栽、第四段階は雑穀栽培、第五段階は水稲栽培となっている。この第四または第五段階あたりが、縄文時代から弥生時代へと移行するころと考えられる。この時期の栽培植物の特色をみると、

(一) 野性採集段階
 木の実(クリ・トチ・シイ・ドソグリ・クルミ)
 野性根茎(クズ・ワラビ‥アソナソショウ)
(二) 半栽培時代の品種の選択・改良はじまる(クリ・ジネンジョ・ヒガンバナ)
(三) 根栽植物栽培段階
 (サトイモ・ナガイモ・コンニャク)焼畑
(四) ミレット栽培段階
 ヒエ・シコクビエ・アワ・キビ・オカボ
(五) 水稲栽培段階
 イネ水田栽培・潅漑その他の施設こ永年作畑
という一覧ができる。
 長野県冨士見町井戸尻遺跡の竪穴中から、長さ一六糎くらいの炭化したパンが見つかっている。これは、デンプン質であることはまちがいないが、何で作られているかは、炭化しているのでたしかめようがない。ドングリ粉にヤマノイモ、またはワラビ粉などをまぜた、多分にねばりのあるものが考えられる。パンは、岐阜県の竪穴からも発見されているので、縄文時代を通じて、澱粉を水でこねて石皿で焼いた食物が利用されていたことが考えられる。奈良県の橿原方面では、イチイガシの、信州八ヶ岳周辺ではミズナラ・コナラのドングリが食用にされていた。
 農業は一挙におきるものではなく、ある程度推移の状態を経て農業になってくる。野生食物の採集より一歩進んだ半栽培は、クリなどのように大きい実のものを育てたり、クズを移植したりする。樹皮をのばして衣料にするカジの木なども、集落のまわりにばらばらと植えて利用された。縄文時代に農耕があったかどうかは結論がでていないが、縄文前期ないし中期から後期にかけて、「半栽培」という考えの農耕文化はあったことが認められる。
 縄文遺跡から発見された、食用植物性資料のはっきりしたものをあげると、
アラカシ・イチイガシ・イヌガヤ・コナラ・クリ・オニグルミ・ミズナラ・サンショウ・トチ・ウリ・ハス・ムクロジ・ヒシイネ・カヤ・クヌギ・クログワイ・マテシパイ・モモ・シイ(イヌジイ)・ツバキ・ヤマゴボウ・ヒメグルミとなる。
 縄文遺跡の貯蔵坑からは、ドソグリが多量に発見されていて、右のようにドングリのなるブナ科の植物が多く食生活に用いられたことがわかる。焼畑による畑作農業では、アワ・キビ・シコクビエ・ヒョウタン・マクワウリなど、畑作のほとんどが栽培される。穀類では陸稲が問題になる。陸稲は水利条件の悪い山地でも生育するので、日本に水稲系の稲が導入されるよりも、ずっと早くから陸稲系があったことが考えられよう。
 焼畑による畑作農業は、かなり山岳地帯に浸透し、各地に集落を作った。今日も、中部山岳地帯や、中国山脈のかなりの高所に人が住んでいるが、ながい伝統的な生産をたどることができる。遺跡から、穀類の取り入れに使う石包丁や石鎌が出土すれは、そこには穀物栽培があった有力な証拠になる。しかし、日本は南北の気候差や、東西の地域差などが交錯しているので、東北が縄文晩期といっても、九州では弥生時代が始まっていることもありうる。日本全体が同じような発展段階を進むというわけではない。ヒエ・シコクビエ・アワ・キビ・オカボ(陸稲)などの栽培段階のあとに、水稲の段階を考え、これを縄文晩期か、弥生時代初期にはじまるとしてきた。しかし、弥生時代になって、一挙にすべてが水稲栽培にきりかわったわけではなく、従来のクリ・ドングリ・球根などの半栽培的なものも重要であつた。このことは、静岡県登呂遺跡からは、ヒエ・ソバ・
マクワウリ・ヒョウタン・モモ・クリ・オニユリなどが一緒に出土し、また、岡山市津島遺跡(ともに水田をもつ)では、クリ・オニグルミ・トチ・ドソグリ・シイなどが、かなり出土していることからも知られる。
 今から約一万年前に氷期が終わって、日本の気候がしだいに暖かくなると共に、針葉樹が減り、ブナなどの落葉広葉樹がふえた。四千から四、五百年前は、北半球のどこにも共通した今より暖かい時期があった。それから少し涼しくなって、AD四五〇年ころまで続いたが、それ以後は、人間の活動によって自然に手が加わるので、気候の判定がしにくくなっている。この気候帯の変遷は、地下に埋蔵された植物の花粉分析によって大体確立した。この時代は、考古学では縄文土器の時代に相当するので、土器の年代を測定する放射性炭素の含有率を計って得られた縄文土器の時代区分を、気候変化の時期区分と対応させると、縄文期における生活環境の変化も追求できる。そのはじまりから晩期までの一万年近い縄文期に、使用された各種各様の土器の用途や、その食生活との関係をあきらかにすることは、日本文化の深層を知る有力な手がかりになるものである。
 山地・高地に古くから住んだのは、別章にものべたように、食生活を中心とする種々の条件が有利なためであった。穀物の栽培も、山地から始まってしだいに低地の水田へと拡張された。神話に、天照大神が、「このものは人間が食べて生きてゆくべきものだ」といわれて、栗・稗・麦・豆を畠の作物、稲を水田の作物として、天の狭田、長田にうえられたという農業のはじまりをみても、畠と水田が区別されている。中国では、田という字は陸田、日本でいう畑のことで、日本でいう田を意味するときは、水田とか津田という。畠や畑という文字は、「漢字」ではなく。日本人が作ったもので、日本では田は水田の意味で用い、水のない意味の白という字と田とをあわせて畠とし、また火と田をあわせて、焼畑耕作の意味で畑という字を作った。
 米と、米以前の雑穀とが、弥生時代に急に入れ替わったとみなす人はあるまい。また、縄文文化が弥生文化へと、年号が替わるように移ったという見方もおかしい。米作りが外国から渡って釆たものだという証拠などもない、日本人が米を神秘なものとし、稲作を神聖なものとする感覚が、稲を弘法大師が海外から持って帰ったものとか、狐や鶴が天竺(インド)から運んできたというような話を育てた。理想化された異境に稲作の起源を考えるのは、宗教的な心理にもとづいている。これは神話に結びつくものである。
 村の伝統的な祭は、春と秋に行なわれ、春は旧の二月、秋は十月頃が一番多い。春の祭は、今年の米がよく稔るようにというトシゴイ(祈年)で、秋の祭は、できた米を供えての感謝祭になる。夏祭は、ほとんどがスサノオ関係の神社で行なわれる祓いの行事であり、これも稲作に害のあるものを、除こうとするものである。また、いまの勤労感謝の日になった新嘗祭りは、古代部落の行なうきびしい物忌みであった。天皇が即位後一回だけ行なう大嘗祭は、唯一の国の大祀にあたり、これを執り行なうことによって、天皇の資格を完備されるといってもいいほどのものである。
 さらに、中国地方や東北地方に、つい最近まで見られた「大田植」という、歌曲ではやす田植祭などをみても、米つくりがいかに古くからの由緒ある宗教的な神聖な行事であったかがおしはかられる。
 大化二年(六四六)の正月に行なわれた大化の改新は、政治・経済の根本的な改革であった。農地と人民をすべて国家に直属させた公地公民の制と、里程の制、さらに戸籍・計帳・田制を定め、田の調その他の新税制を定めるなどの、画期的な制度が着手された。
 それ以後の日本は、「米と人口」の歴史といってもいいほど、米の収穫高と人口の問題が政治・経済を動かしてきた。なぜなら、輸出も輸入もなかった明治時代までは、生産と消費とはいつもつり合っており、つり合っていなけれはならなかったはずである。米の収穫高と作付け反別とは相互関係にあるから、米の収穫高から人口を推しはかり、人口の数から田の面積を推定することが当然できる。そこから各時代の数字を総合すると、<一反=一石=一人一年>という基準がなりたつ。
 水田墾田を中心にした不安と闘争が、二千年の歴史をつらぬいて、日本の社会を動かしてきた。将来の米づくりをどうするかという政治の「時務」も、古くて新しい問題である。

 火の発生


 日本の祭には、火が重要なものとして登場する。神楽のかがり火、田楽祭のたいまつをはじめ、火を燃やすことが祭であるものも多い。夏祭にも、提灯や行灯や花火などが、宵祭を火で彩る。
 水の禊ぎによって汚れをはらい、別火の物忌精進をすることによって神聖を保つことが、日本の祭を成立させる主要な条件になっている。火は人類の生活に欠かすことのできない要素であるから、祭に火を使うのだという常識だけでは、祭りの火の意味を説明したことにはならない。数千年に及ぶ歴史をもつ日本人が、原初的な神聖を保持する儀式として伝承してきた祭は、また人類に共通な深い感情がこめられてもいる。
 紀元前の縄文時代には、シャーマニズム的な信仰が行なわれ、種々な儀式のあったことは、遺物や遺跡をまつまでもなく考えられる。われわれの遠い先祖が、火に対していかに感じ、火といかなる精神関係をもっていたかを、考えることによって祭りを見直してみたい。近代科学的な知識によってではなく、素朴な感情で火を考えることによって、祭りの意味をみてみょう。
 風雨をしのぐだけの竪穴式住居のなかで、人びとは、炉の火をみつめながら何を考えただろうか。山から集めた薪の火は、それを見つめる人間にとっては迅速な生命の生滅でをり、完璧な生成の一例である。流れる水の単調さでもなく抽象的でもない。繁みのなかに毎日見守る小鳥よりもすみやかに育ち変わってゆく火は、時間を変えて人間を駆りたてる欲望の、全生命をその終末へ、死の彼岸へとつれてゆこうとする欲望の暗示をもつ。その時こそ、夢想が人間の運命を押しひろげる。それは小さなものを大きなものに、炉を火山に、一本の薪の生命をひとつの世界の生命に結びつける。火に魅せられた者は「焚火の死の呼び声」に耳を傾ける。彼にとって破滅とは、ひとつの変化以上のもの、まさに再生なのである。火に対する愛と尊崇とは、生の本能と死に向かう本能とを互いに結びつける心理を導き出す。
 原初的な生活のなかで、人間は五官の機能を動員して、身近なものや環境のできごとから宇宙の構成要素を想像する。そしてその体験を、自然が人間に好意的であるよう願うために工夫する。例えば、乾いた木の二片をすり合わせることによって火をうみだすことを思いついた理由を、木と木の磨擦による山や森の火事からだと説明するのは、帰納的合理主義にほかならない。これは素朴な観察の諸条件を追体験するのではなくて、ひとつの既知の科学から出発した推論によって判断を下しているのである。現在でも人びとは、山火事について、これといって他に原因を見出すことができないとき、不明の原因とは、摩擦作用かもしれないとつい考える。摩擦作用というよりは、ひとつの「衝撃」であって、発火をひきおこすはずである摩擦と同じように、ながい準備された漸進的な現象を暗示するものは他にはない。
 噴火している火山、落雷によって燃えあがる森を人間が認めたとすれは、きびしい不順な季節に裸体のまま耐えてきた人が、そこで身を温めようとすぐに駆けだしていっただろうか。むしろ逃げ去っただろう。火の光景は、大部分の動物を怖れさす。自然がさし出した火の有難い効果を経験した後でさえ、人はどのようにしてそれを保持したのであろうか。一度消えてしまったら、人はどのようにして再びそれをともすことができたであろうか。もし、乾いた二切れの木片がはじめて野性の人の手に入ったとしても、いかなる経験が、速くてながい継続的な摩擦によって火を呼ぶことができるということを教えるであろうか。磨擦によって火をうみだす「客観的」な試みは、人間の全く内的な経験によって示唆されていることに気づくのである。火の
現象とその再生産は、人間自身の発火=男女の愛という、もっとも身近な体験を無視することはできない。愛された肉体を火と燃えあがらせる、情愛のこもった摺り合せの内的な経験のことである。愛の衝動との認識が発火の類推的思考を育てたので、人間は火の文化を保持し得たのである。松の枝木で男女の人形をつくって結嬉式をさせる神事は、私にはイザナギ・イザナミ男女神そのものを思わせる印象があった。
 数年前訪れた滋賀県栗東町上砥山の「山の神祭」を私と一緒に見学したフラソスの芸術家は、その純粋なこころと表現に感激して、帰国後早速<日本の恋人たち>という見学記事を、かの地の雑誌に発表した。
 永遠の愛は、男女の松の肉体を打ちあわせる深夜の結婚によって発火を可能にする。聖なる抱擁によって一年間燃えつづける火は、森の祭場に風雨のなかに消えるにまかせられる。そして新しい年がくるごとに新しい発火が準備される。
 年に一度の祭りは、神の「みあれ」を季節の回帰ごとに火の生滅と人間の生に交流させている。この中心に火というテーマが包まれている。
 また、植物の神性が古代人の心中に大きな場所を占めることは、賢木(さかき・榊)や笹葉や森の社、神木などに表われているが、これも常緑の生気を身につけるという二次的なことよりも、木の人間的機能である火のためである。発火の生命をもつものとして、人間の生命に加わる素材だからである。
 古い神社には、火を磨擦にょって鏡り出すことが大切な神事として伝えられている。出雲大社や三河一宮砥鹿神社では、桧の台板に空木(うつき)の棒をさしこんで発火させる。伊勢や熱田の神宮では、棒に糸と玉をつけた上下旋回の方法をとっている。砥鹿神社の火鑚(ひきり)神事は二月七日の夜に行なわれ、少女巫女が、発火した火から移した燃える松のたい松を持って神剣をまたいで、の字に廻る火の舞が、八束穂神社の前で行なわれる。
 神楽舞には、かならず火が焚かれるのが本来の古式である。夜通し燃えつづける火に誘われるように、祖神たちが出現する。神面をつけた神々の舞が、あるいは村の未来の吉凶をつげたり、あるいは魔払いの足どりをふんで行なわれる。中国地方から九州へかけては、火の神を荒神として具体化させた荒神神楽が多く見られる。火による生産性は、神話にも語られ、農耕儀礼のほとんどに応用されている。田楽踊りの楽器に木片を数十枚つないで鳴らす「ビンザサラ」という特殊なものがある。これは、溝を刻んだ堅木の樺を割竹でこすって鳴らす「ササラ」とはちがって、左右から圧を加えて鳴らす。この「ビンザサラ」を使用する祭は、年のはじめの農作祈願に多い。私はこの楽器「ビンザサラ」は発火のための乾いた木片を表わしたものとみている。佐賀市の「川久保田楽」は秋十月に行なわれるが、四人の少年が女装して、金属の円板と花串をつけ、母親の丸帯二本を結んでたらした花笠をつけ、忌みごもりの姿でビンザサラ舞を行なう。かもじをたらしたうしろに切り筋を入れた半紙をつけて、風雨よけといっている。舞の途中で二人の年上の少年が、白扇をひらいて焔をあおぐ振りがある。忌異にこもって熟饌を炊く童女をかたどったこの舞は、まさしく火の神聖を表現している。
 また、九州の宮崎県には、五ツ木村の近くの山中(西都市銀鏡・しろみ軋)に銀鏡神楽という、二十二曲の神楽を二日にわたって奉納する祭りがある。夜明け近くの二十二曲目に、屏風囲いに坐る女装禰宜を太陽神に見立て、二本の日の丸扇でさそい出す手刀男命の舞がある。このあとに、女面をつけ、摺りこ木・杓木・飯つぎ・飯しゃもじを膿のてごに入れた女神が出て、楽人と問答しながら擂り粉木を陽物の代用品にして、天地陰陽の初めの神話を語る。陽物の働きをカリュビンという鳥より教えをうけて使いわけ、東西南北をさしてしぐさをする。この「室の舞」につづきオキッヒコ・オキツヒメの男女の神が、竃の罪汚れを祓い清めるという火の神(おきえ)の舞がある。岩戸開きの手刀男舞の前には、縄の雌雄の大蛇を真剣で三つに斬る「縄の神楽」があり、スサノオの蛇退治を思わせる。まことに、神話を立体的に演劇化したすぐれた神楽が山中によく伝えられたものと驚く。ことに出雲・大和系の天体神話よりも、陰陽の交わりの由来と竃の燠(おき)の汚ればらいのあるのは、火に対するより純粋な信仰を知ることができる。天ツ神や太陽神崇拝などという抽象観念でなく、根源的であり具体的である民俗要素に対する崇敬を祭りに見出すことを忘れてはならない。
 火の祭りは、山地山村の人びとの間によく固有の伝統を伝えているので、山の祭りという言葉におきかえることができる。例えは、天竜川流域の中部山岳地帯の冬に数多く見られる神楽と田楽は、徹夜の舞処に大たいまつや湯釜の火を焚きつづけて、湯による清めを中心にしているので、火祭りでもある。その詳細は第九章に紹介してあるが、火の内的な感覚を形式に表現するために、修験道的要素や陰陽道的要素が渾合し、さまざまの形を見せている。祖霊観念を表わした鬼や火の王とよぶ火神などの面形の神を登場させている。男女交合の身振りは喜劇的な笑いに組まれ、はらみ女は豊作を暗示する。宮崎県の高千穂盆地の夜神楽には、五穀を司る神々の舞のあとに、男女神の酒こしの物真似が笑いを誘い、つづいて「地割り問答」という荒神=竜神が、台所の竃前の視膳を女主人から受けて座敷に舞い込み、神の身分と働きをおごそかに告げる高千穂神楽のハイライトがある。山村各地の祭りの夜は、男女の交際が自由で、あるいは「木の根」祭りといわれたり、結婚のきまる機会であったことがいわれている。
 早乙女たちが、赤い腰裳もなまめかしく田の神に奉仕する神事の田植祭や、男性陽物をふり廻す豊年祭りなどは、すべて豊作祈願のための感染呪術といわれている。臼と杵に見立てられた男女の性や、木の男根などが登場すると、見物人は寒さも忘れてくつろいだ気分になる。このもっとも具体直接的な反応は、火熱の祭式的認識をもとにしている。「相生の松」や神社の神木・能舞台の松羽目なども、火から出発する人間心意のシンボルが、聖樹崇拝という定義におきかえられていることがわかる。祭のさまざまの表現には、祭式のもつ本質がかくされているので、数多くの体験によって、その祭のポイントをつきとめなけれはならない。古くからつづく祭は現代のいわゆる商工祭やショウ・娯楽などとは全くちがう。生存維持に対する精神的な体験であり、原初の哲学である。したがって、祭は神話を具体化した演出をもち、神話は、祭の存在することによって意義をもつことになる。それゆえ、一国の文化の性格を知るには、祭と神話をまづ知ることである。現象の背後に横たわる根源的なものをとらえる時に、民族固有の信仰は時間と空間をこえて、人間の文化として認められるのである。


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